土星の日

宇津木健太郎

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五十嵐幹也の場合 その1

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 桐生愛華は、変わっている。
 いつも、何処を見ているのか分からないボーッとした表情と態度をしているのに、クラスの中で誰より頭の回転が早い。きっと、この学校に在籍しているどの教員よりも切れる。
 数学の学年主任が作る定期考査の最終問題は、満点が百二十点になるように作られる。いつも大学入試レベルの、二十点のおまけ問題が一つ挿入される為だ。点数が取れない生徒の為の救済措置だと言うが、そもそもそれが解ける様な生徒は数学が赤点になるかならないかの瀬戸際に追い込まれる事態にはならないので、無意味だ。ただ、彼は生徒の困る顔が見たいだけなのだ。
 当然、彼のテストで百点より上を取れる生徒は居ない。桐生さんを除いて。去年一年生の二学期期末試験の時など、問題文の数字を変えた方が問題としての完成度が高いからと、回答用紙の裏側にその場合の数式と証明を書いて提出した位だ。勿論、テストは百二十点だった。実力試験の点数も、いつも全国上位に食い込んでいる。
 だが、点数さえ取っていれば文句無いだろうとばかりに、出席日数はギリギリだった。何でそんな事をするんだと訊いた事があるが、彼女曰く、自分のやりたい様に生きて悪い事がある筈ないから、という、何とも感想に困る回答を貰った。
 だが実際に、彼女が自分の好き放題に行動して他人に大きな迷惑を掛ける、という事は無かった。唐突に姿を眩ませて家から離れた県まで出掛ける時などはいつも警察に迷惑が掛かっているが、精々その程度のものだ。犯罪を犯す訳でもない。
 他に問題があるとすれば、本人の言動そのものだろうか。桐生さんと付き合っている僕がそれを問題と言うのだから、他人から見れば相当なものに見えるかも知れない。
 昼休みに本を読みながら、僕と堂守二人が隣の席で指していた将棋の棋譜を全て暗記していた時や、下校途中で鯛焼きを買い食いしたのは一年四ヶ月と十二日ぶりだと答えた時などを披露する度、同級生や友達はその驚異的な記憶力のコツや理由を尋ねるのだが、彼女は決まって、だって分かるんだもの、と全く為にならない答えが返ってくる。
 何か学校で落し物をした時に桐生さんにその旨を伝えれば、その場から一歩も動かずに何処何処にある、誰々が拾っている、と即答する。五年以上前に引っ越したクラスメイトの友達の、一度しか耳にしていない住所と電話番号をスラスラと答えて、二人と再び連絡を取らせる事に成功した時は、頭の中に引き出しがあるから何でも思い出せる、と事も無げに言った。
 一番驚いたのは、僕と彼女、箱田姉弟と四人で下校していた時の事だ。人気の無い横断歩道の信号が青になって渡ろうとした時、桐生さんが僕とアニーの制服を突然握り締めて、珍しく焦って「駄目」と言った。僕らは全員足を止めて何の事かと顔を合わせて横断歩道を渡らずにいると、居眠り運転したトラックが建物の陰から飛び出し猛スピードで横断歩道を横切り、交差点に突っ込んでいった。幸いにも被害者は出なかったが、桐生さんが止めなければ、僕らは間違い無く大怪我をし、最悪この世からサヨナラしている可能性も低くはなかっただろう。青ざめる僕達を他所に、桐生さんはピザを注文する様なトーンで、電話を使って警察を呼んだ。この時の彼女の説明は確か、「虫が知らせてくれたの」だったと思う。比喩的な意味ではなく、文字通りの意味で、と。
 こんな話ばかりだが、困った事にこれらは全て噂話でも何でもない、歴然とした事実である。
 そんな彼女だから、一部の生徒や先生には不気味がられた。でも、彼女の言う「超能力」がある事とそれを事も無げに口にする事、そしていつでもボケーッとしている様子な事以外は至って普通だ。流行りの服装や化粧には興味があるし、音楽は恋愛をテーマにしたポップスが好きで、スイーツなら何でも食べる。だから女友達はそこそこ居る。けれど、男子はそんな掴み所の無い彼女に言い知れぬ魅力を感じながらも、近寄り難いものを感じていたのではないだろうか。
 僕も、そんな男子生徒の一人だった。波風を立てない様な選択をして、なるべくならば平穏に荒波を立てない様な生き方をしたかった。
 それでも、彼女を好きになった。でも、それは決して伊達や酔狂からじゃない。アニーもアンディも堂守も、僕を変わった奴だと率直に評したが、祝福してくれた。彼らの目には、僕らの交際が真面目なものだとちゃんと映ってくれたのだと思う。
 当たり前だ。幾ら周囲が桐生さんの事をどう口にしようと、僕にとって彼女は自分達と同じ年齢の、一人の女子高生なのだ。そこに、大きな違いなんて無い。
 呆けている事は相変わらず多い桐生さんだったが、何となく彼女自身に変化が起きている事は周囲の皆も察しているらしかった。少しだけ表情が豊かになった事と、前よりも学校に来る頻度が上がった事が、誰の目にも明らかだったのだ。
 そんな彼女が、七月も半ばに差し掛かった或る日、その言葉を口にした。
「嫌な予感がする」
 具体的に何が起こるかは、分からないらしい。それでも、彼女がそう一言口にするだけで僕は不安になる。
 達観している様な雰囲気を醸し出している桐生さんは、何かを予感したとしてもそれを口にしない。先述した交通事故の様な生死に関わる様な物事や、大きなトラブルに巻き込まれて周囲に甚大な被害が生まれる様な事案についてならまだしも、例えば明日は雨になるとか、誰かが転んで骨折するとか、帰りに電車が落雷で止まるとか、そういった様な事も何となく察知は出来るけれど、誰かに伝える様な事はしないのだ。僕や一部の友人に対しては忠告程度はするけれど、それだけ。
 もう少し誰かの為に使ったら、と苦言を呈した事もあるけれど、その時の答えは、
「不必要に不気味がられたくないし、元々そうなる様に出来ている事に首を突っ込むのは何か違う気がする」
「でも、僕らが危険な時は助けてくれるんだよね」
「それくらいのエゴなら許されてもいいじゃない。危険が及ぶであろう人全員を助ける事なんて出来ないし、だからと言って私が助けられる人を助けないなんて、そんなの公平でも平等でもないわ」
 そんな答えだったから、それきり僕は何も言っていない。とにかく、そんな彼女だったから、不吉の予兆に関する突然の告白に面食らってしまった。
 何かを予感する時、その具体的なイメージは見えないと言う。全ては直感的なものであり、ただそれを回避する為の行動を本能的に理解出来る類のものらしい。正に、予言ではなく予知と呼ぶものだ。
 いつも予知って曖昧だよね、と笑うと、桐生さんは真面目な顔で僕を見上げながら答える。「だって、匂いみたいなものなんだもん」
「匂い?」
「例えば、秋刀魚を焼く匂いがあったとするじゃない。秋刀魚を焼いてるその視覚と併せて匂いを嗅げば、それが秋刀魚の匂いだって分かるけど、目隠しされていきなり匂いだけ嗅がされても、すぐにはそれが秋刀魚の匂いだって分からないわ。魚の匂いだって事は分かっても、具体的な食材の名前を思い出せなかったりするでしょう。逆に匂いだけしか分からなくても、秋刀魚だって言われればその匂いだって確信出来る。私が『分かる』って言うのはそういう類のものなの」
 分かる様な分からない様な、そんな話。
 困った僕は、歩調を崩す事無く歩き続けて空を見上げる。大雨の過ぎ去った七月の空はからりと晴れ渡り、とても気持ちがいい。今日のプールの授業はさぞかし快適な事だろう。
 こんな素晴らしい天気の一日に、何か不吉な事が起こるのだろうか。勿論、幸不幸に天候など関係無い事は承知しているけれど。
 外れるといいね、と適当に口にすると、信じてないの、と少しむくれた表情をして、桐生さんは僕を睨め付けた。箱田の占いよりは信頼してるよ、と答えると、鞄で少し強めに叩かれた。
 噂をすれば陰とやらで、校門に到着した所で箱田に出会った。と言っても、姉ではなく弟の方だ。明るい天然の茶髪は、後ろ姿だけでも目立つ。僕らは正面玄関へと向かう生徒達の合間を縫って彼に近付き、猫背気味のその背中をポンと叩いて挨拶をした。
「おはよ、アンディ」
 特に驚かせるつもりはなかったが、彼はビックリして体を縮こませて振り返ったので、逆に僕の方が驚かされた。僕と一歳違いの彼は、しかし僕よりずっと長身の体を強張らせていたが、僕の顔を見るとすぐにホッとする。
「何だ、五十嵐君か」
「いつもそんなビビらなくてもいいだろ。僕が先輩だからって」
「驚かされるのは苦手だって、いつも言ってるじゃないか」
 不服そうに彼は肩を落として息をついた。日差しが照っている所為かいつもより目を故意に細めているので怒っている風に見えるが、アンディが怒っているところを僕は見た事が無い。いつだって、彼は優しいのだ。そんな青い瞳を持つ彼の為にも、やはり夏場の登下校時にサングラスを掛けてもいいという校則を整備するべきだと考えるのだが、生憎、その進言が申し受けられた事は無い。まあ、装飾品関連の校則を一つでも許可したら、僕ら生意気盛りの高校生はそれにかこつけて、化粧やアクセサリーに寛容になれと身も蓋も無い言いがかりをつけ始める事は明らかなので、無理からぬ事だろうけど。
「今日は何か不吉な事が起きるってよ」
 アンディに言うと、え? と彼はまた驚いた顔をしてみせた。「何で?」
「桐生さんが」
 答えるとアンディは桐生さんに目をやって、うーん、困った風に頭を掻いた。桐生さんは無表情に、ボーッとアンディを見上げていた。
「何かは分からないけど」
 桐生さんが言うとアンディは苦笑して、そこまでは期待してないよ、と気軽に言ってみせた。
「アニーは、今朝何も言ってなかった?」
 尋ねると、「ううん、何も」と返事が返ってくる。「何で?」
「占いで何か出てないかなー、と」
「信じてるの?」
 アンディは意外そうな、そして小馬鹿にした様な表情をして僕を見る。まさか、と笑って、僕は挨拶もソコソコにその場を後にした。優秀な弟とは違って寝坊しがちなアニーの事だから、きっと今日もスクーターで遅刻ギリギリの登校になるのだろう。クラスにも、やはり彼女の姿は無かった。
 ……桐生さんの不思議な話や超能力的なその力を、実のところ僕は信じていない。彼女の予言は曖昧な事も多く、取り様によってはどうとでも取れる様な話も多い。だが、それが必ず何かの結果をもたらす事は知っているし、その記憶力や失せ物探しの能力は本物だ。
 それでも、能力は超常的なものではない。人類が気付いていないだけで、きっと何かしらの科学的な力が作用している事は間違い無いのだ。化学の証明出来ていなかった自然現象や化学反応を、嘗て人類が奇跡とか錬金術だとか呼んだ様に。
 だから、この穏やかな午前の授業中に何ら異変が起きなくても、僕は何も不思議に思わない。桐生さんの事を知る友達やクラスメイトも、「きっとそういうものだろう」という風にしか捉えていない筈だ。
 彼女には、他人にそう思わせるだけの不思議な魅力がある。カリスマとは違う、だけど人を惹きつける不思議な何かが。
 昼休みが終わり、食事も終わって堂守達と校庭でゴムボールでキャッチボールをして遊んだ後、とても強い睡魔が僕らを襲う。その授業が、あまりやる気を感じさせない教師による現代文の授業ともなれば尚更だ。せめて内容が面白ければ朗読箇所もすっ飛ばして読み進める事が出来るが、今日の範囲は退屈な随筆文だ。比較的真面目に授業を聞く進学校のこの生徒でも、クラスの半数近くが机に堂々と突っ伏している。そして教師は、それを諭す気も無い。朗読の順番が回ってきても寝ている生徒の名前を呼ぶだけだ。
 そんな、気怠い静かな夏の午後の空気が教室を覆っている。開け放った教室の窓から、時折申し訳程度の風が入って来るだけだ。そして、そんな風が余計に眠気を誘う。
 それは、そんな微睡みの中で見た幻だったのかも知れない。
 寝ぼけ眼で空の遠くをボーッと見ていた僕は、青空の向こうに浮かぶ雲の更に向こう側で一瞬だけ光る何かを見た。そんな気がした。
 昼間に見る流れ星にしては、余りにも光が強かった。勿論、飛行機を見間違えた訳でもない。それだけは分かる。
 あれ、と思わず小声を出した。目の錯覚と言うにしても、はっきりとした人工的な光に思えた。意図せずして視界に入れたそれに、少しだけ目が覚めて周囲を見回す。窓際の席に座る僕以外に窓の向こうを眺めていた生徒は、誰も居なかった。桐生さん一人を除いて。
 彼女は僕と同じ様に窓の外のずっと遠くを見つめ、いつもの様にボーッとした表情のままだった。
 見た? と、授業が終わってから僕は桐生さんに尋ねた。何を、と事も無げに淡々と返事を返した彼女に、空の向こう、と答える。彼女は無言で頷いた。「何か、光ってたね」
「飛行機かな」
 絶対違う、と思いながら取り敢えず口にすると、桐生さんは躊躇いも無く即答する。
「UFOだよ」
「そうかそうか」
 さらりと流すと、信じてない、と朝の様にまたむくれた。
 だが、無理も無い事じゃないか、と心の中で言い返した。僕は、桐生さんの引き起こす結果の事は信じていても、超常的な力がもたらしているという仮定程までは信じていない。それと同様に、幽霊やUFOも信じてない。常識の範囲の外にある現象を信じない人間は、例え決定的に近い証拠を突きつけられたとしても、それを決して受け入れない。逆にアニーの様に頭から超常的存在を信奉している人間は、どんな科学的で些細な現象もオカルト的な根拠として受け止めてしまう。
 何にせよ、例え桐生さんにさえ何と言われようと、僕はUFOを信じない。
 それにしても、桐生さんが本気でUFOの存在を信じているのかどうか、今の彼女の発言だけで断じる事は出来なかった。取り敢えずあの光は、微睡みが見せた幻というわけではなかったという事だが。
 どうしたんだ、と堂守が声を掛けてくる。桐生さんは「UFO見たの」と平然と言うが、堂守の反応は、やはり僕と似た様なものだった。もういいわ、と言いたげにわざとらしい大きなため息をついた後、桐生さんは頬杖を突いてそっぽを向く。そんな僕らの様子に興味を持った女子グループの何人かが集まり、ワイワイと話に花を咲かせる。彼女達は彼女達で、凄い凄いと大した意味も無く盛り上がった。
 そんな、ちょっと声が大きくなって話がクラスに伝播し始めた時、よく堂守と一緒に居るサッカー部の近藤が勢い良く手を挙げ、大きな声で宣言した。
「見た見た、俺も見たよUFO!」
 その声を皮切りに、何でもない筈の十分休みはちょっとした騒ぎになった。僕の様にUFOを信じない生徒は呆れか興味が無いかで声を上げず、ただ騒ぎに乗りたい者や超常的存在に魅力を感じるアニーの様な連中は、近藤の元に集まってやいのやいのと騒ぎ立てた。結果として、それが真実であるか否かを全く問題とせず、噂話は尾鰭をつけて学年中に伝播する。
 因みに、はっきりと姿を見たと口にする近藤の話に耳を傾ける必要も無く、僕は彼の言う言葉が嘘だと知っていた。第一、彼は先程の五時限目が開始して早々に机に突っ伏して眠りこけていたのだ。だが、元々明るくおちゃらけた調子の彼の話はあっという間に皆に受け入られていく。その騒ぎは、六時限目が始まっても続いた。


「嫌な予感って、あの騒ぎの事だったんじゃないの?」
「違う。あんな感じじゃない」
 喧しく鳴く蝉の居る木の下のベンチに座り駄菓子屋で買ったアイスを食べながら、僕達は誰も居ない公園を見つめ、桐生さんが予感したと言う不吉についての話をする。結局一日の授業が終わっても、僕らのクラスはUFOの話題で持ちきりで、クラスのSNSアカウントや個人のアカウントも、UFOの話題ばかりで一杯だ。正直、これ以上あまり眺めていたいと思える内容ではない。
 この騒ぎの根幹は確かにUFOに関連した話題に違い無いが、その噂がここまで肥大したのは一つの嘘が原因なのだ。だから、何だか腹が立つ。
「近藤の奴、あんなので人気になって嬉しいのかな」
 僕も桐生さんも、そして多分一部のクラスメイト達も、彼が嘘をついている事を知っている。だが、興味が無いか関わり合いになりたくないので、その嘘を指摘する事はしない。
 いつだって、好評価よりも悪評の方が勢い良く人々の心に侵入して広がっていくのは変わらない。何より、進学校であるにも関わらず月に一度か二度は暴力沙汰で問題を起こしている彼に反発しようとする生徒は少ない。
 ただ従順にしていれば何の波風も立たないで日々平穏に過ごせると理解している為、彼の取り巻きや同じ様に問題を起こす生徒に対して、自然と賛同する人間が増えてしまっているだけだ。そんな僕に、桐生さんはアイスを齧って答えた。
「誰も、本質なんて見てないもん。見る必要も無い話題だったし」
「そんなもので騒ぎ立てて、何が面白いんだろ」
「そんなものだからこそ、誰でも気軽に騒ぎ立てられるのよ。ベースになる情報や知識の無い話題だからロジックなんて滅茶苦茶でレベルの低い話題にしかならないけど、敷居はとても低いから、勢いだけで盛り上がれる」
 やはり、達観した風な口調で彼女は言った。桐生さんはああいった、過剰に騒がしい空間が苦手だ。僕と同様に。だけどそれが不吉になるわけではない。やはり、彼女の予感したものは別にあるのだろうか。
「でも、あんな小さなどうでもいい噂話が大それた話になるかも知れないよ。オーソン・ウェルズの宇宙戦争事件みたいにさ」
 かの事件が示す様に、大衆が与太話を信じるかどうかは、矛盾の有無は大した問題ではないのだ。問題は、矛盾を見抜けるかどうかだ。
 そして今日のUFO騒ぎに限って言えば、そもそも根拠になるべき情報は何処にも無い話なのだから、どれが矛盾でどれが真実かを見極める事は重要じゃない。
「明日には、もっと大騒ぎになってるかもよ」
「この程度なら、一過性のものよ。瞬間的な加速はとても速いけれど、根拠が無いからすぐに忘れ去られるもの。今日中に、もっと違う何かが起きる筈だわ」
 桐生さんはそう断言するが、一日はもうすぐ終わる。勿論、嫌な予感などというものは杞憂に終わるに越した事は無い。「その顔。信じてないでしょう」
 少しだけぼんやりとしていると、桐生さんに心境を看破された。慌ててかぶりを振って否定するが、あまり隠す気も無かった態度だった為に余計機嫌を損ねてしまったらしい。でもむくれたその横顔は、普段のミステリアスな大人びた表情とは違う、年相応の幼さもある。だから僕は、ムキになって否定する事も出来ず、笑いながら誤魔化したり謝ったりする。そんなものだから、やはり桐生さんの機嫌は直らない。
 だから、僕は一つ提案をした。
「じゃあ、今日中に何か起こったら、お詫びに何でも一つ言う事聞くよ」
「何でも?」
「物理的に不可能な事は無しで。代わりに、何も起こらなかったら今度の日曜日にデート行こう」
 提案すると、桐生さんは僕の方を見ずにじっと公園の中央に目を向けたまま黙ってしまった。だが、それまで微動だにしなかった両足をパタパタとせわしなく動かし始めている。僕はそれ以上口を開かず、彼女の返答を待つ。
「……今週は、春香達と遊びに行くから無理」
「えー」
 だから来週なら、と答えを貰い、僕は明るい心持ちでアイスの最後の一齧りを口にした。
 誰かが、不幸になるかも知れない。誰かが怪我をするかも知れない。
 勿論、不吉な事なんて起こらなければそれが一番いい。だけど今だけは、それさえもどうでも良くなってしまう。桐生さんと手を繋ぎながら夏の道を歩き、唇を合わせる、そんな一日の終わりに何が起ころうと。
 僕には、関係が無い。


 家に帰って、課題を済ませ、家族と平穏な夕食を取って風呂に入って歯を磨いて。
 それでも、僕らの平穏な一日には何の不幸も訪れず。
 来週末は何処へ行こうかと期待に胸を膨らませながら眠りに就いた、一日の終わり。
 ……僕は、一日の終わりとは就寝ではなく、時計の長針と短針が十二を指して重なるその瞬間までである事を思い知らされる。


 夢の中で、僕は一人で立っていた。
 場所は、何処か分からない。素足で感じるその感触は、土と草。ひんやりと心地良かったが、空気は少し肌寒い。
 周囲は、薄暗かった。どちらかと言えば夜に近い暗さのその空間で、耳に聞こえる音は何も無い。少し離れたところに舗装された道があるのは見えるし、かなりの間隔を開けてその道を車が定期的に通っているのは確認出来るが、何故か音は全く聞こえなかった。車の車種も色もギリギリで判別出来ない程度のそんな暗い夜の中、僕は一人で立っている。それでも、不思議と恐怖は感じなかった。
 周囲を見回すと、車道と草地以外に見える物は殆ど無い。ただ振り返った後ろの方に、家が一軒立っている。僕の家とは似ても似つかない塀付きの立派な家だったが、何故かそれが今自分の住んでいる家だと直感的に理解する。だが家に明かりは灯っていない。自分が住んでいる筈なのに、それが空き家になっている事も同時に理解した。
 その白い家の外壁が、うっすらと橙色に染まっていく。同時に、周囲の風景も同様の色彩に染め上げられていった。
 とても弱々しい明かりだった。そして、その明かりが日の出の太陽のそれと似ている事に気付く。そうか、夜明けだったんだ。だから少しだけ周囲の様子が分かったんだ。そう考えて、僕は正面に視線を戻した。
 何処までも何処までも広がる草地は、地平線まで続いている。一直線の車道と、間隔を開けて走る車、そして背後の一軒家以外には何も無い。飲み込まれそうな薄暗い空が頭上に広がり、その遥か向こうの地平線から、明かりが差している。
 だがそれは、太陽ではなかった。
 太陽にしては余りにも弱々しい光で、僕が見慣れた太陽とは似ても似つかない巨大さで、そして地球との惑星間の距離を考えれば、現実では決して有り得ない大きさだった。
 そう、惑星だ。僕は、肉眼で直接視認出来るこの惑星の名前を知っている。

 土星だった。

 だが決して、本来地球から見える土星ではない。
 もしも月の距離に惑星があったら、という科学系の記事で画像を見た事がある。それはまさにその姿そのものだった。目の前に見えるその土星は、環の端から端までが僕が見ているこの視界一杯に広がる程に巨大だったのだ。
 その巨大な惑星は、しかしただそのよく知られる姿を見せているわけではない。それは惑星であるにも関わらず肉眼で視認出来る程度に恒星の様な光を放っており、そしてそれは禍々しささえも感じる橙色だった。正確に言えば、赤と黄色をグラデーションに混ぜ込んだ様な、夕焼けの様な色をした橙色だ。氷の粒子に過ぎない筈の土星の環でさえも、ほぼ同様の輝きを放っている。
 車は、まるでその星が見えていないかの様に無関心に走り続け、その流れを絶やさない。僕以外の人間は誰一人としてそこに立っておらず、ただただ無限に広がる草地の上で呆然と立ち尽くす。
 それ以外に、何が起こるわけでもなかった。ただ異様な輝きを放つ巨大な土星が、地平線の向こうから徐々に全容を見せていき、地表の全てを照らし出していくだけだ。
 ただ、それだけなのに。
 僕は幻想的なその光景に心奪われると同時に、どうしようもない不安に心を食われそうになってしまった。
 こんな夢の中で、僕はたった一人。誰も居ない。疎らに通る車はただ何物にも何者にも見向きもせず通り過ぎていく。
 広いこの星で、僕は、独り……


 目が覚めた時には、滝の様な汗を掻いていた。目覚まし時計は、まだ鳴っていない。日の出時間はかなり早い筈だが、空はまだうっすらと白んでいるだけで、まだ夜は明けきっていない。僕はベッドから立ち上がってカーテンを引き、それでも眩しさを感じる外の世界に目を向ける。
 当たり前の、変わらないいつもの日常風景がそこにはあった。家々やビルの向こうから登ろうとしている光の塊も、いつも僕らが見ている太陽に間違い無い。
 変わった事は、何一つ無い。
 それなのに、決定的な何かが変わってしまった様な、そんな予感がした。
 ただの、変な夢に過ぎない。なのに、何故こうも胸騒ぎがするのだろうか。
 

 いつもより少し早めに家を出て、僕はぼんやりと、いつもと変わらない通学路を歩く。学校に到着するまでの二十分弱、何度も顔を頭上に向けて晴天の空を見る。透明な光が街を照らしているだけで、橙色の惑星は空の何処にも浮かんでいない。
 美しさと禍々しさを同時に内包していたあの惑星は、僕の脳裏に強烈なイメージを残して消えてしまった。時間の経過と共に徐々に土星の正確な記憶は薄れていき、ただその夢を見た事で不安が残っている、という感覚だけは体に染み込み始めている。
 期末考査を来週頭に控えた状態だというのに、授業や勉強に集中出来るかどうか。僕は気を重くしながら教室のドアを開けて中に入る。
 様子が、おかしかった。
 まだ十人弱の生徒しか教室には来ていないが、その全員が一箇所に集まり、何事かを話している。だが談笑と呼ぶには少々空気が重く、明るい表情を浮かべている者は居ない。僕が教室のドアを開けると同時にそのほぼ全員が僕の方を振り向いて、視線を向ける。気圧されて、どうしたの、と出入り口付近で僕は立ち尽くす。グループの中の一人、堂守が僕に尋ねた。
「いや、な。最初はただ駄弁ってたんだけど、その内容が……。五十嵐、お前、今日夢見たか?」
 心臓が飛び跳ねる。一瞬、思考が追い付かなかった。だが、少しだけ間を置いて僕は乾いた口を動かす。「夢って」
「見てないなら別にいいんだけど……土星の夢を、見なかったか」
 体が硬直した僕は始め、何も答えられなかった。ただ、驚いた顔はしていたと思う。不安そうな堂守達の顔を見て、決してからかいや悪ふざけの類でこんな質問をしているのではないと悟る。だから、僕は唾を飲み込んでようやく答える。
「オレンジ色に光る、でっかい土星の夢なら、見た」
 そうか、と堂守は口にした後、顔色を変えた他のクラスメイトを見て答える。
「俺を含めて、この中の内、七人が同じ夢を見ている」


 そのカミングアウトから、昨日のUFOどころではない騒ぎへと事態が豹変するのに時間は必要無かった。
 その後も、登校して来たクラスメイト一人一人に夢の事を尋ねると、多くの者が口を揃えて土星の夢を見た、と口にした。しかも、今回は近藤がそうであった様に、嘘をついて答えたとは考え難い。というのも、僕らはクラスメイト達に、「土星の夢を見たか」としか訊いていないのだ。だが僕らが追加情報を口にする前に、夢を見たと答えた生徒は皆、環を含めて土星が赤やオレンジに光り輝いていた、と証言したのである。夢を見ていないと答えたのは、十人前後の生徒だけだ。
 燃える土星の夢を見た生徒は僕らのクラスだけに止まらず、他クラス、他学年、そして騒ぎを聞きつけた教員の多くまでもが、燃える土星の夢を見たと証言をした。皆の証言は完全に一致しており、後方にポツンと建つ一軒家、まばらに通る車、そして何処までも続く地平線の向こうから太陽の様に上ってくる燃え上がる土星を、多くの者が見ていた。体感としては、夢を見た人間は学校全体の七割から八割と言ったところだろうか。
 大人達は、その日見た夢の記憶にいつまでも縛られる訳にはいかない。だから教師達は皆、「馬鹿な事言ってないで授業を始めるぞ」といつも通りの職務を果たそうとする。だが、僕らは違う。彼ら大人の半分かそれ以下の時間しか人生を経験していない僕らに、そんな心の余裕など無い。今までに経験した事の無い事象が突然目の前に姿を現し、そして思考と興味の一切を支配してしまった。
 そしてこの言い知れない不安と高揚は、昼休みに入った時にアニーが呟いた一言で一気に爆発した。
 アニーは自身のSNSのアカウントを、僕や桐生さん、堂守に見せ、顔を青ざめさせてこう言ったのだ。
「私達だけじゃない」
 彼女がSNSで発信したメッセージは、勿論土星の夢について。そこに、夢の中の土星が赤やオレンジに燃え上がっていた事は、書かれていない。
 だがそのメッセージに対してのリプライには、「私も燃え上がる土星の夢を見た」という報告が多数相次いでいた。
 皆が呆然とする中で、僕はちらりと桐生さんの方を見る。
 彼女は窓の外をぼんやりと見ていたかと思うと、つい、と積乱雲の向こうの青空を指差して言った。
「また、UFO」
 うんざりだった。
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