土星の日

宇津木健太郎

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桜坂みおの場合 その1

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 娘の千秋が学校からの保護者連絡を渡してきたのは、土星の夢騒動から四日が経過した日だった。私が仕事から帰ってきた夜、私の代わりに作ってくれた夕飯と一緒に添えられていた。内容は、世間を静かに騒がせている土星の夢について。
 一部生徒の間で、土星の夢についての論争や意見が激化し、生徒間でのトラブルが増えているので、教員のみならず保護者からも、子供に夢を見た事の無意味さについて諭すのを協力して欲しい、という旨の内容だ。
 娘がトラブルに巻き込まれない様に、と配慮し、そして努力するのは勿論親の役目であり、その事について私も重々承知しているつもりだ。だが、肝心の私の心中こそが穏やかではないので、寧ろこうした騒動がそこかしこで起きているという事に不安を募らせるばかりである。
 私は、夢を見なかった。いつも通り夜を過ごし、朝に目を覚まし、朝食を作りながら千秋と私の分の弁当を、昨日作り置きした料理の中から見繕ってこしらえる。千秋も、土星の夢についてなんて一言も言わなかった。勿論、たかが夢を見ただけであればそれをわざわざ口にする事なんてないだろうけど。
 もう一人の娘、千夏については分からない。借金を作った元夫(ああ、名前なんて呼びたくない)の所為で大学進学が出来ず、それ以来あまり笑わなくなった。声を掛けて話をしようとはするけれど、朝に私と千秋が家を出る時はまだ寝ており、家に帰ってくるのは私達が寝た後、夜遅くだ。同じ家に居ながら顔を合わせないというのは、とても奇妙な話だけれど、私は彼女にどう声を掛けていいか分からない。生活費として毎月ちゃんと家族で決めた額を納めてはくれているが、あの子がどんな仕事をしているのかも分からないままで、そのままそのお金に手をつける事も出来ていない。
 夫が新事業を立ち上げる直前まで、彼自身が起業の為のパートナーと信頼関係を築くか、或いはもう少し信頼出来る相手を見付けるかしなかった事を恨む時はある。だが、私は夫の作った借金の返済についてだけは文句を言わずに支払いを続けている。闇金に手を出していなかっただけまだマシだったろうと考えるしかない。
 それを言い訳にするつもりは無いが、仕事に時間を取られて娘達と関わる時間が持てないのは、やはり苦しい。
 家族の時間が欲しいと思っているのに、私は一週間の内の殆どを仕事で終わらせ、日曜の休みは一日中横になっているか、家事をするので精一杯だ。疲労も溜まり、娘二人に構ってあげられる時間も殆ど無い。それでも、今度こそ千秋だけは大学に進学させてやりたい。千夏とも、もっと日常的に接する時間を増やしたい。
 ……そう思っている内に、もう三年が過ぎた。
 そんな死に物狂いの三年間に、たった一晩の内に起こったこの土星の夢により亀裂が入り始めたと自覚したのは、今日の事だった。
 休憩時間に席を離れ、時間は短いながらも他のOLの女性達と雑談をする機会がある。そんな時に、彼女達はここ最近、決まって土星の夢の話題を口にするのだ。
 経理の何某さんは夢を見なかった、だからこの前あんなミスをしたんだ。営業の何某さんは夢を見なかった、だから成績が上がらないのは、きっと夢を見られない程度の頭しかないからだ。私はちゃんと夢を見た。新入りのあの子達はチヤホヤされてるけど、あんな子達と比べられる事自体がおかしい。私は夢を見られる頭脳を持っている。
 そんな、ただの夢に過ぎないそれを、見たか見なかったか、という結果にかくも執着する彼女達が怖かった。それでも、たったそれだけの事で人を区別する彼女達に拒絶されるのが空恐ろしい。だから、
「桜坂さんは、夢を見てどう思ったの?」
 そんな、私が土星の夢を見ている事を前提として悪意の無い質問をしてきた時、まさか夢を見ていないと答えられる筈も無く、私はネットでちらりと見ただけの情報を必死に引っ張り出して、当たり障りの無い返答をした。夢に対する印象は人によって様々であるという情報が既に周知されていたのは僥倖だった。
 それでも私は安心出来ず、通勤や帰宅途中の電車の中ではスマートフォンを使い、土星の夢に関するありとあらゆる情報を収集した。知識と理論で私は私の心を鎧で纏い、ただ自分自身の守護の為に奔走した。
 今は、自分自身を偽る事に精一杯だ。他人に自分がどう見られているかを気にするのに手一杯で、そんな私が千秋に声を掛ける事など……
 私はぼんやりとしながら箸を動かし、千秋の作った夕食を口に入れる。最近は私が料理を作る機会もめっきり減って、日曜日の夕飯も時々千秋に任せるようになってしまった。夕食を食べながら思うのは、そんな私よりも千秋の作ったこの料理の方が美味しいかも知れない、という感想。そして、母親としての存在価値について。
 なるべく苦労はさせたくない、勉強に集中して欲しいという思いから、私は千秋にアルバイトする事を禁止している。だが、隠れてあの子が本屋で働いている事は知っているし、それを咎める事も出来ない。抱えた借金の所為で苦労をさせているという罪悪感の他に、彼女が自分の事はなるべく自分で解決しようとしている自立心がしっかりと芽生えている事に、少なからぬ喜びを感じているからだ。
 それでも、学校に関する事は自己解決をして欲しくない。私自身が身をもって体験している、この土星の夢騒動については特に。
 私は食器を片付けて簡単に明日の朝食の準備だけして、千秋の部屋に向かう。ドアの隙間から強い光が漏れているから、まだ起きているのだろう。私はノックをした。入っていいかと確認をすると、うん、と返事があった。私はドアノブを回し、部屋へ顔だけ覗かせる。千秋はコンポから音楽を流し、勉強机に向かって宿題か何かをしている様子だった。或いは、部活の用を済ませているのかも知れない。「何?」
「学年通信、読んだよ」
「ああ、土星の夢の」
「うん。……千秋のクラスは大丈夫?」
 少し躊躇いがちに尋ねる。千夏はコンポのボリュームを下げて苦笑いしながら、「心配するような事なんて何も無いよ」とあっけらかんと答える。そう、と私は答えるものの、一つだけ気になる事があり、もう一つ質問した。
「千夏は、土星の夢って見たの」
「見たよ。だからハブになんてなってないから、安心してよ」
 時間を取り過ぎたか、少し千秋の声が苛立った。それでも私は心の内で胸を撫で下ろして、「分かった。おやすみ」と答えてドアを閉める。
 化粧を落としてお風呂に入り、歯磨きをして、テレビを見ながら寝る前のストレッチをする。仕事から帰った社会人の為に、民放であっても国営放送に近いトピックスを放送する傾向の多いこの時間帯ではあったが、今日はその局のニュースでも土星の夢についての話題を取り扱っていた。それでも所詮は夢に過ぎないという局の判断だろうか、スタジオには心理学などの専門知識を持ったゲストはわざわざ招かれておらず、ただキャスター達が取材ビデオやこれまで収集した情報についてのコメントを各々発言している。
 そんな彼らのコメントの一つ一つを聴き逃すまいと構えていた私の前に、土星の夢現象に関する一つの話題が追加された。
 それは、This Manと名付けられた現象についてだった。
 二〇〇六年、ニューヨークの精神科医が一人の女性の診察をした。彼女は「会った事の無い男が何度も夢に現れる」と相談し、医師は彼女の夢を元にモンタージュを作成した。だが、後日彼女と似た夢を見る男性患者が来院し、再びモンタージュを作成すると女性の夢に現れた男とそっくりだった、という。興味を示した医師が仲間の精神科医にモンタージュを送ると、新たに四人、同じ証言をする患者を発見した。
 不思議に思った医師達がウェブサイトを立ち上げて「This Man」と名付けた夢の目撃情報を収集すると、世界各地から約二千人、この男を夢で見た、という証言が集まったと言うのだ。
 今回の土星の夢の現象は、このThis Man騒動に似ている。それよりも遥かに規模の大きな現象だが、その分、影響力も非常に大きい。しかし夢である以上、その夢を見るメカニズムや論理はThis Manと共通している仮説もあると言う。それが、ストレスを感じる状況で誰もが夢に見る元型論と、夢を介して触れる事の出来る創造主の姿であるとする宗教論。
 科学的考察に基づくならば前者であるとする意見がスタジオ内で多数を占める中、少数派ではあったが後者を科学的アプローチから推すグループも居た。彼ら曰く、或る一つの事象について共通の見解を持った人々こそが、共通の夢を見る事が出来たのだと。それはつまり脳機能ではなく、教養などの知識面から個々人を分析する事が必要だと唱えたところで、このコーナーは終了した。
 私は、頭の中にこの情報を書き込み、忘れないようにする。だが、既に四十も半ばを過ぎた私の記憶力は少し危うく、最近ではメモを取らなければならなくなった。それでも、この情報収集は決して止めてはならない。
 私が私である為に、私は私を偽らなければならないのだ。


 仕事をしたい。仕事をして、お金を稼がなければならない。それでも、労働基準がうるさい昨今、会社は社員のオーバーワークを許さない。有給休暇を取る事を義務付けられた私は、久し振りに土曜日に休みを取った。一日中、千秋達と過ごす事が出来る。
 陰ながら、年甲斐も無くワクワクしていた私だったが、実際二日間フルで休みになって戸惑う。土曜日は千秋は予定も無く、家でぐうたらと過ごす予定らしかったが、そんな段階になって私は愕然とする。
 千秋の好きなもの、興味のある話題、関心事、学校での事。
 私は、それのどれも知らなかった。
 娘とのコミュニケーションを取ろうとして、その実何もしてこなかった私自身の無力さを痛感する。私はただ、娘と一緒に居たいだけだったのに。それでもどうにかして、私は震えそうになる声をどうにか律して、リビングでテレビを見る千秋に向かって口を開いた。
 千夏は、まだ寝てるのかしら。そろそろお昼だけど。
 千秋は振り返って、不思議そうな顔をして答える。
 お姉ちゃん、仕事行ったよ。
 全ての会話が、とても遠くに感じられた。今の私には、何も無いのだろうか。
 偽りの自分が持てるものなど、今この家の中に存在するのだろうか。
『夢は人それぞれが見るものであるとは言っても、見るものが同じな場合、これは能力によって左右されるものですからね。日常生活にも影響は出てくるんじゃないでしょうか』
 コメンテーターの言葉だけが頭の中をぐるぐると回り、娘の言葉よりも自分の言葉よりも、私にとっては余程大きな声に聞こえる様に思えた。

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