土星の日

宇津木健太郎

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南康介の場合 その2

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 情報は、矢継ぎ早に繰り返し放送しなければならない。そしてそれは更新されなければならない。事件や政治的トピックであれば、それはどうしても結果を待ってからでなければ不可能な行動だ。だが土星の夢は違う。いい意味でも悪い意味でも、この話題については具体的な終点が見えない。いわば、都市伝説の様なものだ。だからこそ、俺はこのThis Manという話題を盛り込んだ。土星の夢に関するニュースの評判が上々だったお陰で、俺は更にもう一つの番組のディレクターを任されたのだ。勿論、土星の夢についてのトピックを盛り込んだニュースを流す。
 This Manの件については、俺も知らなかった。教えてくれたのはあの、SNSで最初に土星の夢についての書き込みをした女子高生からだ。
 彼女は昨日、SNSの短文メッセージだけでやり取りするのは難しいからと、直接顔を合わせる事を提案した。報酬もよこせという事を遠回しに伝えてきたので、生意気な小娘だと思いながらもポケットマネーで現金を用意し、指定の駅前で女子高生を待った。
 やってきたのは、一目見てハーフと分かる顔立ちの整った美少女だ。近くの喫茶店に入り、彼女は早速、彼女の知り得る土星の夢に関する知識と情報を俺に話す。その内の一つの話題が、This Man騒動についてだった。
 実を言えば、このThis Manの話題以上に俺の利益になる様な突出した情報は特段無かった。学生が独自に調べられる事などたかが知れており、強いて興味深い点を挙げるとするなら、学生ならではの柔軟な発想から生まれる仮説がとてもユニークだったという点だけだろう。所詮、心理学者が分析し、話した様な情報は出てこない。出てきても、それは俺達がテレビ放送上不必要と判断して意図的にカットした部分である。
 唯一興味が湧いたのは、クオリアという言葉と概念についての話だった。少女は土星の夢の事を、『クオリアを共有する装置だ』と断言したのだが、俺にはそのクオリアという言葉の意味が分からない。訊くと、そんな事も知らないのか、という馬鹿にした風な表情で説明してきた。
「とても端的に言ってしまえば、『或る事象に対して主観的に受け取る印象や感覚』の総称ですよ。例えば、このテーブルに赤い林檎が置いてあったとする。私も貴方も、この林檎の色覚情報として『赤い』という共通の認識を抱きます。この、『私はこの林檎の色の情報に対して赤いという情報を得た』という感覚的な意識をクオリアと言うんです」
 今ひとつ捉える事が出来ず、ふーん、と気の無い声を出すと、それを察したのか別の例を出す。
「この場合は音に例えた方がいいかも知れませんね。例えば、ブザーの音。同じ場所で同じ音を複数人が聞いた場合、『ブザーの音そのものの性質』は絶対に変わりません。つまり、客観的・音域的・データ的に捉えた場合のブザー音がそれです。でも、ブザー音を聞いた人達はその音を、必ずしも絶対同じ音で表現するとは限りません。それが『ビーッ』という音だったり、『ブーッ』という音だったり、様々な『彼らが聞いた音の捉え方』がある訳です。要するにこの様々な擬音が、彼らにとってのそれぞれのクオリアと呼べます。これは言語でも同じ事で、猫の鳴き声の擬音は日本では『ニャーニャー』ですが、英語では『Mew Mew』になりますし、ドイツ語なら『Miau Miau』になります。ミームの違いは、あらゆる状況で生まれるんです」
「ミーム?」
「生物学的遺伝子によらない、共通認識の事です。例えば、新聞やテレビの情報は、全く別の他人に向けて発せられて、そのニュースの通りの情報を視聴者や読者の脳にコピーされるでしょう? この場合、そのニュース内容に対して全く同じ定義と意味が定まる訳ですが、この定義の事をミームと言うんです。ただ正確には、実際のミームはもっと非言語的で、感覚的・文化的な定義の事を指す事が多いです。そして何かの影響を受ける事で事象に対するその人のミームが書き換えられる事を、ミーム汚染と言います。有名な例で言えば、『壁ドン』ですかね。昔は、音がうるさいアパートの隣人の壁を強く叩いて無言の文句を言う事を指したらしいですが、今じゃ男が女子に対して壁に手をついて迫るトキメキシチュエーションを指す意味に変わっています。これは、旧来の『壁ドン』の意味がミーム汚染により日本全国の国民の脳内にある意識を新たな意味に上書きしている、と言えます。……土星の夢は、燃え上がる土星というクオリアを世界中の人間に見せて共通のミームを得させる事で、精神的に劣る人達からの脱却と旧人類からの昇華を促しているとは思いませんか?」
 酷くスピリチュアルな、妄言に似た持論だと思った。無論、彼女の『主観的な』意見を反映した特集を、公共の電波に乗せる事などしない。それから更にしばらく、少女は土星の夢に対する持論を弁じていたが、俺は大した興味など無かった。
 それ以上に、俺は目の前の少女自身に興味が湧いた。彼女の近くに居るという不思議な少女がもたらす数々の現象を目の当たりにしたこの神秘主義者は、色白の肌をした碧眼の美少女。しかも自身がタロットや占いを崇拝に及ぶレベルで信頼しており、そんな怪しげな雰囲気を持ちながらもその美貌で人を惹きつける要素も持っている。
 聞きだせる情報を一通り聞き出して、俺は現金の入った封筒を渡そうとする。少女がそれに手を伸ばして受け取ろうとするが、俺は封筒を持つ自分の手を引っ込めた。途端、汚物を見る様な目で少女は俺を睨みつけた。何ですか、と問いただす彼女に、俺は丁寧に答える。
「勿論、このお金は渡すよ。でも、もう少し付き合ってくれればもう少し額を弾む。どうだろう、このままテレビに出てみないかな。君みたいなとっても若くて綺麗な子が、君が夢中になって話すその様子を見たら、視聴者はきっと心動かされると思うんだよ。そこまで熱く話してくれたなら、もっと多くの人に効果的に共感してもらう方法こそ、テレビ出演なんだ。一生に一度の経験にもなるしね」
 実際、素人がテレビに出る事で重要なのは、何について話すかではない。ビジュアルとインパクトだ。目の前の少女は、その二つを持っている。加えて、こうしてテレビマンの俺とコンタクトを取って自分の意見を世間に広く浸透させたい名誉欲も持っている。議論の仕方も、大人と対等に渡り合えるスキルを持っているだろう。
 だから、俺の提案を断る事は無いと思っていた。
 だが目の前の少女は予想に反し、「嫌です」と俺を睨みつけたまま即答した。俺はなるべく平静を装って、金銭的、名声的、支配的欲求に基づく射幸心を煽るセールストークで説得を試みる。だが、そのどれもに少女は首を振る。最終的に、彼女はうんざりした様子で言った。
「私が情報を売ったのは、私が有名になりたいからでも、自分が世間を動かしているという優越感を得る為でもありません」
「うーん、じゃあこのお金もどうしようかなー」
 ピラピラと封筒をこれ見よがしに泳がせてみるが、見下げ果てるような目をした少女は微動だにせず答える。
「渡したくないなら別にいいです。お金の為にやってる訳でもありません」
「え?」
「情報の対価として約束した五万にも満たない額を、テレビディレクターごときが出し渋るなんてあまりにも情けないとは思いますが、惜しいならそれで結構です」
 安い挑発だった。だが、これで実際に金を渡さなければ彼女がこれ見よがしに言った言葉を事実としてしまう。胸糞の悪い話ではあったが、俺は無言で封筒を机の上に放り出して金を渡した。少女はそれを手に取り、鞄を肩にかけてさっさと席を立つ。そうして、不機嫌な顔の俺に向かって吐き捨てる様に言葉を掛けた。
「夢を共有する事と価値観を共有する事は別だって自覚して下さいね」
「……俺は夢を見てない」
 答えると、途端に蔑んだ笑みを浮かべて少女は吐き捨てた。
「先に言って下さいよ。あの夢を見てもいないのに、対等に話しかけないで下さいね」
 そうして彼女はつかつかと店の出入り口まで早足で歩き、封筒から俺が包んだ三万円を無造作に取り出して、レジ横の募金箱に全額を突っ込んだ。
 そんな経緯で得た情報なものだから、本当はThis Manについてのこのトピックを取り込むかどうか、俺は直前まで悩んでいた。だが、俺の私情と会社の利益は全くの別物だ。俺は結局、This Manの話題をニュースに取り込んだ。
 全く無関係の人間達に感覚を共有させた、異質極まりない男。それは、現代に燃え上がる土星として蘇る。より異常な存在として。
 だから俺はその望み通り、異質さを更に増幅させて世間に浸透させるのだ。
 全ては、自分自身の為に。
 番組の評判は、悪くないものとなった。上司からの評価もまたも上々で、いい話題を提供出来た事に自信を持った。これは、この仕事を続けていく上で大事なモチベーションだ。人が求めるものは、仕事の結果にしっかりと伴っていくという理論に忠実に進んでいく。
 だが、既に手に入っているものについては、その限りではないのだろうか。
 家に帰っても、愛想の無くなった由真の態度はますますそっけないものになっていた。夜遅く家に帰ると、冷えてはいてもちゃんとあいつの手料理が台所に置かれていた。俺はそれを温めて食っていた。だが最近ではどんどんと料理は質素になり、昨日の夜は遂にインスタントのラーメンとウィンナーが用意されていただけだった。流石に頭に来た俺は寝ている由真を叩き起こし、怒鳴りつけた。
 由真は仕事をしていない。家族三人で不自由なく暮らしていける程度には俺が稼いでいるから、誰の目にも触れさせたくない自分の妻を、俺は家に押し込んでいた。変な虫がつかない様にと由真の為を思っての行動だった。なのに、頰を引っ叩いた由真はその事にも文句を言ってくる。
 常であれば、一度手を上げればその事については二度と口にはしなくなり、ただごめんなさいを繰り返すだけの女だったのに。泣きながら、しかし由真はそれでも俺を睨みつけて言った。
「悠人の事なんて、どうでもいいんですね」
 何故急に息子の事になるのか、その飛躍した思考が理解出来ず、それをなじりながら質問の意図を問いただす。すると、由真は答えた。「子供をちゃんと育てているなら考える事です。子供が生まれたら、もうパートナーは一番じゃなくなるんですよ。でも貴方はいつだって、悠人に自分のやってあげたい事を無責任に押し付けて、私には母じゃなくて女でいろって」
 息子よりも自分に愛情を向けていろ。俺に忠実な女でいろ。もっと色気のある女らしい服を着ろ。……確かに、俺はそう言い続けてきた。
 それの、何が悪いのだ。
 理解出来ずに居る俺を、由真はずっと見上げていた。俺は目を逸らして、夜も遅くだというのに家を出てカプセルホテルに泊まる。もう、家に戻ろうという気は起きなかった。
 俺は土星の夢など見ていない。ただ、夢を見た女達は、間違い無く俺とその周囲に大きな影響を与えている。その事実が、どうにも我慢ならなかった。


 爆発的な勢いで話題や人気になったコンテンツは、総じて冷めるのも早い。短距離走と同じで、短期間で興奮状態になった脳はその脳機能の休息を必要とするのだ。例え制作側にも多少の飽きが来ていたとしても、実際に視聴者からのレスポンスが悪くなったという実感が得られるまでは、長期的なコンテンツとして延命措置を図らなければならない。
 そういう意味で、夢というトピックスに幅を持たせたThis Manの話題提供は効果的だったのかも知れない。朝早くから俺はパソコンに向かい、夢というトピック全体に関わる情報を集める為、社内外の人間とやりとりしているメールチェックやネット上での適当な話題を探していた。
 新しい話題を出さなければならない。情報は、扱うものによっては秒単位で劣化する。だがそれは他でもない、視聴者が求めるものであるが故だ。今や個人が情報を発して世界中のネットユーザーに拡散可能な時代であり、そんな彼らと新鮮さや希少価値について競わなければならない時代なのだ。だから、手段も自然と従来以上に荒っぽい取材も必要になってくる。
 全ては、観客を満足させる或る種のエンターテイナーとしての仕事の為。なのに、そんな俺達の仕事を邪魔をする存在が、今回も姿を見せ始める。パソコンと向き合っている俺に向かって、道尾が言いにくそうに話し掛けてきたのだ。どうしたのかと訊けば、クレームがまた増えてます、と答えた。俺は嘆息する。勿論、自分の関わった仕事にクレームが入ってしまったという落胆ではない。無駄な作業に人員と時間を割かなければならないという事実への諦観だ。
 情報の提供速度は、ネットが台頭する以前はテレビや新聞が抜群の速度を誇っていた。そしてそんな速報の精度を確認する手段もあまり無かった時代、伝えた情報が間違いであったとしても、重要事項でない限りそれを一々訂正する事もしなかった。
 だが今では、情報や知識を持った人間がSNSでそれを一々指摘し、それが例えどうでも良い些細な誤りだったとしても、鬼の首を取ったかの様に槍玉に挙げ、騒ぎ立てる。今回の土星の夢についての報道に対する反応も、例外ではない。個人の基本的人権に関わる脳機能の差別化を増長させる内容の報道を恣意的に行なっているとして、連中は撤回と謝罪を求めている。ここ数日、特にそのクレーム数も増えている。
 だが実際のところ、国からの法的な勧告が無ければ彼らの要望に真摯に応える必要性は皆無と言っていい。騒ぎ立てるのはいつだって少数で、彼らの活動は結局のところ、テレビで放映されない限りはこれといった効力を持たない。ネットの情報は拡散力と爆発力はあるが、浸透率がとても低いのだ。これは、ネットの情報を本当の意味で使いこなせている人間が少ない事に起因する。
 中高年は、ニュースは未だに新聞やテレビ、ラジオから吸収する事が殆どであり、ネットしか情報収集源として利用しない人間は、自分が知りたいと思う情報しか探さずに、自分の求める答えが書かれている情報だけを真実であると盲信する。結局、テレビとネットを相互に均等に使いこなせる情報強者は、静観というポジションに落ち着く。そうでないものは、お互いが信じたい情報媒体の中にだけ止まり、そこから出て行こうとしない。だから、同じ輪の中でしか彼らは情報を共有・拡散出来ない。ネットがテレビメディアよりも力があると連中が錯覚しているのは、狭いコミュニティでその話題しか自分の視野にトピックとして上がらないから、母数の関係上盛り上がっている様に見えるだけ。
 つまり、テレビの放送内容にケチをつけ、わざわざ他人の為という大義名分を掲げて自分達が名前を付けた正義を声高に叫ぶ人間が居るという事。彼らは暇人であるという事。そして、その本質はとても自分勝手であるという事。
 彼らの行動の多くは実を結ぶ事は無く、ただ被告側に無駄な労力を発生させるという一点において確実な効果をもたらす。しかも、例えどんな番組を作成したとしても、この手の文句は一向に無くならない。本当に嫌になる。
 だが、まだ入社して一年も経っていないとは言え、この類のクレームは毎日の様に見ている道尾だから、わざわざこの程度で俺に声を掛けたりはしない。何か別の問題があるのだろうと思って訊いてみると、案の定頭を抱えながら彼はこう答えた。
「実際に被害が発生してる、って意見が増えてます」
 でっち上げの組織的投書じゃないのかと訊き返すと首を捻り、それにしては数の割にレパートリーもあるし内容も手が込んでいて、ちょっと不自然、と道尾は答えた。
「そろそろ、それっぽい謝罪文か何か出した方がいいんですかね」
「そんな事してみろ。連中、図に乗ってますますクレームの量を増やすだけだ。騒げる話題があればどうでもいいって奴らだぞ。……取り敢えず他の社員にSNSで別アカウント十個ぐらい作らせて、沈静化させるコメントや拡散をしろ。マニュアル渡しただろ」
 はい、と道尾は指示通りに社内メールを送り始める。ふう、と一息ついて、俺は彼のデスクの段ボール箱を見る。それほど大きくはない箱だが、封筒や手紙が山積みだ。俺は目頭を押さえ、目の休憩も兼ねて立ち上がり、道尾のデスクに近付いてその中に一通を手に取る。ディスプレイから目を逸らさず、道尾は「面白い内容じゃないですよ」と一言添えた。そんな事は、百も承知だ。
 手に取った葉書を含め複数のものに手を付けて読んでみたが、実際に土星の夢を見たであろう人間は、お決まりの「そうでない人の気持ちを考えた事がありますか」という文言から始まり、メディア批判に徹底した内容をつらつらと書き連ね、人権を守ろうとする者の口から本来発せらる筈の無い口汚い言葉で締められる。
 夢を見ていない人間は、その話の内容に目を瞑れば前者以上にパターン化した文面しか書かれていない。自身か身内・友人が夢を見ていないからと同級生や同僚に迫害され、精神的苦痛を味わっているから撤回しろ、との言葉ばかりだ。
 そうして例外無く、彼らは被害者の為に何かをしたとは一言も書いていない。とどのつまりは、そういう事だ。被害の内容の真偽に関係無く、自分ではなく他力本願に縋る為に、彼らはこの投書を書いた。
 投書を書く余裕があるなら、人はまず自分の周囲の問題を解決しようとする。そして自分の大事な人の安全が確保されてさえしまえば、多くの人はそれで満足する。赤の他人に不満をむやみにぶつけようとはしない。こんな経過があるから、俺達の元にファンレターなんて届かない。ただクレームの山ばかりが届く。
 こうして立ち上がって道尾のデスクに歩み寄った事さえ全くの徒労に思えてしまう脱力感を味わって、これで最後にしようと適当に手にした一枚の便箋を開き、中身を読む。だが流石の俺も、その内容には少しギョッとした。
 娘が自殺しました。
 手紙は、そんな言葉で始まっていた。
 元々活発なタイプではなかったらしいが、今年小学校に上がって慣れない生活リズムから体調を崩しがちで、精神的にも不安定になっていたタイミングで、土星の夢に関する脳機能の差別化を示唆する報道がされた。夢を見なかった娘は、まだテレビの報道バイアスを信じ切ってしまうと同時にネットの情報抽出機能を持たない未熟な子供達の、一方的な偏見と陰湿ないじめ行為により、親である投書者に相談する前に少女は全てを抱え込み、そして限界を迎え、交差点に飛び出したという。
 信憑性については、他の投書に書かれた内容と変わらない。話などいくらでも捏造出来る。だが、丁寧に落ち着いた調子の肉筆は、ただ感情を無秩序に叩き付けて滅多やたらと書いた他の手紙とは明らかに違う雰囲気を持っていた。全てが終わって、誰かに文句を言っても何も変わらない事を悟っている静かな文体で、ただ死んだ娘の親が淡々と事実を書き連ねている。それだけに、寧ろその様子がありありと読んで取れる様は、他のどの投書よりも生々しかった。
 悠人は?
 ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。そして、次に由真の言葉が思い出された。
『悠人の事なんて、どうでもいいんですね』
 そんな事はないと断言してきた俺だったが、ハッとさせられる。
 俺は、悠人が夢を見たかどうか、そんな事も知らない。
 どうでもいい程些細な事かも知れないが、そんな些細な事さえ俺は息子の事を知らないままなのだ。
 だが、知ったところでどうなるのだろう。悠人が夢を見ていたからどうだというのだ。夢が原因でいじめられる事は無いと安堵するべきか、夢が原因で誰かをいじめる子供になるかも知れないと心配するべきか。夢を見ていなかったら、いじめられる可能性が高いと不安になるべきか。
 それとも、夢を見ない者が劣等種だと言い始めた人間を糾弾するべきか。
 俺は、何をすればいいのだろう。


 家には帰らない。帰りたくない。かといって息子の為に何をする事が正解なのか分からない。そんな不安と苛立ちを、俺はさやかにぶつける。エナジードリンクを何本か飲んだ俺は、ろくに前戯もせずに強引に彼女を組み伏せ、行為に及ぶ。いつもと違う俺のプレイに戸惑いながら、さやかは何とか秘部を濡らして俺を受け入れた。それでも、いつもと違う俺の無言の態度に徐々に不安が募ってきた様子だ。
 さやかの芝居掛かった嬌声は緊張から、段々と強張ったそれへと変化していく。
「ちょっと、待って。痛い」
 耐えられなかったのか、さやかは一度俺の体を押して自分から離す。汗をダラダラと流す俺を見て、色の白いそのグラマラスな体を隠しこそしないものの、彼女はどこか身構える様子を見せた。
 女の柔肌が俺の体から遠ざかり、俺は孤独を感じた。土星の夢を見た一部の者が、土星に対して感じたのと同じ様に。だから、俺は静かに命令した。
「なあ、抱き締めろよ」
 風俗嬢ごときが、客である俺の言葉を否定するわけがない。さやかは少しだけ動きを止めた後、ゆっくりと腕を広げて俺の首へと腕を回す。ペニスを勃てた全裸のおっさんが脱力している様は、余程滑稽だろうか。頭の片隅で考えながら、俺はさやかの豊かな胸に顔を埋め、倒れ込む。
「南さん、変だよ」
 柔らかい声でさやかは言う。「どうしたの。何かあったの」
 俺はその問いには答えず、逆に質問をした。
「さやかちゃん、土星の夢って見たの」
「前も言ったじゃん。見たよ」
 そうだ、そう言っていた。そしてこの子はそれに対し、孤独や恐怖という負の感情ではなく、荘厳さと美を感じたのだ。それはきっと、試練があっても立ち向かっていく前向きな意思の表れか、それとも何の悩みも無いであろうお気楽な人生を歩いているという事の証左。後者に決まっている。後者である筈だ。風俗に身を落とす程度の頭しか持っていないこの女に、真剣に悩む程の種などあるまい。後者であってくれ。
 だって、不公平じゃないか。
 それでも、真実がどういう具合であるのかを確かめる事はしなかった。怖いから。自分の理想と想像とは違う結果が待っている事を知るのが怖かったから。
 いい加減に生きてるんだろう? そう口にすると、今度こそ当惑して、さやかは俺から体を離して俺を見下ろす。今、彼女の目に映っている俺はどんな顔をしているのだろう。
 夢を見られるような人間だからって、見てない俺を見下すんだろう、お前も。
 俺の意思とは違うところで、俺の口が勝手に動く。言葉を織り成す。それでもさやかはこう言った。
「南さんの悪口なんて、今まで一度も言った事無いじゃない。夢を見なかったからって馬鹿にしたりなんてしないよ」
 真剣な顔をしてそう言うさやかだったが、俺は知っている。人は幾らでも嘘をつき、真実を見ようとしない。自分の求める理想形を探す。それに沿わない意見も言葉も何もかも、人は否定してしまう。この女はそれを理解していない。やはり低脳だ。俺を理解しようとしていない。
 きっと見下しているのだ。自分が土星の夢を見たからって!
 俺はさやかの髪を引っ掴み、乱暴にベッドに叩きつける。痛い、と彼女が大声を上げて抵抗しようとするが、俺はさやかをうつ伏せに組みしだき、コンドームを付けていないペニスを挿入しようとした。それに気付いたさやかはより一層強く抵抗し、腕や脚を振り回して俺を突き飛ばす。だが俺はすぐ体を起こし、そんなさやかの顔面を蹴り飛ばし、口を手で押さえ付けて乱暴に、再びベッドに引き倒した。
 俺の言う事を聞けよ。
 土星の夢が、そんなに偉いのか。
 俺がお前の人生より劣っている筈が無い。なのに、何故お前は何の悩みも無いのだ。由真は俺の言う事を聞かないのだ。屈服しろ、屈服しろ。
 鼻血と涙を流しながら、抵抗する力も無くして俺の腕を噛んで離そうとするさやか。そんな彼女を無視して挿入し、労りや優しさなど一片も無い、一方的なセックスをした。レイプとはこういうものかという漠然とした感想を頭の片隅に覚えながら腰を振り、やがて果てる。
 お互いに脱力する事、十数秒。先に俺は我に返り、慌てて服を着て荷物をまとめる。涙を流しながらフロントに電話をするさやかを尻目に、俺は何もかもを無視して部屋を出た。途中、向かってきたスーツの男を二人突き飛ばし、全速力で駅に向かって走る。
 風俗店で問題を起こしてケツ持ちのヤクザに捕まれば強請りで一生毟られる事は、昔暴露系のコーナーを作成した時に聞かされている。社会的にどころではなく、人生そのものが生き地獄になるのだ。捕まるわけにはいかない。
 逃げながら、だけど、と思う。
 俺に汚されたあの女は、俺のせいで辛い時間を送る事になる。心に大きな傷を負う。俺の所為で。
 土星の夢が、俺の心をボロボロにしたのだ。
 誰か、俺に優しくしてくれよ。
 身勝手すぎるか。

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