土星の日

宇津木健太郎

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箱田アーネストの場合 その2

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 教員は現在の事態を混沌と捉えている様で、それが重大な結果に繋がりかねないとして、期末試験を一週間延期した。まあ、多くの生徒にとって僥倖だという意味では間違った判断ではないだろう。
 私の行動がもたらした結果の内、半分はその目的を達成している。ネットワークとメディアをバランス良く利用して、既に世間は、表立って口に出す事こそ少ないものの、明確に夢を見た者を一段上のステージに居る存在として扱うようになっている。夢を見た私達の間には既に共同体的意識が芽生え、争い事も発生しないまでにコミュニティは盤石になっている。この成果はとても満足のいくものだ。
 だが、私がここから進めていきたいと思っていた本来の目的は、まだ達成出来てない。いや、寧ろ暗礁に乗り上げていると言ってしまってもいい。
 土星の夢騒動が本格化し始めた頃から、堂守君が学校を休みがちになった。学校に来ても、放課後はさっさと帰宅し、私や五十嵐君と付き合う時間さえ作ろうとしない。全て、私と彼の為にやった事なのに、何故中々報われないのだろう。
 堂守君と一番仲がいい五十嵐君経由で理由を知ろうと考えた事もある。だけど、これからの私の理想の一部を語ったあの日から、彼は私から距離を置いている。彼も夢を見た人間の一人である筈なのに、これはとても不思議な現象だった。これも、或る種の神秘だろうか。まあ、元々人の予測なんて難しいものだけど。
 でも、それ以上に桐生さんの事が分からない。あれ程、今まで私達に神秘を目の当たりに見せてきた存在であるくせに、彼女は土星の夢を見なかった。
 かくも輝いて見えた彼女の存在は、今や私にとって何の魅力も無い。あの圧倒的に燦然と輝く星の前では、彼女の神秘は霞と同等だった。そんな境遇であるにも関わらず、彼女は私にここ最近、妙に声を掛けようとする。その声の掛け方も何処か躊躇いがちで、彼女らしくない。その言葉を濁す曖昧な態度が弟を想起させ、私は余計に腹を立ててしまう。
「言いたい事があるなら早く言ってよ」
 強い口調でそう言うと、何でもない、と結局そう言って、桐生さんは私から離れていく。この二日間で、もう十回以上はそんなやりとりをしていると思う。
 いつも眠そうな目、肩まで伸ばした黒髪、薄化粧はしている筈なのに病弱かの様に白い肌、枝の様に細い手足、起伏の無い表情。何を考えているのか分からない彼女のそんな態度が不気味でさえあった。
 それにしても、堂守君の行動まで予測が出来ないとはどういう事だろう。彼も夢を見た人間なのだから、私達は今まで以上に親密な関係を築けると思っていたのに、実際は接点が少なくなってしまった。昼休みに一度理由を訊こうとさりげなく話を振ってみたのに、誤魔化し笑いで話を流されてしまった。強く問いただしてますます距離を開けられる事も考え、私はそれ以上の有効なアプローチを模索しなければならなくなっている。
 そしてまた新しく増えた問題が、現状眼前に広がっている。夢を見なかった私のクラスの女子五人が、憎悪のこもった目で私を睨みつけて廊下を塞いでいる。放課後の、部室へ行かなければならない道中の事だ。
「どうしたの?」
 私は声を掛けると、一人が口を開く。謝ってほしいの、と高圧的な物腰だった。主語の無い芝居掛かった一言だけで全てが伝わると思っているのなら、夢を見るに値する人物であったかどうかを再考しなければなるまい。私は素直に、どういう事かを訊いた。すると別の一人が涙ぐませながら答える。
「あんたが、土星の夢を見たか見なかったかで人をランク付けした原因だって、みんな知ってるのよ」
 酷い言い掛かりだ。ランク付けではなく、純粋な区分ではないか。だがそれを口にすれば余計に相手が激怒する一方だろうから、私は大人しく耳を傾ける。初めに口を開いた女子生徒がまた話し始めた。
「桜坂さんが、学校に来なくなった」
「あら、そうだったのね」
 同好会の部室には顔を出す生徒の方が少なかったし、桜坂さんも頻繁に来訪するタイプではなかったので、気付かなかった。部活動外で顔を合わせる事も殆ど無い。
 でも、何故だろう。「どうして?」と、純粋な疑問で私はそう尋ねる。
 途端に、女子五人は烈火の如く怒り始めた。
「こんな短い会話の中で、何も理解出来てないの?」
「信じられない! あんた頭おかしいの!」
 口々に、彼女達は思い思いの感情の塊を私にぶつける。そこでようやく、私が土星の夢による人種の区別を行なった事で彼女が劣等種と呼ばれるようになった事を知った。
 私には無縁の環境だったので理解が追いつかなかったが、どうやら学校内部で夢を見なかった生徒の、特に一部が苛烈ないじめを受けているらしい。各クラスでの不登校生徒の数が急激に増えているというのは耳にしていたが、私の周囲でそれを実感する事は無かった。教員による調査は進めているらしいが、とにかく案件が多く対処し切れていない状態だと彼女達は言う。
「だから、騒ぎの原因を作ったお前が、皆の前で謝れよ」
 髪を一番明るい茶色に染めた女子生徒が、一歩前に出て私を睨みつける。私は、「それは絶対出来ない」と明言した。「今までの社会で差別やいじめが無くならなかったのは、それが本当に虐げられる被害者じゃなかったから。この土星の夢の選別で、本来分類されるそれぞれの人が確定したのよ。土星の夢が試練の象徴だって、流石にもう耳にしてるでしょう? この騒動も、本当に人が平等に生きる将来の為に必要な事なのよ」
 この試練を乗り越えれば、優等種と劣等種が真に区分され、そして私と堂守君がより深く分かり合える環境に生きる事が出来る。そんな神秘の先にこそ、本当の幸福が待っているのだ。
 と、突然視界が揺れる。今まで彼女達を真正面から捉えていた私の視点が高速で移動して、左に大きく外れた。一拍遅れて、頰がジリジリと熱を帯び始めるのを感じる。平手打ちを食らったのだと、ようやく気付く。
「ただの夢なんかで、友達切れるわけないでしょう……」
 私を殴った少女が、涙をボロボロと流しながら言う。
 それは違う。夢を見た彼女達が、夢を見なかった桜坂さんを見捨てられないのは、まだ彼女達が現実を見ていないだけの事だ。自分達は間違った相手を友達と認識していたのだと、そんな将来にも影響を与えかねない重大な過ちを正視していないという事なのだ。だから彼女達は困惑し、同胞である夢を見た人間に手を上げてしまう。
 私は当然、彼女達に怒りを向ける事はしなかった。ただ、急激な夢の選別に動揺し、理性が感覚に追いついていないだけだ。何より、同じ夢を見た仲間同士で醜く争う事など、余りにも余りにも愚かしい。だから私は優しく言った。
「貴女達が、早く良くなるといいですね」
 私としてはとても筋が通った分かりやすい言葉選びをしたつもりだったが、まだ彼女達に理解は難しかった様で、皆一様に蒼褪めながらその場から逃げ出してしまった。時間が経てばきっと彼女達も私と同じ世界を目にして感動出来るだろうと安堵して、私はのんびりと部室に向かった。次の新聞の記事を作らなければならない。教員の検閲をすっ飛ばして新聞を貼り出した私の行為は問題視され、正規手段で新聞を掲示板に貼る事は出来なくなっている為、制作から早朝の校内張り出しまで全て私が行わなければならない。時間が一分でも惜しかった。
 部室のドアを開けると、いつもの場所で猿渡君がパソコンで文章を作成している。その脇には勉強ノートと教科書が広げられている。勉強の合間に作文をしているというところか。猿渡君の場合、その逆かも知れないけど。
 私のドアを開ける音に気付いて振り返り、何故か少しだけ躊躇した後、会釈をした。ここ最近、気軽に声を掛けてくれるのは彼だけになってしまった。私と彼は、それぞれ作業に没頭する。時々世間話を息抜き程度にするだけで、余りに身の入った会話はしなかった。だが、やがて猿渡君が声を掛けてきた。
「先輩、ちょっといいですか? 土星の夢の事なんですが」
 彼の口からそんな言葉が出るのは意外に思えた。口数の多くない彼が何を考えているかいまいち分からない事は多いが、少なくとも流行り物に口を出すタイプには見えなかったのだ。しかし、彼は夢を見た人間だ。改めて何か知ろうと関心を示してくれる事は嬉しく思う。私は振り返って笑顔で、なぁに? と訊き返す。だが、彼の言葉は私の予想とは違うものだった。
「もう、夢について調べるのは止めましょう」
 彼の言っている事が分からない。何を言っているの、と率直に尋ねる。
 彼の主張は次の様なものだった。土星の夢を見た事自体は一過性の騒ぎにしかならなかった筈なのに、私がそれに個人単位で関わる意味を持たせてしまった。騒動は拡散し、試験期間のずれ込みや不登校生徒も増えている。どう見ても学校は混沌とし始めている。せめて、これ以上生徒達を煽動する様な言動はしない方がいい、と。
 私は憤慨して答えた。
「猿渡君もそんな事言うのね! もっと広義にものを見てよ! 人がもっと距離を近付けて、意識も感情も同じものを共有して共感する事が出来るって、素晴らしい事じゃない。そんな大きな事が目の前で実現しようとしてるのよ。社会が大きく変容する前には大きな混沌があるって、そんなの歴史を見れば明らかでしょう?」
 燃え上がる様な劇的な変化があってこそ、人と人との結び付きはより硬くなる。私と堂守君は、きっと……
 それでも、猿渡君は珍しく苦しそうな表情を浮かべて、止めて下さい、と呟いた。
「そんな箱田先輩、見たくない」
「私がどんな人間でも、猿渡君には関係無いでしょう」
 敢えて冷たく言い放つ。だが彼は俯かせていた顔を上げ、私の目を真っ直ぐ見て言う。
「好きな人が、人を傷付けるところは見たくないんです」
「私は誰も傷付けてない」
 そう即答すると、猿渡君はショックを受けた顔をする。何かを言おうとして何も言えずに、ただ当惑しているだけだった。何よ、と少し声を荒げて問いただすと、彼は目を白黒させて尋ねた。
「あの……僕の言いたい事、伝わりましたよね?」
「ええ。猿渡君は、私が人を傷付けてると言った。私はそんな事してない。私は……」
 ただ、より多くの人を助ける為に個人が出来る最大の事を努力して行なっているのだ、と答えようとしたが、猿渡君は肩を落とし、私に背を向けた。声を掛けてそれを止めようとするが聞く耳を持たず、彼はパソコンの電源を落とし、勉強道具を鞄に片付け始めた。
「言いたい事があるなら、ハッキリ言いなさいよ!」
 怒鳴ってしまう。彼の態度はまるで、私の弟の様だ。その煮え切らない態度は、見ているだけで苛立たしい。
 もう無いです、僕が間違ってました、と感情の特に篭っていない言葉を返し、猿渡君は会釈をして部屋を出て行く。その含みを持たせる、裏がある様な物言いには歯がゆいものを感じるが、私はそんな彼を引き止める事をせず、ただ苛立ちを創作意欲にぶつけた。
 ……勿論、猿渡君が本当に言いたい事はちゃんと理解している。だが、ハーフであるというだけで見た目しか見ない男達に下心丸出しの声を掛け続けられて十七年を生きてきた私にとって、単純な好意など何の信頼性も無い。
 猿渡君の告白が、そうした単純な下心だけのものでは無い事は何となく分かるけれど、それまで一切の好意を持つ事の無かった相手から告げられるそれは、とても居心地の悪いものになる。まして、私は心に決めている相手が居る。だが、それを露骨に彼に向かって口にするのは、余りにも人として情を欠いている。敢えて何も気付かない振りをして、これからの日常を何気無く過ごす事が彼にとっても私にとっても得策である筈だ。
 私は弟に似て、とても優しい人間なのだ。
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