土星の日

宇津木健太郎

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桜坂みおの場合 その2

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 私が今抱えている精神的なストレスは、元夫が借金を作った後に何処かへ逃げてしまったその日のレベルに匹敵している。会社は今月が決算月で、営業が一日中頑張っているその結果の処理を、私達事務職員が一手に引き受けている。その仕事量は、半年前の比ではない。ただでさえ遅い帰宅時間も、今はより遅くなっている。そして相も変わらず、職場のOLは土星の夢についての差別的意見交換(既に差別意識を隠そうともしていない)の場を、そんな激務の息抜きに、とばかりにまくし立て、私は必死にその話題に食らいついて行く日々を送っている。
 並行して、千秋もトラブルに巻き込まれてしまっている。あの子は私に、自分は土星の夢を見たと嘘をついていた。学校では、あの騒動が本格化する以前に夢を見ていない事を暴露してしまっていた為、千秋は私の様に自分を周囲に合わせて護身する事さえ許されなかったのだ。
 涙を流しながら千秋が訴えたのは、一昨日の事だった。何人か友達は味方してくれているものの、それ以外の『夢を見た側』の生徒の陰湿ないじめに耐えられなかったと言う。持ち物は捨てられたり壊される事が続き、陰口や嘲る視線、教壇に立つ教師に聞こえない小さな声で繰り返される嘲笑が繰り返された結果、クラスメイトがいじめとは全く無関係に腕一本を動かしただけで、それが暴力を振るわれる予備動作であるかの様にさえ思え始めたらしい。もう授業や学校生活そのものに安心も集中も出来ない状態である事を告げた千秋に、私は当然、もう学校を休むように言った。その直後、千秋は安堵からまた涙を流す。
 本当は、そんなあの子の為に、せめて一日だけでも会社を休むべきだった。だが、あまり労働環境の良くない私の会社で、決算期に突然の休みを取ると上司や同僚からネチネチと嫌味を言われてしまう。その所為で仕事に支障が出るのはあまり好ましくない。
「今日、私が居るよ」
 千夏はそんな事を言ってくれた。少し顔を合わせていなかった内に、少し痩せた様だった。「ウチのところは、こういう事に融通利くし」
「ありがとう。ごめんなさい」
 本当に、感謝の気持ちしかなかった。行きたがっていた大学進学を諦めてもらうしか無くなって以来、強い負い目を感じていたが、それでもこうして妹の将来の為に行動している姿を見るととても安心する。「何とか、明日には有給取れるようにするから」
「無理しないでね」
 千夏はそう言うが、娘を思う親としては一日くらい休んで千秋の様子を見たり、或いは学校に行って先生と話し合いをする事はしなければならないと思った。
「急で申し訳ないんですが、明日有給を取ろうと思うんです」
 上司に言うとやはり難色を示されたが、娘がちょっとトラブルに巻き込まれてしまって、と言うと、彼は何となく察してくれたのだろう、特段詮索される事も無く、申請は通った。問題は、明日休むという事を同僚に知らせた時だ。
 同僚も、繁忙期ではあるがその事を理解してくれると信じていたのだが、現実は違った。OLの中でも特に私より年長の者の中には未婚の人が何人か居て、そんな彼女達は子育ての苦労と向けるべき情熱の度合いを理解していないと決め付ける。上司と同じ様に遠回しな言い方で何かを察して「休んでいい」と言ってくれる人も無論居たのだが、未婚年上OLさん達は何度も食って掛かってきた。曰く、高校生にもなって親に頼らなければならない問題なんて存在しない、将来の為にも自分で解決させるべきだ。人に頼ってばかりでは何も成長出来ない。現に私は全部一人でやってきた。社会人の悩みに比べれば、高校生の抱く『最悪の状況』なんて甘えでしかない。
 全て、自分が経験していないからこそ口に出来る言葉だと思った。腹を痛めて産んだ我が子が私の目を気にする事もせずボロボロと泣くあの姿を見せられて、何もしないでいようと思える親が居るものか。
 普段の私であったら、きっと彼女達の言う事に反対意見など口にせず、ただ心の内とは裏腹な賛同意見だけを述べていただろう。きっと、私に休んでいいと言ってくれた子達も、苦い顔をしつつ反対はしなかったと思う。
 だが流石に今回だけは、私は抵抗した。でも、と口にして答える。
「大人から見れば些細でも、まだ社会に出てない子供達にとってはそんな些細な事がとても苦痛になる事が多いんですよ。それだけ、社会経験が少ないんですから。それを親が助けてあげるのが絶対将来の為になると……」
「甘い甘い、甘えよそれ! ほら、我が子は千尋の谷に突き落とせって……」
 自分以外の意見を許容しない。この手の相手は、多様性や幅広い意見など求めていない、自己アピールの場を探す為にあの手この手で自分の意見を口にして、同調意見を求めているだけだ。自分だけが正しいと信じて疑わないのだから。
 目の前のOLがそういう類の人間である事は重々理解しているつもりだし、今までそうだったのだから、波風を立てない為にも適当に話に同意して聞き流すのが得策だった筈だ。自分の事であれば、例えそれでも構わない。
 だが。
 私の目の前で泣いた実の娘を馬鹿にされ、ただそれを許容する程に恥知らずではない。
「……何か文句?」
 その一言は、それまで目の前の女がマシンガンの様に喋り散らかしていたものと同じ口が発した声とは到底思えず、私は怒鳴ろうとした声が急速に萎んでいくのを自覚してしまった。
 文句が無いわけがないだろう。言い放ってやりたかったが、怯える他のOL、特にまだ会社内での力関係をよく理解してない後輩達への配慮が先だろうと判断してしまう。自分の、こうした判断力の高さが今は口惜しくて仕方が無い。
 だが、文句が無い、と言ってしまえば、目の前の女は今後ずっとそれが真実であると盲信し、事ある毎に口にして私の心を追い詰めるだろう。私は彼女の言葉に肯定も否定もせず、ただ紙コップを持ったまま黙って立っている事しか出来なかった。
 彼女が去った後すぐ、他のOLさんが皆、私に声を掛けて励ましてくれた事が唯一の救いだった。堪え切れず、私は涙を流した。この場でだけは、夢を見た見ないの垣根など存在しない。
 この瞬間だけが、私は真の意味で自由になっている。


 千夏が、私の帰宅と入れ替わりで家を出ていく。出勤時間をズラしてもらった代わりに帰りは遅くなるという事だったが、それも仕方が無い。彼女には、手間を取らせているのだ。
「手間なんて言わないでよ。千秋の彼氏君も、今日お見舞いに来てくれるらしいから、大丈夫よ」
 少しだけ嫌そうな顔をして、千夏は鞄を肩に引っ掛ける。そうだ。私も彼女も、自分達が大切に思っている人の為に、自分の判断で行動しているのだ。
 もう人生の中で、理不尽で苦しい生活を送らなくて済む様に。
 願わくば、家族三人でまた。そう思っていたのに。
 その日の、日付も変わろうとしていた夜遅くに帰ってきた千夏の顔は、ボロボロだった。まるで誰かに何度も殴られた様に目には青痣が出来、その目とは反対側の頰も腫れ上がっている。私は息を飲んで言葉に詰まり、ただ慌てて千夏に駆け寄った。幸いにも、もう千秋は眠ってしまっている。あの子に余計に心配が掛かる心配は、今の所は無い。だが、一体千夏の怪我は……?
 戸惑っている私に向かって千夏は、変な客に絡まれた、とだけ口にして、リビングのソファに腰掛けて俯く。私は急いで氷嚢を取り出し、氷を入れて彼女の元に持っていく。
 正直な話をしてしまえば、大きな切り傷は無かったので、最悪でも将来的に顔に傷が残る可能性は低いだろう。だが、数日か数週間は痕が残りそうだ。親としては心配で仕方が無い。明日の朝一番で近所の病院に行くよう勧めた。だが何故か、千夏は頑なにそれを拒んだ。冷やしておけば治るから、の一点張りである。
「大丈夫、大丈夫だから」
「そんなわけないでしょう。本当なら今からだって……」
 そこまで言って、ようやく私は気付く。「殴られて、警察にも病院にも行かないで何をしていたの?」
 尋ねると、千夏は口を閉ざしてしまう。私の心は、どんどんと曇っていく。今まで強く気に掛けた事の無かった娘の生活に、どんどんと不安が強くなって行く。
 それから、全く進展の無い会話をしばらく続ける。それでも何も語ろうとしない千夏に対して、徐々に私は冷静になっていく。だから、考えた。
 確かに仕事や自分の身の安全を優先して、娘の事をよく知ろうとしなかった。千夏の事も千秋の事も、私が理解していない事は多い。だがそれでも、人として真っ直ぐな生き方が出来るような教育をしてきたと思っている。だから私は、それを信じてこう言った。
「千夏。貴女の生活の事、知ろうとしてなくてごめんなさい。私が間違ってた。でも、だからちゃんと今、千夏の事が知りたいの。……貴女が働いているお仕事の事を教えてくれないなら、私は貴女のお金は一円も受け取らない」
 すると千夏は、ハッとして顔を上げて私を見た。その表情が、見る見る内に困惑の表情へと変わっていく。
「駄目だよ、駄目。あのお金は全部、借金と千秋に……」
「ええ、分かってる。千夏がそういう事をしてくれてたっていうのは、とても良く分かってるから……でも、だからこそどういうお金かはっきりさせたいと思うし、貴女の仕事の事も知りたい」
 今更でごめんなさい、と付け加えて、私は隣に座る千夏の顔を真っ直ぐ見た。彼女は少しだけ思考を巡らせる様子を見せた後で、肩を落としてボロボロと涙を零した。
 大学に行けなくなり、進学するつもりだった千夏に特殊な仕事のスキルは無い。新たにスキルを覚えて仕事を見付けても、家族の誰も経験した事の無い『借金を抱える』という自体に困惑した彼女は急を焦り、高校を卒業後、大した間を置かずに水商売を始めた。ソープ嬢の仕事は収入も高くスタッフも大方は親切な者ばかりではあったが、精神的な負い目は非常に大きく、私や千秋には決して言えなかったと言う。また、ヤクザ者が当たり前の様に出入りをして売り上げの一部を取っていく業界だから、誰かに危険が及ぶかもしれないという危機感もあった。
 社会保障制度などある筈も無いが、国民保険では家族にも通知が行ってしまう為に加入する事は出来なかった。今日の様に客に暴力を振るわれても病院には気軽に行けないし、ただの風呂屋という店の名目上、警察も呼べない。暴力を振るった男は恐れをなして逃げた。もう、店どころか近隣一体に近付く事さえ無いとは言われたらしいが。
「本当にごめんなさい……」
 頭を深々と下げ、涙を流しながら千夏は私に謝った。私は、そんな彼女を諌める事はしなかった。本当は、『そんな仕事なんかして』と説教でもするべきなのかも知れない。だが、それは千夏が家族の為に身をやつしたここ数年間の努力の一切を否定する言葉となり、彼女の心を深く抉る事と同義だ。
 私は、母親として失格だろうか。もっとすべき事、言うべき事があるだろう。
 だけどそれでも、私は何も言わずにそっと千夏を抱き締める。目の前の、成人をとうに過ぎた娘が、目の前であられも無く涙を流すその姿が、とても愛おしかった。
 こうして、娘を抱き締めながら背中を叩いてあげるのは、いつぶりだろうか。
 尚も謝罪の言葉を繰り返し口にする娘に、私がようやく掛けて上げられた言葉は、許しの言葉ではなく、感謝のそれだった。
「話してくれて、ありがとうね」
 だから、しばらくお仕事も休んでいいよ。三人で、しばらくゆっくりしよう。
 私はそう口にした。千夏は私の胸に顔を埋めたまま、ガクガクと首を縦に振る。
 何故だろう。とても苦しい筈の私達の現状は、しかし今この瞬間、とても幸せだった。
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