土星の日

宇津木健太郎

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南康介の場合 その4

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 忙殺という言葉を久々に思い出した。まだ入社したてでしゃかりきに働いていた頃は、上司に叩かれ、罵られ、それでも自分の中にある目標を達成させる為に無我夢中で働いた時期があったというのに、あの時の努力を、何故俺は忘れていたのだろう。
 ……事件は、メディアが騒ぎ立てさえしなければその話題が拡大する事は無い。公共ソースに情報を乗せているとしても所詮個人でしかないSNSで発せられる『小さな殺人事件』程度では、人は関心を寄せない。誰が、どれだけ努力しても。
 何処かで消えた人間の命よりも、公共の電波で放送される一匹のパンダの成長した姿の方が、遥かに遥かに価値がある。それが、社会評価だ。
 俺達マスメディア、特にテレビ放送に携わる人間は、それをとても良く理解している。だからこそ、自局の不祥事やスポンサー、放映権に対して圧力を掛ける事の出来る政治家など、自分達の不利になる事件に関しては、徹底して無関心を装うのが正解なのだ。騒げば騒ぐ程、その成否や是非に関わらず、世間はそれを記憶する。
 良く、理解している。俺達が散々してきた事だから。
 だからこそ、他局が俺の監督したテレビ番組について言及するコーナーを設けた時、俺は今後の人生の半分を諦めた。徐々に増えて行く局へのクレーム電話に対し、上司は俺を呼び出して告げる。曰く、局の利益に貢献した実績のある俺を切る事はまずしない、しかし世間への体裁もあるので、一ヶ月だけ別部署に配置転換する。その後にまた同じポストに戻して仕事を続けてもらう、と。
「違法な事をしたわけじゃない。社外の人間がテレビ局の内部事情や人事など分かる筈もない。本来だったらこんな形だけの配置転換さえ必要無いんだが……」
 自らが力を持っている、発言力があると勘違いしている世の暇人の一部は、クレーマーというストレス発散の場を借りて自分に都合のいい敵を見付け、攻撃する。SNSの発達以降、その傾向は顕著だ。感情的にギャアギャアと叫び、論理的な意見の発信をせずにただ扇情だけで人が心を動かすと考えている、程度の低い馬鹿者達。新聞やテレビメディアが取り上げなければ、効果も影響も矮小なものに過ぎないのに。
「まあ、いい番組作ったご褒美だ。一ヶ月くらいの臨時休暇だと思って羽伸ばしてこい」
「異動先での仕事は?」
「適当でいい。あんなのは、もうお前がやるレベルの仕事じゃない。なんなら、一ヶ月家で休んでても構わん」
 変に顔を出して仕事を引っ掻き回したり、一日中新聞や週刊誌を読んで定時に退社するのは確かに迷惑だろうと、上司の言葉に従う事にした。一ヶ月の有給が取れたと思えば、世間での俺の評価など何処吹く風と言ってもいい。
 だが、気分は浮かばなかった。
 不安そうな顔をする道尾に、俺は簡単に仕事の引き継ぎの説明をする。流石に入社一年目で一般常識の抜けきっていない者を代理のディレクターに擁立する事は出来ないが、俺が受け持っていた番組の俺のやり方は、道尾が一番良く知っている。
「基本的には、代理のディレクターに従え。特別な事はしなくていいとは言ってあるから、特に問題は無いだろ」
「分かりました。……ごゆっくり」
 不安そうな、しかし何処かホッとした様子で、道尾は俺を見送った。
 番組の事は特段気にしていない。それは道尾に言った通りの本音だった。きっと彼は、適度な最良で自分の色を出しながら、そこそこ上手くやっていくだろう。そんな時代が来てもいい頃合いだ。問題は、俺の私生活。
 もう一週間近く、家には帰っていない。由真は俺を見限っただろうか。悠人は俺が居なくて寂しい思いをしていないだろうか。それとも、俺が居ないところで何一つ全ては問題無く動き、円満な事だろうか。
 俺は、七百二十時間の自由時間を、何の為に使うべきだろうか。
 空っぽ、空っぽだ、俺の心は。
 この中身が空っぽになった体を、ただ悪戯に動かすのに、一ヶ月は余りにも長い。
 俺のこの空虚な心を埋めるものは……
 平日の、日が沈むずっと前の時間から外に出るのは久しぶりだった。見上げる空が目に痛い。ずっと、高出力の撮影照明以上の強い光を見ていない気がする。それ程に、俺の感覚は世間と乖離しているのだ。心が体と一致せず、ただ夢遊病者の様に、人手ごった返す街を歩いた。足が自然と、行きつけとは違うソープ店へと向かおうとする。だが、途中で思いとどまり、駅へと向き直って再び歩き始めた。もう金を代償とした愛を求めようとは思えなかった。
 対価として得られる肉欲のはけ口ではなく。俺が求めるのは。
 無償の……


 カチャン、と鍵を回して俺は家の玄関を開けた。ノブを引いて開けると、そこには見慣れた玄関がある。少し離れた、扉の閉じられたリビングの向こうで、由真と悠人の笑い声が聞こえる。ああ、幼稚園はもう夏休みだ。すっかり忘れていた。あの子は、俺と動物園に行って笑ってくれるだろうか。
 土星の夢は、見たのだろうか。
 ぼんやりとしながら、俺はリビングの扉を開ける。積み木で遊んでいた悠人がまず先に俺を見て、満面の笑顔を浮かべる。続いて悠人の相手をしていた由真が振り返り、ハッとした表情を見せる。そんな彼女にお構い無しに悠人は持っていた積み木を放り出して、一目散に俺に走り寄ってくる。お帰りなさい! と元気良く叫ぶその姿に陰鬱な気持ちは幾らか晴れた。悠人を抱え上げ、抱き締める。密着した我が子の肩越しに、テレビの前で佇む由真の姿をしっかりと捉える。
 ああ、駄目だ。まともに彼女の顔を見る事が出来ない。夜の街を孤独に彷徨った二日前のあの日から、俺はどうしてしまったのだろう。
「……お仕事忙しくて、ごめんな」
 言いながら、トントンと悠人の背中を軽く叩く。悠人は俺の首に両腕を回してしがみついて、「じゃあ明日遊園地連れてって!」とせがむ。勿論、と答えようとしたが、意外にも由真がそれを遮った。
「駄目だよ、ゆう。お父さん疲れてるから、明日ぐらいはお休みさせてあげましょう」
 静かな声だった。一週間前に聞いた、腹の底から叫ぶ様な訴え掛けるあの声を出したのと同一人物とは思えない。俺は、良く見えない由真の顔を目をこらしながらなんとか見ようとする。彼女は俺達に近付き、そうしてやはりそっと話し掛けた。
「帰ると思わなかったから、夕飯の材料足りないわ」
「外で食べよう。みんなで」
 提案すると、ホント? と悠人が声を弾ませて体を離し、俺の目を見てきた。微笑みながら俺は、ああ、と頷いた。「何がいい?」
「ヤキニク!」
 その言葉を聞いてから俺は、今までしなかった事をした。罪滅ぼしとして子供の願いを叶えていただけの以前の俺ならば、決してしなかった事。妻の言葉に耳を傾ける事。
「……お母さんは?」
 由真がハッとして、それまで少し俯せていた顔を上げる。俺は、そんな彼女を急かす事は決してせず、ただ答えを待った。彼女は、やはり静かに答える。
「……ゆうの食べたいもの、食べようか」
 そうだ。久し振りに、家族三人で。
 帰ってきたら、由真と話をしよう。話したい事が、謝りたい事が、沢山ある。
 そして明日は、彼女の手作り料理が食べたい。
 そんな事を口にすると、ほんの僅かにではあるが、由真は表情を緩めて微笑んだ。


 数日が経って、俺は動物園に来た。勿論、隣には由真と悠人が居る。パンダを見て、キリンを見て、サイを見て、ライオンを見て。悠人は、終始笑っていた。真夏のかんかん照りの日差しの下で、帽子を被った息子は底抜けに明るかった。
 そんな悠人を見て、麦わらを被った由真は笑い続ける。つられて俺も、笑いたかった。
 微笑む事は出来る。だが、安心して心の底から笑うという事が出来ない。そんな俺を気遣う様に、由真は時々心配そうに俺を見て声を掛ける。大丈夫、と返す自分の声に覇気が無い事は、俺自身にも分かっていた。
 まるで水泡が弾けた様に、世間では傷害事件が多発していた。
 切っ掛けは様々だ。友人同士の口論、夫婦間の意見のすれ違い、元々折り合いの付いていなかった同級生や同僚、上司……
 誰もが相手を卑下する際に、土星の夢を口実としていた。
 元々火種はあったのかも知れない。表面化していたものもあれば、心の底で思っていた事が行動に現れてしまったものもあるだろう。だがその火種に火を付けたのは、間違い無く俺だ。
 俺の所為で人が傷ついた。十年以上もこの業界で働いた身であれば、最早自分の番組が社会に及ぼす負の影響について何とも思わなくなっていると決めて掛かっていたが、今回はばかりは勝手が違う。道尾と由真に、心と頭を揺さぶられた直後なのだ。
 少しだけ。少しだけだが、俺は迷いと戸惑いを感じざるを得なかった。
 この先、被害が俺の家族に及ばないという保証があるだろうか。この騒動が沈静化するその日まで、俺達は幸運にもただの傍観者として過ごす事が出来るだろうか。
 いや、由真と悠人にはただの傍観者であって欲しい。そうでなければならない。だが、俺は違う。もしも誰かに大きな声を上げて責任を取れと言われれば、俺はそうしなければならない立場にある。一週間前の俺であれば、一笑に付していたであろうに。
 道尾が迷う様に、俺も迷い始めてしまっていた。追う必要の無い仕事に責務を感じてしまっている。世間的に言えば、これは『当然の事』と呼ばれる範疇に入るのだろうか?
 メディアが描く報道とその信条や姿勢は、半分近くが嘘を作り出す事にある。数字を作り、スポンサーを喜ばせ、収入を増やせばいい。仕組み自体は実に単純なのだ。だが、情報とは一分一秒を争う。一日が経過しても同じ情報を流していれば、それはゴミクズ同然の使い物にならない過去の遺物だ。
 結果と数字を急ぐ必要のある仕事を続けてきた。自分自身の心や、自分の中の倫理観に照らし合わせて問題を解決しようとする時間など存在しなかった。だからこそ俺は出世し
て、上司にも認められ、一ヶ月の自由を謳歌出来てしまう程の特権を持つ事を許される。
 今初めて、自分の社会的な立ち位置というものを考える時間が出来た様に思う。ゾウの柵に向かってダッシュで走る悠人の背中を見ながら、俺はぼんやりと考えていた。
 由真は、夢を見る事で自分自身で立ち上がる勇気を得て、ついでに俺の心にもビンタを入れてくれた。だが、悠人は?
 俺は心底恐ろしくて、まだ悠人に土星の夢を見たかどうか、訊く事が出来ていないままだ。あの子の、俺の知らないところで送っている生活がどうなっているのか、俺は、父親であるにも関わらず把握出来ていない。子供の事を知れない状況というのが、ここまで恐ろしいものだとは。
 大丈夫? と遂に由真が声に出して訊いてくる。俺は無理をして笑って、ああ、と答えてみせた。「ほら、ついてってやりな。俺はお茶を買ってくるから」
 言いながら、俺は悠人を指差した。丁度ゾウのおやつタイムらしく、飼育員の人が来園客に、林檎を刺した棒を持たせようとしている。僕も僕も、と悠人はまばらな来園客の中で元気に飛び跳ねて自己アピールをする。由真は少し俺を心配そうに見るが、こくんと頷いて小走りに悠人の元へと向かっていった。それを見送り、俺は近くの自動販売機でお茶を買おうとする。
 がこん、と出てきたペットボトルを手に取って、再び顔を上げる。その時、視界の隅に映った姿に気付き、俺は顔を向けた。
 さやかが居る。眼帯を付け、店で接客している時と違う薄いナチュラルなメイクをしているが、間違い無く彼女だ。母親らしい品のいい中年女性と談笑して歩いている。
 母親のその隣を歩くのは、さやかの妹らしい少女。やや派手めな格好とは裏腹に何処かおどおどしている印象のある少女だったが、更に隣を歩く背の高い少年の腕にひっついて話をしている表情は穏やかだ。
 それは何処にでもある、誰もが想像しうる普遍的な家庭の姿。そこに、水商売をしていた女性が居るという事実の存在は、意味を成していない。
 これが、彼女の抱える家庭の姿。和やかなその一家の姿を脅かすものは、存在しない。彼女が何をしているかは、今のこの家族の前では意味を為さないのだ。そう確信させるに足る、暖かい空気。
 彼女が一人だけ、俺に気付く。目を丸くして一瞬顔色を変える。眼帯をしたその姿と表情に真正面から当てられて俺は何も言えなくなる。そして思った事は、『彼女を脅かしてはならない』という一途な想いだけ。
 俺は、その場で深く頭を下げた。周囲の来園客が見ている、その真っ只中で、深く、深く。彼女の顔を見る事など、最早出来ない。俺の心がそれを許さない。
 ただ思う事は、彼女と関わるのはこれを最後にしなければならないという事。
 何十秒、そうしていただろう。恐る恐る顔を上げると、もうそこにあの家族の姿は無かった。震える手でペットボトルを握り締め、俺は自分の行動と一瞬見せた彼女の姿に覚悟を決め、由真達の元へ向かう。
 ゾウへの餌やりも終わって、広場の噴水に突撃して全身をびしょ濡れにして遊ぶ悠人を、由真は他の保護者達同様、遠巻きに見ている。俺はそんな由真のすぐ隣に立って、はしゃぐ悠人を見ながら尋ねた。
「あの子は、土星の夢を、見たのか」
 俺は悠人から目を離さない。きっと由真も、悠人を見守っている。
 しばらく迷った雰囲気を出してから、由真は答えた。
「覚えてない、ですって」
 俺は予想外の答えに呆気に取られ、由真を見下ろす。帽子の下で微笑みながら、やはり彼女は悠人を見つめていた。「でも幼稚園じゃ、誰が何の夢を見たか、なんて誰も気にしてないらしいですよ。そんな事より、日曜朝の戦隊ヒーロー番組の方がずっと大事らしいですから」
 その答えが、俺の求める全てだった。俺は人目を気にせず、ボロボロと涙を流す。ちょっと背伸びをする由真が俺の頭を撫でて慰めた。恥ずかしい、という思いなど何処吹く風で、俺は悠人の笑顔を見ながらしばらく泣いていた。

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