土星の日

宇津木健太郎

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桜坂みおの場合 その3

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 翌日、私は初めて千秋の彼氏君と顔を合わせた。髪は短く軽く日焼けしていて、第一印象は、少年というよりは好青年という印象だ。私と一緒に二階に上がってもらい、部屋の中からあまり出て来ない千秋に呼びかけてみる。最初は渋った様子だった千秋だが、彼氏君……堂守君が来たと分かったら、躊躇いがちにではあるがドアを開けてくれた。私は千秋と彼を二人部屋に残し、千夏に留守番を頼む様に言ってから、家を出た。
 向かった先は、学校だった。
 校門前には、先日生徒が生徒により刺されたというニュースに関してのスクープ情報を捥ぎ取ってやろうと、複数のメディアが集まっていた。学校側からは生徒達に箝口令の様なものが既に敷かれていて、取材には一切応じられないらしい。だが、テスト期間のずれ込んだ強制的な一週間の休校措置が取られていたお陰か、殆どの生徒とメディアが遭遇する事は無い様子だった。その代わり、対応に追われている教員らには、休む暇など無いだろう。
 こんな事態は予想していたので、私は事前に電話で連絡を入れていた。娘のいじめ問題について話し合う必要があるので、大変な時ではあると思うがどうしても一席設けて欲しいと。あくまで丁寧に連絡をしたつもりであるが、しかしただでさえ刺傷事件でてんてこ舞いな彼らからすれば私の申し出は厄介事以外の何物でもない様で、最初は一ヶ月か二ヶ月も先に伸ばそうと遠回しに伝えてきた。だが、娘が学校に行けない状態をただいたずらに引き延ばすだけであり、絶対に納得出来ないと伝えると、渋々という風に「一時間だけ」と時間制限を設けて提案したので、ひとまずそれで私は首肯したのだ。
 校門前で群がる取材陣を押しのけて構内の敷地に入り、私は職員室へ向かう。電話の鳴り続ける職員室から一人の教師が席を立ち、そこから少しだけ離れた進路相談室へと私を連れて行き、ようやく話をする事が出来た。
 千秋の担任教師は誠実だった……様に見えた。
 何が問題だったか、どんな騒動が原因で今回千秋がいじめられるに至ったか。それなりの年数を教師として経験してきたであろう様子を伺わせる。大元の原因が勿論土星の夢騒動である事は、彼ら教員も重々理解していたのだが、それはつまり、原因が理解出来ていながらそれを解決する手段と対策を見付けられていなかった、若しくは本腰を入れて解決しようとしていなかったからだ。何より、彼らは始め、私との対話を拒否しようとしていた相手である事を忘れてはいけない。
 案の定、会話は前進しなかった。私はただ、千秋が普通に安心して登校出来る環境を作れる様に大なり小なりの努力をして欲しいだけだ。その為にも、土星の夢関連のあれこれに対する偏見を生徒が無くしてくれる様な対策なりを講じて欲しい。刺傷事件に関しても根源はあの夢なのだから、ひいてはその対策こそが事態の解決にもなるのではないか。
 懇懇と説いた。全ては、娘の為に。
 或る程度は教員の多忙な現状を考慮して、譲歩しながら話をしたつもりだ。だが目の前の担任は、私が一つ提案や質問をする度に遠回しに拒絶する。決行を引き伸ばそうとしたり、言葉を濁して明確な返答を避けようとするのである。私は苛立ち、本筋とずれてしまう事は理解しながらも、そうした逃げの姿勢を一つ一つ、なるべく口調がきつくならない様に気を付けながら指摘した。
 徐々に担任が苛立つ様子が伝わってくる。恐らく私の言葉の一つ一つ、全てが、彼にとっては娘を過保護に思う母親の、重箱の隅をつつく様なうざったい言いがかりに聞こえてきているに違い無い。営業が取ってきた無茶な条件での案件を、軽いノリで押し付けられるあの時の感覚に似ているから、目の前の教員の気持ちは分かる。面倒事は、全て「ハイハイ」と適当に流していい加減に済ませてしまいたくなるものだ。
 だが私は、無茶だったり理不尽な事を要求しているつもりはない。だが彼らにとっては、私の言葉はどれだけ強く叫んでも彼らの心に届かない、雑音に過ぎないのだ。
 そんな様子がひしひしと感じられて、それが我慢出来なかった。喚き散らす事こそしなかったものの、そんな目の前の教員の態度に不信感が募り、言ってしまう。
「根源である夢の騒動の対策を一つも講じようとしていない教育体制でした、って外のマスコミに言いふらしましょうか? それなら流石に動いて頂けますよね?」
 途端に慌てふためき、彼は私に少し部屋で待つ様に言って、数分だけ席を外した。戻ってきた時には、ようやく校長と教頭を従えていた。或る種、今までこうして責任者を一人も連れてこなかった事も怠慢に感じられてしまう。
 そこから、ようやく話は少しだけ進展した。具体的な対策を話し合うまでは出来ないものの、それは現状を鑑みて私も了承する。ただ、一週間以内に具体的な対策を実行する事、生徒のみならず教員の間でも意識改革を実行する事、千秋だけではなく、他に土星の夢騒動の所為で日常の学校生活に支障を来している生徒達を集め、カウンセリングや具体的な解決案をしっかりと聞き入れて実行する事などを話し合う。
 間違い無くこれらを実行し、一週間以内に千秋や他のいじめられている生徒が安心して登校出来る環境を作って欲しい。その為に私も娘のメンタルケアなど、学校に行く事に前向きになってくれる様、コミュニケーションを重ねて行く、という事を話した。だがこの話の段階になって、困ったなぁ、と言いたげな表情をして校長が口を開く。
「桜坂さん。申し訳有りませんが、それに関しては難しいのではないかと」
「何故ですか? 学校側ではなく、私が娘に個人的にケアをしていく事なので、そちらに負担が増える事では……」
「ええ、ええ。勿論。こちらも手間、いえ負担が増えなくなるのはありがたいのですが、桜坂さんは、失礼ですがご主人がおられないでしょう? シングルで働いてらっしゃる方の自主的な教育というのはですね、少々乱暴な物言いにはなってしまうのですが、あまり娘さん自身の為にならないというのが通説でして……」
 私は耳を疑った。呆気に取られて声を出せずにいると、それを自分たちが優位に立っていると勘違いしたのか、担任が校長の言葉を引き継ぐ。
「それとですね、この高校を卒業した千秋さんのお姉さんが、都心でお水系のお仕事をされているという噂も一部教員の耳に届いておりまして。正直に申し上げますと、そうした娘さんを持たれているご家庭の方の教育は、却って千秋さんの為にならないかと」
 そこまで話を聞いて、私は耐え切れずに机に拳を叩き付けた。控えめな態度に出ていた私のそんな行動に動転したのか、私の前に座る三人の男は、一様に体を震わせた。震える声で私は抗った。
「確かに私は、娘達とちゃんと向き合って話をしてあげる機会がありませんでした。二人の現状も理解してなかった。……でも、それが大間違いだと分かったから、そしてお忙しいであろうこんな時期でも早急に解決して欲しいから、無理を言って今日、お話の場を設けてもらったんですよ。正直に言います。貴方がたよりも遥かに、私は千秋の事を考えてます。それを……」
 それ以上は言葉にならず、私は唇を噛み締める。頰を流れるのは、悔し涙だった。
 私自身が馬鹿にされる。娘達が馬鹿にされる。私に迷惑を掛けまいと、苦境に在る自分の事を隠していた二人の娘の気持ちに応えたいと心から思っているのに、目の前の教育者達にその思いを否定される。
 訥々と、私は自らの思いを語る。いかに娘達が優しいかを。この、たった一つの情報で日常生活をいとも容易く壊されてしまうこの世の中で、どれだけ耐え忍びながら努力を続けているかを。
 生徒達を名前の有る個人ではなく、生徒という記号で見ようとしている目の前の教師達に、この思いは伝わるだろうか。自分の子でなくとも、自分にとってかけがえの無い大切な人が思いつめていたら、この身に変えてでも救ってやりたいと願うその思いは理解してもらえるだろうか。
 愛は、土星の夢になど宿らない。
 ただ、心にこそ宿るというのに。


 どうやって教室を出たか覚えてはいない。だが、私が玄関を出るまで校長達三人が深く深く頭を下げる姿は目に焼き付いている。私はただその態度が形だけのものでない事を祈り、ふらつく足で学校を出る。
 途中、校門を出る私に向かってギャアギャアと喚きながらマイクを向けるマスコミに向かって、口汚い呪詛の言葉を呟いた。なんと言ったかは覚えておらず、しかし自分の口からそんな下品な言葉が出るとは思っていなかった事は記憶している。彼らは一様に口を閉ざし、私に道を開けた。
 少し寂しくなった大通りを歩く。夏の日差しが燦々と照りつける中、私は日傘も差さずに家路を辿る。或る程度涙を流してありったけの感情を吐露した今、私の中に感情の大きな起伏は無い。
 ただ、娘達の顔が浮かぶ。最近、二人の笑顔を見ていない。
 最後に家族で出掛けたのは、何年前になるだろう。
 ぼんやりと歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「桜坂……さん?」
 それは少々奇妙な声の掛け方だった。苗字だけで私の名を呼んだその声は若く、同僚や友達では有り得ない。寧ろそれは、偶然耳にした声をそのまま鸚鵡返しにし、その後で見知らぬ私の姿を見てとめて丁寧語になった、という、敢えて所感を述べるならそういった風の言い回しだったのだ。
 ともかく、私は声に惹かれて振り返る。どうやらその相手は、私が気付かない内にすれ違った女子高生だ。色白で、肩口まで伸ばした髪が目を引くが、暗い雰囲気のある自信無さげな様子をしている。そんな髪の毛と対照的な白いワンピースが映えていた。
 何でしょうか、と自分でも生気の無いと分かる声で尋ねる。ハッとした風にしどろもどろになる少女は、女子高生らしいその見た目から、千秋の同級生ではないかと考えた。尋ねると、歯切れは悪いが少女は肯定する。私は、涙で自分の化粧が崩れてはいないかと今更ながらに気付き、少し顔を隠しながら尋ねる。
「良く分かりになりましたね」
「そ、そっくりでしたので。あと、桜坂さんに以前写真を見せて頂いたのを覚えてて」
「ああ、そうなんだ。恥ずかしい」
 自虐的に笑いながら、あの子のケータイで写真なんて撮ったかしら、と心の中で小首を傾げる。少女は矢継ぎ早に尋ねた。「桜坂さんは、その……お元気ですか」
 逡巡したものの、結局は「ええ」と答えるに留めた。せめて千秋が学校に戻っても気まずくならない、戻りやすい、そんな環境を作る助けにする為に。「でも不安に思ってる所も多いみたいだから、良かったら……いえ、気楽に、明るく話し掛けてあげて欲しいの」
 そう言うと少女は「はい」と頷いた。私は胸を撫で下ろし、そして気付く。
「ああ、ごめんなさい。お名前は?」
「桐生と言います。……あの」
 と、桐生と名乗った少女は躊躇いがちに口を開く。言おうか言うまいか悩んでいる様子だったが、私は急かす事はせず、ただ彼女の言葉を待つ。桐生さんは言う。
「桜坂さんに彼氏が居るのはご存知ですか」
 ええ、と答えると、じゃあ、と彼女は口にした。「二人に伝えて欲しいんです。休校明けの日からは、もうずっと二人で登校するのがいいって」
「でも、まだあの子がいつ学校に戻れるかは……」
 すると少女は微笑んで、私の言葉を遮った。
「多分、前日ぐらいに学校に行く決心すると思うんです。ちょっと朝七時くらいの早めの時間に二人で登校して、交差点前のコンビニでアイスを買うとちょっとだけいい事があるかも知れません。堂守君……彼氏さんとは友達なので、伝えておきますね」
 学校の友達にも桜坂さんの事を伝えます、と言い終わると、桐生さんはそのまま振り返って去ってしまった。すぐ近くで停車していた病院行きのバスに乗り、そのバスの中から私に向かって微笑みながら会釈をする。少し呆気に取られつつ私も会釈をし、そのバスが去るのを見送った。
 不思議な少女だった。だが不気味な感じはしないし、何だか言う事を聞いてみようという気持ちになる。そう思わせる、不可思議な魅力を持つ少女だ。何より彼女や堂守君の存在は、不安一色だった私の心を幾らか晴らしてくれた。
 千秋は、孤独などではない。
 自らの心身を摩耗させながらも学費を稼ごうとした姉が居て、学校に戻ってくるのを待ってくれる友達が居て、放課後には部活を休んでまで見舞いに来る恋人も居る。
 彼女が孤独にならない為の環境を作り、その居場所を守ってあげるのが私の残された役目だろう。こんな、娘の現状や心境も理解出来ていなかった私は、そうする事でしか許されない。
 期末テストが終わった頃に、有給も使って連休を取ろう。五日間くらい取れれば充分だけれど、一週間も休めれば万々歳だ。上司やお局さんには、きっと睨まれるだろう。口ごたえをすれば、夢を見なかった人間として噂を流され、蔑まれるかも知れない。
 だが、それがどうした。
 かけがえの無い家族の為に生きる事こそ、私の残りの人生の役目。職場での環境など、今はもう私にとって問題ではない。
 立ち向かってやる。
 この勇気に、土星の夢の守護など必要は無かった。
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