土星の日

宇津木健太郎

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箱田アーネストの場合 その3

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 私は神秘主義者であると同時に、とても現実主義的だ。前者のみに傾倒している人間とは、周囲の反応や世間体などを一切きにする事無く、自己満足の段階で全てを完結させている、自分達の行動の全てが内側への指向性を持つ。社会に対する利益は、基本的に生まれない。
 私は違う。科学と理論と道理に基づいて一つ一つ根拠を作り上げ、一見して科学的過程を跳躍して結果を生み出している様な、神秘とはそういうものであると信じている。
 だからこそ、私自身は自分の信じる神秘性を広め、そして強く根付かせる為の努力をする。今回の土星の夢による『選別』も、自分で理論を構築し、理屈を考え、そして世間に発表した。普段から文学研究会の会長として培ってきた文章力や構成力は、そんな私自身の持論をより効果的に信憑性を持たせ、時に表現者特有のハッタリを効かせる事で読者の没入感を高めさせる。
 This Manもそうした研究と調査によるものの一つだ。今回の件に強い説得力を持たせて世間に浸透させるのに理想的な神秘性を持つ超常的社会現象は、確実に私と堂守君との絆を強くする、その一助になっている。
 だが、予想外の事態が起きた。夢を見た人間である五十嵐君と近藤君が、夢を見なかった生徒によって怪我を負わされた。近藤君に至っては意識不明の重体でさえある。
 これはとても懸念すべき事項だった。堂守君との関係も大切だが、副次的に発生し、実現する筈の『差別無き理想郷』の未来に向けて、劣等種が私達土星の夢の住民の心境を脅かす事があってはならない。
 折角築き上げた平和の壁が、たった一人の生徒の行動によって脅かされている。
 スマホを立ち上げて、クラスのグループメッセージのアプリを開く。つい昨日まで、皆が土星の夢について声高々に話し合い、とても崇高な会話が繰り広げられていたというのに、昨日の事件を発端に、急に一連の会話がパタリと止んでしまった。きっと、学校で起きた騒動と自分達の周囲を取り巻く環境の変化の流れを、機敏に感じ取ったのだろう。
 最早その時ではない、と。
 理想は理想でしかなかったのではないか、と。
 危機だった。私は即刻対策を講じなければならない現状を理解し、自室から篭らずにパソコンを立ち上げ、キーを叩く。新しい機関紙の発行に加え、SNSサイトへのアップロードも続けなければならない。
 既に私のアカウントは、SNSに投稿された土星の夢に関する情報の中で最速でトレンド入りをした事で、一気にフォロー登録者が増えた。元々それなりの数の登録者が居たが、土星の夢騒動発端以降、その数は三倍以上に膨れ上がっている。
 今、私は以前よりも大きな情報発信者としての力を得ている。情報と私自身の思想の発信は何よりも力になる筈だ。
 土星の夢に関する見解。デカルト的な深層心理の分解や解明。共通意識・見識として知られている夢占いの示す暗示。心理学や夢のメカニズムについての学術論文。
 あまねく全ての情報を探し出し、抽出し、『使える情報』を抜き出してネットワークに拡散させる。
 私の知識と研究は、世界に広まっていく。数珠繋ぎの情報の拡散は、全て味方している。
 なのに、何故変わらない!
 私は、朝起きてからずっと座っていたラップトップの前で、握り拳を机に叩き付ける。自分の頭に熱が篭り、脳がオーバーヒートしているのを感じた。ベッドから起きてすぐに作業を続けていて、扇風機からエアコンに空調を切り替える一瞬の時間すら惜しんでいた所為で、真夏の日差しが空高くから射し込み始めた私の部屋の温度は、蒸し暑く上昇していた。
 パソコンが、充電が不十分である事を告げている。型落ち品の所為か、放熱もあまり出来ていない様子だ。ここらで一度切り上げるのがいいだろう。私は充電器を差し込んで、ラップトップを荒々しく閉じた。時計を見ると、既に十一時を回っている。喉が乾き、ひりついている。私はようやく、この日初めて部屋を出た。
 一階に降りると、母がテレビを見て不安そうな顔をしていた。私が起きる音に気付くと、私とそっくりの青い双眸を私に向け、泣き出しそうな顔で私に訊いた。
「ああ、アニー。学校は大丈夫なの? 貴女は?」
「平気よ」
 どうって事ない。どうとも感じやしない。
 冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎ、カウンター越しにテレビのニュースを見る。ニュース、と言っても立派なものじゃない、私が土星の夢の情報を教えたテレビマンが製作しているような、どうしようもないワイドショーのワンコーナーだ。報道内容は、昨日私達の学校で起きた傷害事件について。
 丁度学校が一週間の臨時休校を発表した時期という事で、恐らく多くのマスコミ関係者は、大多数の生徒にインタビューする事が出来ず歯ぎしりをしている事だろう。報道に対して警戒心を強める大人の社会人に対して、テレビに出られるというだけで喜び、自慢する高校生をおだてて取材する事など、報道側にしてみれば朝飯前だ。そんな朝飯前の事が難しくなっているのだがら。
 本当に大丈夫なの、と繰り返し母が訊いてきた。私はうざったくなる。「ママ、大丈夫だから」と面倒臭いという雰囲気を隠す事もせず、私は答えた。
 母は、昔はもっと堂々としていた印象がある。少なくともまだ弟が小さかった頃は、ワイドショーを見て思考と行動を左右される事など無かったと思う。日本生まれ・日本育ちの私には良く分からないが、報道番組でありながらかくもエンタテインメント性が強調される日本の民放ワイドショーは、欧米文化圏の人間から見ればかなり異色らしい。だから、日本に来て十年くらいはロクにそんな番組は、母は見ようとしなかったと父から聞いた事があったのだが。
 今では、すっかり変わってしまった。弱くなってしまったのだろうか。
 そう言えば、私が小学校の頃に比べてかなり顔にシワも増え、体型も丸くなって威厳を感じなくなってしまった。私が母と少し距離を置きたいと考えるようになってきたのは、まるで将来自分がこうなるというモデルを見せつけられている様な錯覚を覚えるからかも知れない。
 弟は弟で、もしかしたら父に対しても同じ気落ちを抱いているのだろうか。そう考えて、ふと母に訊いた。
「アンディは?」
「あの子も、問題は無いって言ってたけど……」
「違う。今家に居るのかって」
「ええ、ずっと部屋に居る」
 母が答えた。父の事は、聞かなくても分かる。どうせ仕事だ。最近はどうにも顔が思い出しにくくなっているくらいに、父の顔を直接見ていない。
 これが、私の生活。私の家と家族。きっと、何処にでもある普通の一家。
 反吐が出そうだ。
 こんな家に、私の一生が拘束されるなんて馬鹿げた話など無いものだ。今の私ではない、もっともっと別の場所に、別の私が存在するべき場所がある。今の自分は、本当の自分ではない。もっと、私だけは誰よりも特別な筈だ。特別である為の努力は、勉強を始めとして充分以上に努力しているつもりだ。
 今の自分とは違う、誰かになりたい。
 思春期の少年少女が皆憧れるというそんな非日常への意識の収束や、選民思想の如き思考は、誰もが一度は抱く幻想だと大人達は言う。だがそれは、『自分が特別であろうとする為の努力をしない子供』に対してこそ向けられる言葉だ。
 私は違う。私だけは違う。今の自分から、もっと遠い存在へ……
 パキ、と水を入れたグラスの氷に、一筋の亀裂が入った。その音で我に返り、私は水差しを冷蔵庫の中に戻す。
 少しだけ、頭を冷やす必要がありそうだ。土星の夢の意識を拡大させる為の活動は、パソコンによる手段だけにはよらない。しかし、私が昨日メッセージを送った相手のアカウントを見ると、そこには何の変化も返信も無い。
 テレビ局に勤める南という男に昨夜、改めて連絡を入れた。新たな土星の夢に関する情報を渡し、停滞し始めたこの混乱期を更に混沌とさせんとする為だ。だが、南は一向に連絡を入れて来ようとしない。
 苛立つ。腹が立つ。
 私は幼児ではない。他の馬鹿共ならばともかくとして、自分の思い通りに事が進まないからと言って八つ当たりをしたり癇癪を起こしたり、などという、文字通りの子供じみた事は決してしない。それでも、そんな私が地団駄を踏んでやりたくなるくらいには怒りを感じていた。
 駄目だ。少し、頭を冷やそう。家に居ては駄目だ。環境を変えないと。
 実力テスト前になると自宅以外で勉強する様にしている私は、集中する時に場所を変える習慣がある。周囲に見知らぬ誰かが居るという緊張感が逆に内的な思考や行動に集中出来る様になるし、何より気分転換が出来るのが大きい。
 私は、自室から充電の終わったラップトップと財布を鞄に突っ込んで、スクーターの鍵を引っ掴んで階段を降りた。そうして、ジーンズとブラウスというシンプルな出で立ちのまま、玄関でサンダルを突っかけて外に出ようとした。正にその時、玄関のチャイムが鳴る。顔を上げると、ドアのすりガラス部分の向こうに複数の人影が見える。ぼんやりと見える外観と背格好を考慮するに、高校生らしい。時計を見れば、十一時になろうという時間だ。来訪客だとしても別段おかしい時間ではない。だが勿論、クラスメイトが訪問する予定は無かった。
 ドアを少しだけ開けて外を確認すると、女子としては身長の高めな私よりも更に背の高い男子生徒が二人。彼らの後ろに、もう二人の女子生徒。当然彼らは私服だが、恐らく同じ高校の生徒だろうという予測は付いた。
 女子二人は、私の顔を見てどきりとした様子で目を見開き、一歩下がる。逆に、男子二人は私を見て興味をそそられた様に一歩踏み出して口を開いた。
「お世話になってます。俺らアンディの友達なんですが、プリントとか、溜まったものを届けに」
「プリント?」
「ほら、学校が騒ぎの所為で休校になったじゃないですか。期末もずれ込んで。休校中でも、明けたら問答無用でテスト始まっちゃうから対策プリントとか先生が配ってくれたんですけど、アンディの机にプリントが残ったままだったんで、届けに」
 ああ、と私は頷き、「じゃあ渡しておく」と言って手を差し出すが、彼らは少し困った様子だった。
「出来たら、ちょっとだけでも上がらせてもらって、話を出来たらと思うんですが。心配なんすよ。ほら、アンディって意外と肝が小さいって言うか……」
 言われて、私は弟の普段の表情と態度を思い出す。何か言いたそうにしても、こちらから何だとちょっと詰め寄っただけで目を伏せるその態度は、私と血を分けた家族だとは思えない節さえあった。
 二階の手前の部屋に居るわ、と口頭で淡々と伝え、私は彼らを避けて外へ出た。ヘルメットを被ろうとして、もう一人の男子がちょっと巫山戯た調子で私に訊いた。
「あれっ。お出迎えしてくれないんですか?」
「これから出掛けるの」
「あー、美人にお茶出してもらえると思ってちょっと期待したんですけどねー」
 悪いけど、自惚れが過ぎたりおつむが悪い男が恋愛対象になる事は無いの。そう言ってやりたい気持ちを大人の対応で押さえ込み、私は無言で原付のキーを回し、発進させた。


 南からの連絡は、まだ何も無い。彼もまた、土星の夢の流行が衰退し始めていると考えたのだろうか。いや、或いは他局が報道していた、間接的に彼の番組と局が発信した、一連の騒動の発端を作った責任者としての対応に追われているのかも知れない。なれば、新しい土星の夢の話題を放送して視聴者を煽る行為は確かに得策ではないだろう。
 学校近くの喫茶店でラップトップのキーを叩き、注文したサイダーを時々口に運びながら、私はテスト勉強、土星の夢の情報収集と研究、そして拡散を繰り返していた。
 喫茶店の隅のテーブル席で一人、液晶画面と睨み合っていると、声を掛けてきた女子生徒が居た。数日前私を脅してきた、桜坂さんの友達だと名乗った少女の一人だった。
「何してんだ」
「勉強よ」
 事も無げに私は答える。実際、彼女が居る事に驚きはないし、それに対して私がどうこう思うところも無い。
 学校近くの喫茶店という事もあって、クラスメイトや知り合いに出会う事も珍しくない。学校の校則としては放課後に喫茶店に立ち寄る事は禁止しているのだが、何十年も前から残っている校則というだけで実質的な拘束力は既に失われている。時節柄、事件や騒ぎさえ起こさなければ黙認されている程度の話だ。
 だが、私が目の前のこの少女と出会って問題が起きないとは限らない。少しだけ警戒して、私はタイピングをしながらも意識を目の前の少女に集中させる。彼女は私の向かいの席に座って鞄を自分の隣に置き、ウェイターにコーラを注文した。
「忙しいのよ。後にならない?」
「騒動を治めるのに協力するなら、幾らでもそうしてやる」
 この会話を続けるとしたら、いたちごっこも甚だしい。そう思った私は乱暴にラップトップを閉じてそれを脇に押しやり、正面から相手の顔を見て言う。「手短にね」
 それでも彼女は、話を切り出す事を躊躇った。と言うよりも、気を落ち着かせる為に辛うじて感情を抑え込んでいた、という方が正しいだろうか。一度か二度、深く呼吸をしてから、ようやく彼女は本題に入った。
「桜坂さんが完全に家から出なくなった。彼女に謝罪するのは勿論だけど、昨日の傷害事件が切っ掛けで、友達が何人も小規模な『爆発』に巻き込まれたり、『爆発』を起こしたりしてる。解決には、みんなの土星の夢に対する意識を変えなきゃ駄目。だからもう箱田さんも、こんな意味の無い情報の感染なんてさせるの、止めて欲しい」
 悲痛な筈の彼女の訴えは、しかし驚く程に私の心には届かなかった。そもそも私の目の前の少女では、私が考えている目標が何であるか、という前提の共有すら出来ていない。
私の最終的な目標は、たった一人の少年の心。だが目の前の少女は、私の土星の夢の情報を拡散する行為から推測出来る、至極当然の目標しか理解していない。
 同じ人間で、こんな単純な事を分かり合うのに、こうまで苦労するとは。勿論、私が何も私自身の真実を語っていないという理由もあるだろうが、そもそもこれは、自分が相手の事を理解したつもりになっている、と錯覚している現状こそが問題なのだろう。
 ともかく、私は嘆息して答える。
「何を言われても、私はまだこの活動を止めるつもりはないの。個人的な目標を達成するまで繰り返す必要があるし、それは私一人でケリをつけなきゃならない。そして誰かにこれを言うつもりも無いわ」
「……まだそんな巫山戯た事言うの?」
 静かな怒気を帯びた声で絞り出す少女の声を聞き、私はゆっくりと返答する。
「巫山戯てなんかいない。私は、私が必要としてる目標の為に真剣に……」
「あんた一人の個人的な目標の所為で、何百人が泣いてると思ってるのよ」
「競争や個人戦に、同情や共感は要らないの。貴女が誰の為に怒って、何の為に行動しているのか、私には一切関係無いし、それに構う事で生じる損失や犠牲について考えれば、遠慮なんてしない」
「あたしは……!」
 溢れ出す怒気を隠せずに、叫びそうになる声を必死に押し殺している。震わせた握り拳は今にもテーブルに叩きつけそうな程だった。感情的になって相手をコントロールしようなんて、論理的思考を欠いて根拠の無い感情論に身を委ねる様なものよ。私はそう冷たく言う。私がテコでも動かないという事さえ理解してくれれば、彼女も諦めるしか選択肢はなくなる。理解させるのには少し骨が折れるだろうが、ハッタリ合戦なら負けはしない。
 目の前の、拳を固く固く握り締めた少女は言葉を絞り出す。
「……他人の行動や考えについては、何も関心が無いのね」
「ええ」
 人間が真の意味で感覚や思考を共有・共感する事は出来ない。その当人が人生の中で積み上げてきた情報や知識、体験が、そのものに対する価値観を潜在意識の中に作り出し、それを当人が価値基準に変える。その、千差万別な価値基準というフィルターを通す事で人間はその人だけの行動基準や価値基準を得る。その感覚を共有する事は出来ない。
 この、クオリアの共有を可能にする可能性を示してくれているものこそが、他ならぬ土星の夢であるというのに。
 何故、この少女はその重要性に気付く事が出来ないのか。
「……分かった」
 口を開いた目の前の少女の声は、暗く、思いつめていた。そうして、握り締めた拳から力を抜き、ただ、目の前に座る私を睨め付けた。
 不穏な雰囲気と空気を感じて、私は疑問符で埋め尽くされた頭を即座にフル回転させ、全身に力を入れ、身構える。
 その瞬間、私達のすぐ隣、正確には少女の席のすぐ隣に、死角から桐生さんが現れた。
 彼女はそっと手を伸ばし、少女の肩に手を乗せる。力んでいたらしい少女はビクリと大きく体を震わせて、座った姿勢のままで桐生さんを見上げ、目を丸くした。
 言葉を失う彼女に対して、桐生さんは腰を曲げて、少女のすぐ耳元でぼそぼそと何かを話し掛ける。あまりにもその声は小さく、私の位置からは何も聞き取れない。だが囁き終わると同時に少女はガタガタと体を震わせて、冷や汗を掻き始めた。
「もう行って。私、箱田さんと話す事があるから」
 桐生さんが言うと、少女は弾かれた様に立ち上がり、開いていた鞄のチャックを慌てて締めながら猛ダッシュで店を出て行った。コーラ代は、私が払うのか?
 立ち去った少女(そう言えば名前さえ知らない)が座っていた席に、彼女と同じ様に桐生さんが座る。ただ先程の少女と違うのは、桐生さんがとても冷静で、真っ直ぐ私の目を見てきたという事だ。陶磁器の様に白い彼女の肌が、店内に差し込む昼の日差しを受けてより白く光る。そんな日差しに目を細めて眩しがるそぶりも見せず、微動だにせず、彼女は私を見る。私は戯れに口を開いた。
「外で会うなんて、珍しいね。何でここに?」
「五十嵐君のお見舞いに行こうと思ってたの」
「過去完了形?」
「連絡が取れてないの。無事なのは分かってるけど」
 望まないのに来られたら迷惑なんじゃないかって。桐生さんはそう言って、ようやく運ばれてきた、彼女が頼んだわけではないコーラに手を伸ばし、一口飲んだ。私は冷ややかに言った。
「別れるの?」
 神秘的な魅力が無くなってしまったものね、土星の夢を見ていないんだもの。
 そう言ってやりたい気持ちを抑えて、私は桐生さんがどんな態度を取るか、内心少しワクワクする。彼女は少しだけ目を伏せて、自分の手元をじっと見る。そして答えた。
「私は、……別れたくない。もっと普通になって、五十嵐君に気を遣わせる様な事はしたくない。でも、私の変なところとか感覚とか、それを使えば絶対に人の役に立てるから、それを完全に戒める事も出来なくて……」
「桐生さんは、大切な事は何も出来てない。いい加減、まやかしを見せびらかすのは止めなよ」
 私は少し苛立ってしまう。それでも桐生さんは続けた。
「私が見て感じているものを、箱田さんにそっくりそのまま体験させる事は出来ない。人は、誰一人として同じ思考や価値観を共有出来ないんだもの。土星の夢を見たって、その共通意識は変わらない。でも……それが『当たり前』じゃないの? 自分と同じ人なんて何処にも居ない。それが当然で、不自然なんかじゃないって受け入れて初めて、箱田さんの求めてるものが手に入るんじゃないの?」
 何を言いやがる、この劣等種め。
「私は、五十嵐君が求めてる様な、普通の人に近付こうと思って頑張ってる。でもそれは、私が今異常だからじゃない。いつも通りの私を受け入れて欲しいから、まずは私が、私が嫌いな今の五十嵐君を受け入れようとしてるだけ。……認め合うとか、近付いて欲しいとかって、そうやって少しずつ変わっていくものじゃないの?」
「何が言いたいの」
 自分でも驚く程、私自身の声は冷たかった。そんな私に対して桐生さんは、やはりアンディがそうする様に躊躇いがちに、しかしとても言葉にしたそうに何度も私を見てくる。いい加減でその目と仕草を止めろ、と叫びそうになった時、桐生さんは意を決した様子で言った。
「そんな事じゃ堂守君、もう二度と箱田さんの事を見なくなる」
 私の中の怒りが、行き場を失う。
 だが、私の怒りはすぐに息を吹き返した。呼び水は、桐生愛華が私に見せたその憐憫の表情、そして同情の声音。私は上目遣いに彼女を睨み、怨嗟を込めた言葉で詰め寄る。
「その、せめて最後のチャンスだけは逃さないでね、みたいな物言いを止めて。……私の事、知らないくせに」
 お前はただ、その過敏な知覚で全てを理解した風に錯覚しているに過ぎないのだ。
「あんたに私の、何が分かる」
 人の心の内なんて、この世の誰も分からない……
 自分自身の言葉と思考に、心を抉られる。雷に打たれた様な衝撃だった。
 私の言葉を聞いても、桐生さんの表情には一切の動揺は認められない。寧ろ、その憐憫の表情は一層に色を濃くした。
 まさか。
 桐生さんは私から目を逸らして、その答えを口にした。

「桜坂さん、堂守君と付き合ってるんだよ」

 騒動が大きくなり始めて以降、堂守君が私や五十嵐君との付き合いが悪くなったのは、彼女を見舞いに行っていたから。どれだけ私が努力をしても彼が私の方を向かなかったのは、桜坂さんを心から……
「勿論、さっきの桜坂さんの友達に向かって箱田さんが言ってた、所詮人は自分だけが可愛い、自分の利益の為に人を踏み躙る覚悟がある、的な事を言ってたけど……。踏み躙った先で、確かに望んだものは得られるかも知れない。でも、踏み躙ったもののその先に何があるかまで、ちゃんと考えて動いてる? 私、箱田さんの事が心配で……!」
「あんたに……指図されなくても。手なんて差し伸べられても……」
 言い返そうとするが、喉が乾き、上手く舌が回らない。そんな私の言葉を遮って、苦しそうな表情で桐生さんは私に言った。
「さっきの子、箱田さんに自分の友達も知り合いも傷付けられてるんだよ? ねえ、あの子がさっき鞄の中に裁ちバサミ入れてたの見えた? それを握り締めてたの、見えた?」
 酷い寒気が走る。私は、さっきまでの光景を思い返した。あの怒りを絞り出す様な声は、ただの怒りではない。殺意だったのだ。そして彼女が一目散に店を飛び出して行ったのは、桐生さんが魔法の言葉を囁いたからでもなんでもない。ただ事実を、あの少女がハサミを握り締めている姿を見ていた事を耳打ちし、我に返らせただけの事なのだ。
 私の個人的欲望を成就させる為の行いが、私自身に刃を向けた。
 そして、苦痛と死はすぐ傍まで近付いていたのだ。
 私自身が、私を殺そうとした? 
 桐生さんが続ける。「目の前に居る人の感情も考えも、次の行動も分からない。そんなの当たり前だよ、他人と自分は違うんだもん。それを画一化しようとしても、出来るわけない。一度画一化されたとしても、そこから先でまた人は分岐していくよ。他人と自分を比較して優劣を決めるのが一番簡単で分かり易い、幸せを感じる方法だから……」
 頭を抱えて、桐生さんは苦しげな声で私に諭す。頭が混乱してまともな思考を固められない私は、ただ震える声で声を荒げる。もう、周囲の人の視線など関係無かった。
「か、関係無い! 大きな変革と改革には、障害と軋轢が生まれるもの。土星の夢が暗示した障害と試練の通り、この混乱さえ乗り切ったその先にこそ、犠牲があったからこそ強固になって生まれた新しい……」
「本当に、箱田さんに関係無いと思うの?」
 押さえた頭を横に振り、今にも泣き出しそうな声で桐生さんは口を開いた。そしてかなりの躊躇いを見せてから、しばらくの間を置いてからようやく言葉を続ける。

「アンドリュー君、夢を見てないんだよ。そして、随分前からいじめられてる」

 その言葉が一瞬、頭に入ってこなかった。アンディが? 劣等種? そんな馬鹿な。必死に否定しようとするが、そう言えば私は、彼が夢を見たかどうかを質問し、確認した事が今までに無かったと思い至る。
「どうして言わなかったの……!」
 衝撃の次に怒りが沸々と湧き上がり、私は怒鳴りつける。『超能力』を持つ彼女であれば、その事実をとうの昔に察知していた筈なのだ。それこそ、彼女が身近な人の危機を予告し、回避させてくれるいつもの様に。或る種、それこそが夢を見なかった彼女の残された責務である筈なのだ。
 だが桐生さんは伏し目がちに答える。何度も言おうとした、と。
「でも箱田さん、いつでも自分の事を優先しようとしてた。それに、伝えようとしたけど……アンドリュー君に、止められてた。迷惑掛けたくないんだって」
 でももう限界だったから、と震える声で口にして、顔を俯けて桐生さんは黙ってしまった。私は打ちひしがれていた。そして、今までの自分とアンディとの状況をまざまざと思い出し、愕然とする。
 後ろから声をかけられて大げさに驚くのは、いつ自分の身に危険が及ぶか分からない生活を送っているからだったのだ。何かを言いたそうにして、でも口に出来ないあのもどかしく苛だたしい、アンディと桐生さんの見せた態度を思い出す。
 言いたくても言えない、優しさ故のその態度を。
 昔からアンディは優し過ぎるのだという事を、今更ながらに再び思い出す。何度も、彼はサインを示していたというのに。
 私は、何一つ気付けなかった。気付こうとしていなかった。
 体が震えて何も言葉を発する事の出来ない私に、涙と鼻水を流しながら桐生さんは更に言葉を、やっとの思いで紡ぐ。
「箱田さんの理想なんて、実現しない。This Manについての箱田さんの持論、学内新聞で読んだよ。でも……『夢の中の男』なんて存在しない。あれは、フェイクニュースなんだよ。現象が報告された年代や現象の規模の大きさの割に、世間の話題に上がる事は無かった。精神科医が患者の症状を他人に話すなんて有り得ないし、そもそも話の発端になった精神科医はニューヨークじゃなくてイタリア人。その医師も、既にあの現象はフェイクだってカミングアウトしてる」
 視界が揺れる。信じていたものが崩れていく。「……みんな、自分だけはって思う。注目されたくて少しだけ盛って話したり発信したりした情報は、同じ考えを持った人達のフィルターやバイアスに掛けられてどんどん真実から離れていく。でも一早い情報を求めて使ったインターネットの検索は、トップに出てくる結果を鵜呑みにして信じる人が多い今の時代に、真実だけがどんどん隠れていって……何も見えなくなる。箱田さんも、自分の求める結果だけしか見ようとしなかった。あんな、何の意味も無い土星の夢の所為で……」
 桐生さんの言葉は、後半から耳に入って来なかった。
 私の行動の全ては、徒労だった。そして、混乱の中でも日常を維持しようとする社会と人間の力の繋がりを、私は力尽くで断ち切ってしまった。
 私は鞄を引っ掴んで席を立ち、走って店を飛び出した。
 夏の日照りが私の頰に焼き付ける。激しい動悸を抑え切れず、ただ焦燥感に駆られて、私はヘルメットを被り、スクーターに跨った。エンジンを掛けようとした時、そう遠くない場所で悲鳴とざわめきが聞こえた。きっと、さっきの少女が私にしようとした事と同じか、或いは近い事が起きた。誰かと誰かの間で。
 間違いであって欲しいと、この一連の騒動の中で初めて赤の他人の心配をしながら、私はスクーターを発進させる。
 走る先々で悲鳴が聞こえる。それは、私の幻聴なのかも知れない。だが、それらは何故だかとても生々しい密度と現実感を持って、私の心へと迫ってくる。それら全ては、私の全てを許容しようとしない。街中から、混乱の声が聞こえる。
 どうしてそんな事で。
 何で信じてくれないの。
 あんな馬鹿げた夢なんかで。
 離れろもう関わるなよ劣等種。
 前から気に入らなかったんだよ。
 何だよお前土星の夢見てないのか。
 一緒に居ようって言ってくれたのに。
 お前なんかと居るとみんなに馬鹿にされる。
 悲鳴、悲鳴、悲鳴。恐怖と慢心と猜疑心が飽和していく。
 ……自分と違う存在を受け入れない言葉。そんな存在を能動的に排除していく言葉。それら全ては、私が騒ぎを大きくした事が大きな要因になっている。
 私には関係無い。彼らの心が弱かった。大きな変革に戸惑い、或いはその変化自体を許容する事が出来ずに、自らが軋轢を生む原因を作り出した。夢に惑わされた、彼ら自身に責任がある。私は切っ掛けであり、諸悪の根源ではない。
 そうやって自分に言い聞かせて、愚かな有象無象の短絡的で刹那的な思考回路とそれが引き起こした目の前の結果について、どうにか免罪符を得ようとした。
 それでも、身内に危害が及んだ事実に対する言い訳だけは、私の心が許さなかった。そして、今までの弟の言動から察してやる事も、彼の話を聞こうとさえして来なかった事も、全て私に責任があるのだ。
 積み上げた現実やロジックが導く遥か先の神秘と、証明の必要さえも無い家族という現実。それは、どんな存在よりも近しいのに、私は距離を置いてきた。
 乱暴にハンドルを切り、家の前でスクーターを急ブレーキで止める。ヘルメットを慌てて脱ぎながら玄関に駆け寄り、ドアを開ける。家の中は静かなものだった。ママ! と大声で母を呼ぶと、リビングから声がした。
「アンディは!」
「さっきのお友達と、何処か出かけてったよ」
「何処!」
「何も言ってなかったけど……。ねえ、お昼は?」
 最後まで母の話を聞かず、私は踵を返して再びヘルメットを被ってスクーターに跨り、前輪がウィリーしそうになる位の急発進をする。街の中を縫い、あてもなく走った。そして私は、私自身を責め、否定し始める。
 見たいものを信じた。それしか信じようとしなかった。自分の都合のいい情報だけを見て、選び、そして脚色した。愚かしい。存在しない夢の男の俗説を雄弁に語っていた自分は、知る人からして見ればきっと滑稽そのものだったに違い無い。私がSNSでしたのはつまり、そういう事だ。
 何故私や、私のアカウントを支持してくれている人達はこの間違いに気付けなかったのか。簡単だ。自分の都合のいい情報を得た事に満足して、それが本当に真実であるかどうかという情報を必要としなかったのだ。欲しい情報だけを取捨選択し、そして自分の考えに聴衆を追随させ、扇情する為の情報を拡散する。これもまた、個人がネットを経由して世界と関わりを持った状態で自分が情報の発信者となる矜持を捨て切れない、メディアが得てして抱きがちな傲慢と慢心そのものだ。
 私の神秘は、粉々に砕かれる。現実と恐怖が、私の心を侵食した。ただ、弟だけが心配だった。
 土星の夢を見た、という共通のクオリアを持っている筈の私とあの少女でさえ、鋏を向け、向けられる関係になった。あの混沌が、神秘性と、トリミングされた情報で汚された土星の夢を介して増幅している。飽和した狂気と怒りが、人を傷付けている。
 優し過ぎる、可哀想なアンドリュー。今、何処で何をされている?
 気が気でなかった。周りが見えなくなっていた。
 曲がった先が下り坂になっている事に気付かなかった。
 スピードの乗ったスクーターは、下り坂の始まる瞬間で宙へと飛び出す。
 浮いた車体と一瞬の無重力状態に動揺した私は、タイヤが地面についていない状態で急ブレーキを掛ける。回転の止まったタイヤは、しかし慣性の付いたままのバイクを止める事が出来ないままにアスファルトに接地する。
 急激な摩擦抵抗は、飛び出した勢いそのままに私の体を宙空へと放り出した。
 バイクが舞う。空が落ちる。
 数メートルの高さから地面に叩きつけられ、坂を転がり落ちた先に丁字路が見える。
 丁字路で私の体は止まる。身体中に激痛が走っていた。
 急ブレーキが聞こえ、すぐ目の前に迫る車が見えた。
 ごめんね、と頭の中に浮かんだ謝罪の言葉は、誰に向けられたものだったろう。
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