土星の日

宇津木健太郎

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南康介の場合 その3

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 悪酔いした様な頭の痛み、それによりシェイクされた脳が作る目眩。酷いものだ。風俗街から逃げて駆け込んだ飲み屋の酒が俺の胃袋を掻き乱し、内容物と胃液が一気にせり上がって、道端にあらかたぶちまけた。そうしたら、少しだけ頭がハッキリとする。
 ああ、俺は何をしているのだろう。
 気にしないふりをして、どんな大騒ぎだろうと些細な事と割り切ろうとした俺自身が、実のところは一番その騒ぎに影響されやすいのじゃないだろうか。テレビマンとしては、一側面から見れば間違っていないのだろうが。
 たった今裸の女を抱いてやりたい放題をしたばかりだというのに、俺は人肌が恋しかった。金さえ払ってマナーを守れば幾らでも股を開く低俗な女の肌ではない。そういった類の温もりではなくて。
 この心から欲している温もりを愛と呼ぶのだと、俺は気付いている。だけど、分からないふりをしてただ耳と目を閉じて、夜の街を好きな様に歩く。誰も俺に声を掛けない。キャッチの男すら俺を無視する。孤独。孤独だ。
 この一個人に過ぎない俺のあずかり知らない、赤々と輝かしく燃える、夢の中の土星。そいつは、俺を包んでくれるだろうか。だからこそ、夢を見た連中はああも誇らしげで、胸を張り、道の真ん中を歩くのか。
 由真。お前は、俺が居なくても生きていけるのか。悠人とやっていけるという自信があるのか。
 そんなあいつに、俺は何をしてきたっけ。
 大学を出た頃までは、俺は確かに野心家だった。携帯電話自体が今ほど普及していなかった時代に、テレビはまだ絶対的な影響力を持っていた。その大きな可能性に魅了されたのだ。
 当時のテレビ業界内部は、今以上に『視聴者の気持ち』には無関心だったと思う。テレビ局の人間が持てる力は自己を増長させ、過信させる。それが熱意にもなるし、取材態度として現れる。いい事も悪い事もひっくるめて、俺はそんな粗野な世界の中で揉まれ、成長した。
 番組制作の大部分に関われるようになるには、時間とコネと運が必要だった。俺の熱意も野心も、そして番組制作に関われない欲求不満も、全てが原動力になったと思う。
 他人を思いやる気持ちは、その過程で徐々に磨耗した。入社当時は、野心と同時に理想もしっかりと抱き、そしてそれを実現させてやろうという気概に満ちていた筈だった。
 何故、こんな自己中心的な人間になってしまったのだろう。
 理想を目標にするのは、素晴らしい事だと思う。だが、実際に現場で働き、直近での成果を求められる環境で効率を優先して思考し行動していくと、理想なんて言葉は、綺麗事と呼ばれたり夢と同義であると決めつけられ、人からは鼻で笑われるようになる。それでも努力して理想を求める友達や同期も居たが、俺は安月給からの脱却や出世という短期的な成果を優先し、そうした理想を捨てた。
 この時、自分の本心や自我が壊されてしまったのだと思う。壊れたての俺の心と体は、当時ボロボロだった。
 思えば、由真はそんな俺の心を、せめて野心と理想を両立させていた精神の自分へと引き戻そうとしてくれていたのかも知れない。
 就職して少しした頃、先輩に連れられて行ったバーで酔った俺は、勢いで女子大生をナンパした。由真は内気な女性だったが、それでも皆に明るく、優しく接していた。
 この人になら悩みを打ち明けてもいいかなぁ、とぼんやりと考えた事を覚えている。家族にも上司にも相談出来ない、理想と現実のギャップや障害の数々に対する愚痴を、彼女は静かに聞いて、そして共感とアドバイスをしてくれた。
 彼女のそんな優しさに感謝しながらも、俺はアドバイスを実行出来なかった。現場に居る先輩や上司の、「自分の殻を捨てて素直になって俺の言う事を聞け」「我の強い考えなんて仕事に邪魔だから捨てろ」と何度も聞かされた言葉に感化され、俺は彼らの都合のいい人間に変わっていく。
 結果、かつて疑問を持つ生き方をしていたそんな連中の一人に、俺はなってしまった。
 恋人の優しい言葉よりも、自分自身を否定する上司の言葉を受け入れた結果、仕事は上手く行くようになる。一応由真は、「無理しないでね」と俺を気にかけながらもそんな俺を喜んで迎え入れてくれた。だが果たして、彼女は本当に喜んでくれていたか。
 俺は当時確かに彼女を愛していた筈なのだが、由真が当時の俺を本当に受け入れてくれていたのだろうか。由真はこの頃から、何かを諦めた様に、俺に対して仕事に関する話をしなくなったと記憶している。
 その代わりに、手料理を良く作ってくれるようになった。時々失敗もしたけれど、二回目はずっと上手く出来るそんな彼女の料理が食いたくて、俺はなるべく、早く帰れる日は真っ直ぐ家に帰っていた。たまの休日には何処か一緒に出かけようと提案したが、疲れているだろうからと、多くの場合は家デートをしていた。映画を観たり、本を読んだり、ただゆっくり時間が流れるのみに身を任せた。悲しい時や苦しい時は、由真の方から体を求めてくれた。優しい肌の感触は、俺が主導権を握るセックスとは全く違う暖かさを感じた。
 何故、俺はこうも昔を思い出すのだろう。
 理由は簡単だ。当時持っていた何もかもを、俺は今、持っていない。
 何処で無くしてしまったんだ。
 胸が苦しくなり、俺はただでさえフラフラとおぼつかなく歩いていた足を更に絡め、派手にアスファルトの上に転んだ。横を通り過ぎる連中は、そんな無様な俺を見てクスクスと笑う。俺は、一体何を間違えたのだろう。ぼんやりとする意識の中で、俺は誰かに電話を掛けて助けを求めた。
 苦しい。押し潰されそうだ。苦しい。助けて。
 自分で聞いても、余りにもその声は弱々しく、か細かった。
 しっかりして下さいよ。そう声を掛けたのは、道尾だった。俺は朦朧とする意識の中で道尾の肩を借り、局への道を戻る。
 人の少なくなったオフィス内のソファに寝かされ、俺は道尾の持ってきた水を流し込んだ。少しだけ正気に戻った頭が、より一層俺の心の孤独を浮き彫りにする。おずおずという風に道尾が訊いてきた。
「その……どうしたんスか?」
「何でもねえよ」
 それ以上訊いてきたぶん殴るぞ、と間髪入れずに釘を刺す。遠回しに深い事情があったと認めてしまっている様なものではあるが、とにかく無駄な会話と詮索を減らしたかったのだ。道尾はまだ何か訊きたそうにしてはいたものの、それ以上俺の顔の怪我については何も言ってこない。俺はそんな道尾の代わりに、こいつに訊く事があった。
「何で迎えに来たんだ」
「だって、電話で助けてくれって」
 そんな言葉を言ったのか、と強い後悔に襲われると同時に、俺はやはり考える。
「何で、本当に来たんだ」
「命令でしょ。どうせ」
「嫌じゃなかったのか」
 言葉を、包み隠さずに口にする。すると道尾は少し嫌そうな顔をして、「嫌に決まってますよ」と馬鹿正直に答えた。大企業で出世出来ないタイプだろう、と俺は心の中で勝手に評価を下した。だが、道尾は続ける。「でも、その人が好きか嫌いかってのと人を助けるのとは全然別の話でしょう」
 俺は、上司や先輩に自分の人生や生き方や主義主張を全否定され、彼らの望む人物像としての南康介を作り上げた。そうする事が、将来の自己成長の為だと信じていたからだ。だが目の前に居る二十二歳のペーペーは、そんな自分を殺した半生を送る事になった俺を、いい意味で笑い飛ばしてしまった。こいつは、俺の様に鼻持ちならない体育会系の上司や同僚ばかりのこの環境の中で、決して自分の主義主張を変えず、それでも自分が生きていく為に必要なものを捨てない様に生きていく事を選択している。
 良い悪いではなくて、そんなこいつの生き方が、俺に真似出来るだろうか。そしてこいつの様な生き方をしても、俺は今と同じ様な生活を送る事が出来ていただろうか。
 ……いや、無理だろう。道尾を飲みに連れていっても、「すぐ吐くんで無理です」とこいつはハッキリと言って断る事が出来る。飲ませて潰したい俺や上司の煽り台詞も気にせず、ただ弱い酒かソフトドリンクを飲み、それでいてそれなりに気分を盛り上げて周りと打ち解ける。「まずは疑問を持たずに素直に従ってやってみろ」という言葉にも疑問を持ち、自分が疑問に思った事や不思議に感じた事を正直に訊く。それに対して俺達は生意気な奴だと考える事が殆どだったが、そんな疑問や質問にちゃんと答えなかった俺達は、一体何様のつもりだったのだろう。
 時代は変わっている。それは、テレビマンである俺がいつも言っている事でもあった。変化に敏感であらねばならない俺は、個人が情報を発信出来るこの時勢において、より刺激的な情報を作り出し、発信する事が責務だと感じていた。いつまでもテレビ至上主義な考えの幹部連中と俺は違う、という、それこそ頑固な思考回路で。
 変わる。変わるのだ。全ては。それが不満や怒りであれば、一つの切っ掛けで人は奮い立つ事が出来る。由真が正にそれだ。
 変われなかったのは、俺の方だ。
 矮小だ、と自分を卑下して項垂れていると、スマートフォンが着信を告げた。メッセージを受信している。俺は、ロック画面に表示された名前を見る。
『Annie Hako』
 忘れもしない、あのハーフの女子高生のニックネームだった。「またネタがありますよ」という文面が、シンプルに表示されている。
 普段であれば、俺はすぐにでも飛び付いて話を聞く旨の返信をしていた事だろう。ついでに、テレビに出演する交渉もまたしていたかも知れない。だが今は、そんな気分ではなかった。ただ、今確かめたい事は一つだけだ。
「道尾。お前、土星の夢についてどう思う?」
 視聴者や有識者に対してではなく、知り合いに個人的な意見としてこの話題についての感想を訊いたのは、これが初めてだった。そして今、道尾の答えについては大方の予想がついている。道尾は、ちょっとだけ呆れた風に答える。
「どうも思いませんよ。あれは、ただの夢です」
 そんな夢に振り回される貴方も世間もどうかしている。そう言いたげな気怠げな口調で口にして、道尾は湯呑のお茶を飲み干した。
 振り回しているのも、俺だけどな。俺は自虐的に笑って、ソファの上に寝転がったまま今度こそ目を瞑る。
 土星の夢の騒動は、まだ加速している。


 加速した土星の夢の混迷は、一つの最悪の事態を引き起こした。局からそう遠くない高校で傷害事件が起きたというのだ。問題はその傷害事件の容疑者である生徒が、土星の夢の騒動を切っ掛けにしていじめられる事となった生徒による犯行であるらしい、というまことしやかな噂が囁かれている事だ。
「南さん……」
 道尾が不安そうな声で俺を見てくる。だが当の俺はと言えば、多少の動揺こそあれ、取り立てて騒ぐ必要も無い事だと割り切ってしまっていた。別に、自分が製作した番組の影響で社会への問題が出てしまった事は、今回が初めてではない。
 刺激的な事件が起きれば、視聴者の情動を大きく揺り動かす単語を強調して用いる事で恐怖感や優越感などを煽る事は、テレビ屋にとっての常套手段だ。だが、俺達が関わるのはそこまでであり、その報道が世間にどんな影響を与えるか、それは関係無い、と割り切って考えなければならない。二次災害的に事件が起こってもシラを切り通せばすぐに世間は忘れるし、何よりその二次災害的事件を新しいネタにして記事を書く事も必要になってくるからだ。
 ただ今回だけ、そうした「他人事」の感覚が少し薄いという、それだけの事だ。そして俺が心配しなければならないのは、一人の生徒を犯罪に駆り立ててしまったのかも知れないという予想しか出来ない無意味な推量ではなく、どの様な対処をすれば会社への世間の風当たりが弱くなるかという危機管理の計算だ。
 まず、これを殊更に掻き立てて事を荒立てるのは得策ではない。言及も謝罪もせず、少なくとも俺の番組ではこのニュースについて扱う事はせず、土星の夢について視聴者の不安や意識を先導した事についての言及や謝罪なども、報道する必要は全く無い。全ては、報道を受けた視聴者が勝手に解釈し、思考し、行動を起こしたに過ぎないのだ。それが、一組織に所属する人間としての最適解。恐らくは、誰でもそうする。
 だが、道尾はそうもいかない様子だった。
「見舞いとか……」
「何て言って?」
 問うと、道尾は口を閉ざす。そう、それが、人が最も取り得る一番の選択であるべきなのだ。昨日までの俺であれば、そんな青っちろい道尾の思考や態度を嘲笑し、場合によっては叱責さえしただろう。だが、今の俺はただ静かに道尾の疑問に淡々と正解を指し示してやるに止める。
 例えどんなに道尾の選択や信念がテレビマンとして間違ったものであったとしても、それが彼の生きる指標になる。それを無下に奪い取ろうという気には、最早なれなかった。
 ニュースは、尚も傷害事件についての報道を続ける。加害者の生徒は現在警察に身柄を拘束されているらしい。二名居る被害者の内一人は既に意識を回復し一週間以内に退院可能だが、もう一人は意識不明であるらしい。
 関係無い。俺達には、直接関係の無い話だ。自分にそう言い聞かせて、俺はソファでじっと座る。そうしている間に、学校の生徒らしい少年のインタビュー映像が流れた。首から上は見切れる形で録画されているが、声に加工はされていない。時々映像が繋がれている痕跡が見られ、しかもそれが若干不自然なタイミングで入っている為、恐らくは制作側が意図的な編集を入れたものになるのだろう。要約すると、加害者の生徒は土星の夢を見なかった事に対する迫害を受けていたと答えていた。俺は画面から目を離さずに道尾に訊く。
「これ、ウチの局か」
「いいえ、別の放送局が……」
 道尾が少し焦りながら答え切ろうとしたところで、少年はカットされた映像編集の中でとてもスムーズに言った。
『土星の夢が、テレビでクローズアップされてから、ずっとこんな状況が続いてましたね』
 急いでチャンネル表示で局を確認すると、それは今現在ウチの局と視聴率で張り合いをしているライバル局だった。
 やられた、というのが、まず感じた素直な感想だった。何度も自分に戒めている様に、現代とは、集客力の高さが見込まれる情報を、個人が容易に発信出来る様になった社会だ。その拡散力が一度必要以上の力を持てば、それが良識的なものであれ悪意的なものであれ、拡散された情報の対象はそれと同等の影響を受ける事になる。
 ましてや今回の話題は、今ノリに乗っている『土星の夢の引き起こした現象』についてだ。ネットの匿名性は尾鰭をつけて広がっていく。それこそ、俺達メディアのお家芸である、『真実かどうかではなく、刺激的かどうか』に過度な比重を置いたイメージを付与しながら、押し寄せる鉄砲水の様に。
 既に世間では、何度も土星の夢についての特集を組んだ俺の持ち番組が、一番最初にその格差を扇情した事は広く知れ渡っている。
 真綿で首を絞められる様、とは正にこの事だろう。今はまだ目に見える具体的な危機は襲ってきていないものの、大した間を置かずして、たった十秒にも満たないインタビュー映像はその言葉を世間の共通認識とし、無責任でありながら非常に強い集客力を持ちながら、俺の地位を揺るがそうとする。
 ……全ての始まりは、一体何が原因だったろうか。
 俺も、世間も、あのハーフの女子高生も、深い意味を考えて行動を起こし、影響を及ぼされた訳ではない。そうした方がいいだろう、という当て推量とどんぶり勘定の下で判断された行動に過ぎず、それが将来的にどんな影響を及ぼすのか、まるで考えようとしなかった。ほんの一滴の雫が起こしたに過ぎない波紋が、結果として大きな波風を呼んでしまう。その意味と重大さが、俺達の心を締め付けていく。
 冷や汗が流れる。それと同時に、オフィスの電話が一本、また一本と鳴り始めた。
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