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2.オルブライト侯爵の魔法が使えない弟子
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パトリスが弟子になる提案を受けると、アンブローズは安堵の息をついた。パトリスの手を両手で包み込むと、くしゃりと目尻に皺を寄せて微笑む。
その微笑みは、かつてパトリスの母親が向けてくれたような、慈愛に満ちたものだった。
「可愛い弟子ができて嬉しいよ。これからよろしくね」
アンブローズの言葉が、締め切った部屋の中のように真っ暗だったパトリスの心の中に一筋の光を落とした。
この人はどうしてこんなにも、落ちこぼれと言われている自分を必要としてくれるのだろう。
小さな胸の中に浮かんだ疑問を、パトリスはすぐに消し去った。
理由なんてどうでもいい。周囲の人間から疎まれてきた少女にとって、自分を必要としてくれる人の存在はありがたく、決して失いたくないものだった。
「よろしくお願いします、お師匠様」
「私のことはアンブローズと呼びなさい。お師匠様と呼ばれるのはどうも、堅苦しくて苦手なんだ」
アンブローズはあっけらかんと言った。当時すでに大魔法使いの座を手にしていたが、その地位を振りかざそうとしない。
パトリスはアンブローズのその言葉に感銘を受けたが、ブラッドは呆れたように溜息をついた。
「そのようなことを仰っていると、またグレンヴィル伯爵から小言を喰らいますよ。大魔法使いの威厳を持てと何度も言われているではありませんか」
魔法使いは総じてプライドが高い生き物だ。しかしその頂点に立つアンブローズは、プライドなんて紙を丸めて捨てる如く否定するため、他の魔法使いたちは頭を抱えていた。
パトリスの父親であるグランヴィル伯爵もまた、頭を抱える魔法使いのうちの一人だった。
その日以来、アンブローズとブラッドは週に一度、グレンヴィル伯爵家のタウンハウスを訪ねるようになった。
本来なら弟子となったパトリスがアンブローズの家を訪ねて教えを乞うべきところだ。しかしパトリスは父親から外出を禁じられていたため、畏れ多くも師と兄弟子に来てもらうこととなった。
エスメラルダ王国の大魔導士を屋敷に呼びつけているなんて、もしもエスメラルダ王国の人々がこのことを知れば、こぞって非難されるかもしれない。しかしパトリスを弟子にしていることは秘密にされていたため、その事態は起きなかった。
アンブローズによる特別授業は、パトリスが父親から勘当されるまでの九年間、ずっと続いた。
授業の内容は座学が九割と実技が一割。週に一度の授業が、パトリスの唯一の楽しみだった。
座学では魔法の歴史や理論を嚙み砕いて教えてもらった。
アンブローズの弟子になる前は、母親が生きていた頃は母親が、以降は父親か父親が雇った家庭教師から魔法を教わっていた。彼らの説明はどれをとっても難しく聞こえたが、アンブローズの説明はわかりやすく、パトリスは乾いた土が水を吸うように知識をつけた。
実技はアンブローズの手本を真似て魔法を練習する内容だったが、パトリスは一度も成功した試しがなかった。大魔法使いのアンブローズでもパトリスから魔法の才を引き出すことはできなかった。しかし彼は一度もパトリスが魔法を使えないことを責めなかった。
それどころか、パトリスもまたブラッドと同じく自分の自慢の弟子だと、折に触れて言っていた。
幼いころから落ちこぼれ扱いをされてきたパトリスは、アンブローズの言葉に何度も救われたのだった。
兄弟子のブラッドとも上手くやっていた。
平民のブラッドは、偶然にも王都の平民学校を訪れたアンブローズの目に留まり、弟子となった経緯がある。
出会った当初は貴族のパトリスに対して引け目を感じており、兄弟子と言うより貴族に仕える平民のようにパトリスに接していた。それを見たアンブローズに注意され、少しずつ兄弟子らしく振舞うようになったのだった。
初めはパトリスをお嬢様と呼んでいたブラッドだが、以降は名前で呼んでいる。パトリスもまた、アンブローズの意向に則り、ブラッドを名前で呼んだ。
真面目で心優しいブラッドのことを、パトリスはすぐに好きになった。
やがてブラッドが魔法騎士として王立騎士団に入団した。
ブラッドはアンブローズの見立て通り魔法の才があった。しかし本人が魔法騎士になることを望んだため、アンブローズの弟子でありながら魔法騎士となった。
パトリスはブラッドからその話を聞かされた時は胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じたが、無理やり笑みを取り繕い、大好きな兄弟子の門出を祝った。
ブラッドが王立騎士団に入団してからというもの、会えない日々が続いた。新米魔法騎士となったブラッドは訓練や魔物討伐の遠征で多忙だったのだ。それでもブラッドは、時おり手紙を送ってくれた。
アンブローズには会っているようで、彼からブラッドの近況を聞くこととブラッドからの手紙が、パトリスの楽しみとなっていた。
しかしパトリスの穏やかな平和は、今から三年前のとある事件がきっかけで、音を立てて崩れ去ることとなった。
その日、十五歳になったパトリスは、十数年ぶりに外出を許可されて街にいた。ブラッドへの恋しさを募らせたパトリスは、勇気を出して父親に外出の許可をとったのだ。
今まで自分からしたいことを言わなかったパトリスが、自分から頼みごとをしに来たことに、パトリスの父親はいささか驚いていた。
「――今日だけはいいだろう」
その一言に、パトリスは跳び上がって喜びたくなるのを堪えた。正直なところ、パトリスは外出を許してもらえるとは思ってもみなかったから驚きもあった。
パトリスは、用意された家紋が入っていない馬車に乗り、街に出た。
行き先は、王都のはずれにある王立騎士団御用達の武器職人の工房。
アンブローズの話では、ブラッドは遠征前に必ず、自身の持っている剣を武器職人に預けるそうだ。
魔力の多いブラッドが剣に魔法を込めると、予め剣に付与されている魔法の術式が壊れてしまうことがあるらしい。そこで遠征前には必ず付与魔法をかけ直してもらうそうだ。
数日前にブラッドから送られてきた手紙によると、もうすぐまた遠征に出るらしい。会えるかどうかはわからないが、できることなら一目見たい。
浮ついた気持ちで馬車の外の景色を見ていると突然、ガタンと馬車が大きく揺れた。
パトリスの視界が傾き、気付いた時には馬車が横転していた。
体中が痛い。気付いた時には、パトリスは体を打ちつけて倒れていた。
何が起こったのかわからないでいるパトリスの前に、平民らしい簡素な服装の男が二人、現れた。
「珍しい銀色の髪と、水色の瞳――お前がグランヴィル伯爵家の次女だな」
「まさか、こんなにも簡単に攻撃できるとは思わなかったな。連れて行こうぜ」
初対面で平民の彼らがなぜパトリスのことを知っているのかわからない。ただ一つわかっているのは、自分は誘拐されるかもしれないということだった。
わかっていても、体の痛みと恐怖のせいで、思うように動けない。
成す術もなく腕を掴まれたその時、目の前にいる男たちの足元に深紅の炎が走る。
パトリスは炎が現れた方向に顔を向け――あっと小さく言葉を零した。水色の瞳に映るのは、パトリスのもとに駆けつけるブラッドだった。
ブラッドは最後に会った頃よりもうんと逞しい体格になっており、深い青色の騎士服がよく似合っている。彼の後ろには、同僚らしい騎士たちもいた。
幸にも、ブラッドが同僚たちと一緒に武具屋に行く日だったらしい。
「パトリス、どうして外に……いや、ひとまず間に合って良かった。王城にある治癒室で手当てをしてもらおう。そこは騎士や王城で働く使用人たちも診てもらえるし、腕がいい」
ブラッドに助け起こされたパトリスは、こくこくと頷いた。大丈夫だと伝えたかったが、まだ心の中に残る恐怖のせいで、上手く話せなかった。
その後、パトリスを襲った二人はブラッドの同僚たちに取り押さえられた。二人は貴族に雇われ、パトリスを誘拐するよう指示を受けたらしい。
雇った貴族の名前を吐かそうとしても、特殊な魔法が駆けられているのか、口を割らない。二人の取り調べは、慎重に行われる事となった。
突然襲われた恐怖に震えていたパトリスは、彼らに礼を伝えるのがやっとだった。
せっかく会えたのに、ブラッドにはお礼の一言しか伝えられなかったのだ。
ブラッドが取り調べをしている間、パトリスは王宮にある治癒室で手当てを受けていた。その後、簡単な事情聴取を受けると、ブラッドが手配してくれた馬車に乗って屋敷に帰った。
到着すると、すぐに父親に呼び出された。父親の執務室へ向かったパトリスは、部屋に入ってすぐに冷たい眼差しで睨みつけられる。
まさか睨まれるとは思ってもみなかった。驚きと恐怖で、パトリスは華奢な肩を揺らす。
「魔法大家の人間が反撃もせずみすみす襲われるなど、一族の恥だ。お前を外に出したのが間違えだった。今回の事で他家がお前の存在を思い出すだろう。魔法が使えないできそこないがいるといい、うちの名前を出してバカにするはずだ。とんでもないことをしでかしてくれたな」
「――っ!」
パトリスが悪事を働いたわけではない。むしろ被害者だ。
恐ろしい思いをしたのに、心配するどころか八つ当たりに近い叱責をするなど、あんまりではないか。
悲しみが押し寄せ、パトリスを飲み込んでいく。
「お前は勘当だ。荷物をまとめる猶予をやるから、明日には出て行け」
「そんな……!」
言いかけて、口を噤む。
自分は魔法が使えず、迷惑しかかけられない存在。そんな娘を、これ以上置いておけないと、思われてしまったのだ。
父親からの愛情を期待するには、もう疲れてしまった。
「わかりました。私のような落ちこぼれを、今まで育ててくださってありがとうございました」
「……」
パトリスは心を込めて礼をとると、部屋を後にした。父親は別れの言葉の一つもなく、ただ黙ってパトリスの背を見送るのだった。
その翌日、父親に勘当されたパトリスは、家名のない平民となった。誰からも見送られず、トランク一つ分の手荷物とともに屋敷を追い出されてしまう。
門の前に佇むパトリスの前に、アンブローズが現れた。
今日は授業の日ではない。もしかすると、父親から話を聞いたのだろうか。
パトリスはずきりと痛む胸を労わるように、胸元に手を置いた。
大好きな師から破門を言い渡されるのかもしれない。
平民となったパトリスはいよいよ、アンブローズの弟子ではいられない状況となった。魔法の使えない平民が大魔導士で侯爵位を持つ彼のもとにいられる理由なんてないのだ。
悲しい宣告が近づくことを察しだパトリスは、微かに身を震わせた。
「アンブローズ様、申し訳ございません。私……」
勘当されたことを伝えようとすると、途端に喉の奥で言葉がつっかえる。
喉の奥がキュッと引き攣るせいで、どうも上手く話せない。それどころか、言葉の代わりに嗚咽が出そうで、にっちもさっちもいかない状態だった。
アンブローズはパトリスの手から鞄を取り上げると、空いている方の手でパトリスの肩を支える。その手はまるで、雛を守る親鳥の翼のように優しかった。
「――パトリス、私の家においで。ちょうどハウスメイドを探していたんだ。住み込みで働くといい。そうすれば、今後生きていくための資金を稼げる。もちろん、一生メイドでいる必要はないよ。パトリスが自分のやりたいことを見つけるまでいてくれたらいい」
「でも……ご迷惑をかけてしまいます」
「迷惑になんてならないよ。本当は、パトリスを養女として迎え入れたいくらいだ。だけど、うちもグランヴィル伯爵家と同様に魔法大家に分類される家門だからね。しがらみが多いから、それに巻き込みたくない。……本当に、残念だけど……」
アンブローズがあまりにも口惜しそうに言うものだから、パトリスは思わず笑い声を零した。いつの間にか、喉の奥に引っかかっていたものがなくなっている。
「アンブローズ様の養女だなんて……そんな大それた望みを持つとバチが当たります」
「君は私を買い被りすぎだよ。私はただの魔法馬鹿だ。三度の飯より魔法の研究をしているから、いつもブラッドに叱られていたんだ。使用人たちを困らせてはならないから、いつもきっちりとした時間に食事をとれと、うるさくってねぇ」
パトリスはクスクスと笑った。
アンブローズは、笑い声を上げながら目元を拭うパトリスを見て、眉尻を下げる。
「大丈夫。きっと、何もかも上手くいくよ。私がそうしてみせる……今度こそ」
パトリスには聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。
「だから、いつか絶対に、君にかけられている魔法を解くよ」
その微笑みは、かつてパトリスの母親が向けてくれたような、慈愛に満ちたものだった。
「可愛い弟子ができて嬉しいよ。これからよろしくね」
アンブローズの言葉が、締め切った部屋の中のように真っ暗だったパトリスの心の中に一筋の光を落とした。
この人はどうしてこんなにも、落ちこぼれと言われている自分を必要としてくれるのだろう。
小さな胸の中に浮かんだ疑問を、パトリスはすぐに消し去った。
理由なんてどうでもいい。周囲の人間から疎まれてきた少女にとって、自分を必要としてくれる人の存在はありがたく、決して失いたくないものだった。
「よろしくお願いします、お師匠様」
「私のことはアンブローズと呼びなさい。お師匠様と呼ばれるのはどうも、堅苦しくて苦手なんだ」
アンブローズはあっけらかんと言った。当時すでに大魔法使いの座を手にしていたが、その地位を振りかざそうとしない。
パトリスはアンブローズのその言葉に感銘を受けたが、ブラッドは呆れたように溜息をついた。
「そのようなことを仰っていると、またグレンヴィル伯爵から小言を喰らいますよ。大魔法使いの威厳を持てと何度も言われているではありませんか」
魔法使いは総じてプライドが高い生き物だ。しかしその頂点に立つアンブローズは、プライドなんて紙を丸めて捨てる如く否定するため、他の魔法使いたちは頭を抱えていた。
パトリスの父親であるグランヴィル伯爵もまた、頭を抱える魔法使いのうちの一人だった。
その日以来、アンブローズとブラッドは週に一度、グレンヴィル伯爵家のタウンハウスを訪ねるようになった。
本来なら弟子となったパトリスがアンブローズの家を訪ねて教えを乞うべきところだ。しかしパトリスは父親から外出を禁じられていたため、畏れ多くも師と兄弟子に来てもらうこととなった。
エスメラルダ王国の大魔導士を屋敷に呼びつけているなんて、もしもエスメラルダ王国の人々がこのことを知れば、こぞって非難されるかもしれない。しかしパトリスを弟子にしていることは秘密にされていたため、その事態は起きなかった。
アンブローズによる特別授業は、パトリスが父親から勘当されるまでの九年間、ずっと続いた。
授業の内容は座学が九割と実技が一割。週に一度の授業が、パトリスの唯一の楽しみだった。
座学では魔法の歴史や理論を嚙み砕いて教えてもらった。
アンブローズの弟子になる前は、母親が生きていた頃は母親が、以降は父親か父親が雇った家庭教師から魔法を教わっていた。彼らの説明はどれをとっても難しく聞こえたが、アンブローズの説明はわかりやすく、パトリスは乾いた土が水を吸うように知識をつけた。
実技はアンブローズの手本を真似て魔法を練習する内容だったが、パトリスは一度も成功した試しがなかった。大魔法使いのアンブローズでもパトリスから魔法の才を引き出すことはできなかった。しかし彼は一度もパトリスが魔法を使えないことを責めなかった。
それどころか、パトリスもまたブラッドと同じく自分の自慢の弟子だと、折に触れて言っていた。
幼いころから落ちこぼれ扱いをされてきたパトリスは、アンブローズの言葉に何度も救われたのだった。
兄弟子のブラッドとも上手くやっていた。
平民のブラッドは、偶然にも王都の平民学校を訪れたアンブローズの目に留まり、弟子となった経緯がある。
出会った当初は貴族のパトリスに対して引け目を感じており、兄弟子と言うより貴族に仕える平民のようにパトリスに接していた。それを見たアンブローズに注意され、少しずつ兄弟子らしく振舞うようになったのだった。
初めはパトリスをお嬢様と呼んでいたブラッドだが、以降は名前で呼んでいる。パトリスもまた、アンブローズの意向に則り、ブラッドを名前で呼んだ。
真面目で心優しいブラッドのことを、パトリスはすぐに好きになった。
やがてブラッドが魔法騎士として王立騎士団に入団した。
ブラッドはアンブローズの見立て通り魔法の才があった。しかし本人が魔法騎士になることを望んだため、アンブローズの弟子でありながら魔法騎士となった。
パトリスはブラッドからその話を聞かされた時は胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じたが、無理やり笑みを取り繕い、大好きな兄弟子の門出を祝った。
ブラッドが王立騎士団に入団してからというもの、会えない日々が続いた。新米魔法騎士となったブラッドは訓練や魔物討伐の遠征で多忙だったのだ。それでもブラッドは、時おり手紙を送ってくれた。
アンブローズには会っているようで、彼からブラッドの近況を聞くこととブラッドからの手紙が、パトリスの楽しみとなっていた。
しかしパトリスの穏やかな平和は、今から三年前のとある事件がきっかけで、音を立てて崩れ去ることとなった。
その日、十五歳になったパトリスは、十数年ぶりに外出を許可されて街にいた。ブラッドへの恋しさを募らせたパトリスは、勇気を出して父親に外出の許可をとったのだ。
今まで自分からしたいことを言わなかったパトリスが、自分から頼みごとをしに来たことに、パトリスの父親はいささか驚いていた。
「――今日だけはいいだろう」
その一言に、パトリスは跳び上がって喜びたくなるのを堪えた。正直なところ、パトリスは外出を許してもらえるとは思ってもみなかったから驚きもあった。
パトリスは、用意された家紋が入っていない馬車に乗り、街に出た。
行き先は、王都のはずれにある王立騎士団御用達の武器職人の工房。
アンブローズの話では、ブラッドは遠征前に必ず、自身の持っている剣を武器職人に預けるそうだ。
魔力の多いブラッドが剣に魔法を込めると、予め剣に付与されている魔法の術式が壊れてしまうことがあるらしい。そこで遠征前には必ず付与魔法をかけ直してもらうそうだ。
数日前にブラッドから送られてきた手紙によると、もうすぐまた遠征に出るらしい。会えるかどうかはわからないが、できることなら一目見たい。
浮ついた気持ちで馬車の外の景色を見ていると突然、ガタンと馬車が大きく揺れた。
パトリスの視界が傾き、気付いた時には馬車が横転していた。
体中が痛い。気付いた時には、パトリスは体を打ちつけて倒れていた。
何が起こったのかわからないでいるパトリスの前に、平民らしい簡素な服装の男が二人、現れた。
「珍しい銀色の髪と、水色の瞳――お前がグランヴィル伯爵家の次女だな」
「まさか、こんなにも簡単に攻撃できるとは思わなかったな。連れて行こうぜ」
初対面で平民の彼らがなぜパトリスのことを知っているのかわからない。ただ一つわかっているのは、自分は誘拐されるかもしれないということだった。
わかっていても、体の痛みと恐怖のせいで、思うように動けない。
成す術もなく腕を掴まれたその時、目の前にいる男たちの足元に深紅の炎が走る。
パトリスは炎が現れた方向に顔を向け――あっと小さく言葉を零した。水色の瞳に映るのは、パトリスのもとに駆けつけるブラッドだった。
ブラッドは最後に会った頃よりもうんと逞しい体格になっており、深い青色の騎士服がよく似合っている。彼の後ろには、同僚らしい騎士たちもいた。
幸にも、ブラッドが同僚たちと一緒に武具屋に行く日だったらしい。
「パトリス、どうして外に……いや、ひとまず間に合って良かった。王城にある治癒室で手当てをしてもらおう。そこは騎士や王城で働く使用人たちも診てもらえるし、腕がいい」
ブラッドに助け起こされたパトリスは、こくこくと頷いた。大丈夫だと伝えたかったが、まだ心の中に残る恐怖のせいで、上手く話せなかった。
その後、パトリスを襲った二人はブラッドの同僚たちに取り押さえられた。二人は貴族に雇われ、パトリスを誘拐するよう指示を受けたらしい。
雇った貴族の名前を吐かそうとしても、特殊な魔法が駆けられているのか、口を割らない。二人の取り調べは、慎重に行われる事となった。
突然襲われた恐怖に震えていたパトリスは、彼らに礼を伝えるのがやっとだった。
せっかく会えたのに、ブラッドにはお礼の一言しか伝えられなかったのだ。
ブラッドが取り調べをしている間、パトリスは王宮にある治癒室で手当てを受けていた。その後、簡単な事情聴取を受けると、ブラッドが手配してくれた馬車に乗って屋敷に帰った。
到着すると、すぐに父親に呼び出された。父親の執務室へ向かったパトリスは、部屋に入ってすぐに冷たい眼差しで睨みつけられる。
まさか睨まれるとは思ってもみなかった。驚きと恐怖で、パトリスは華奢な肩を揺らす。
「魔法大家の人間が反撃もせずみすみす襲われるなど、一族の恥だ。お前を外に出したのが間違えだった。今回の事で他家がお前の存在を思い出すだろう。魔法が使えないできそこないがいるといい、うちの名前を出してバカにするはずだ。とんでもないことをしでかしてくれたな」
「――っ!」
パトリスが悪事を働いたわけではない。むしろ被害者だ。
恐ろしい思いをしたのに、心配するどころか八つ当たりに近い叱責をするなど、あんまりではないか。
悲しみが押し寄せ、パトリスを飲み込んでいく。
「お前は勘当だ。荷物をまとめる猶予をやるから、明日には出て行け」
「そんな……!」
言いかけて、口を噤む。
自分は魔法が使えず、迷惑しかかけられない存在。そんな娘を、これ以上置いておけないと、思われてしまったのだ。
父親からの愛情を期待するには、もう疲れてしまった。
「わかりました。私のような落ちこぼれを、今まで育ててくださってありがとうございました」
「……」
パトリスは心を込めて礼をとると、部屋を後にした。父親は別れの言葉の一つもなく、ただ黙ってパトリスの背を見送るのだった。
その翌日、父親に勘当されたパトリスは、家名のない平民となった。誰からも見送られず、トランク一つ分の手荷物とともに屋敷を追い出されてしまう。
門の前に佇むパトリスの前に、アンブローズが現れた。
今日は授業の日ではない。もしかすると、父親から話を聞いたのだろうか。
パトリスはずきりと痛む胸を労わるように、胸元に手を置いた。
大好きな師から破門を言い渡されるのかもしれない。
平民となったパトリスはいよいよ、アンブローズの弟子ではいられない状況となった。魔法の使えない平民が大魔導士で侯爵位を持つ彼のもとにいられる理由なんてないのだ。
悲しい宣告が近づくことを察しだパトリスは、微かに身を震わせた。
「アンブローズ様、申し訳ございません。私……」
勘当されたことを伝えようとすると、途端に喉の奥で言葉がつっかえる。
喉の奥がキュッと引き攣るせいで、どうも上手く話せない。それどころか、言葉の代わりに嗚咽が出そうで、にっちもさっちもいかない状態だった。
アンブローズはパトリスの手から鞄を取り上げると、空いている方の手でパトリスの肩を支える。その手はまるで、雛を守る親鳥の翼のように優しかった。
「――パトリス、私の家においで。ちょうどハウスメイドを探していたんだ。住み込みで働くといい。そうすれば、今後生きていくための資金を稼げる。もちろん、一生メイドでいる必要はないよ。パトリスが自分のやりたいことを見つけるまでいてくれたらいい」
「でも……ご迷惑をかけてしまいます」
「迷惑になんてならないよ。本当は、パトリスを養女として迎え入れたいくらいだ。だけど、うちもグランヴィル伯爵家と同様に魔法大家に分類される家門だからね。しがらみが多いから、それに巻き込みたくない。……本当に、残念だけど……」
アンブローズがあまりにも口惜しそうに言うものだから、パトリスは思わず笑い声を零した。いつの間にか、喉の奥に引っかかっていたものがなくなっている。
「アンブローズ様の養女だなんて……そんな大それた望みを持つとバチが当たります」
「君は私を買い被りすぎだよ。私はただの魔法馬鹿だ。三度の飯より魔法の研究をしているから、いつもブラッドに叱られていたんだ。使用人たちを困らせてはならないから、いつもきっちりとした時間に食事をとれと、うるさくってねぇ」
パトリスはクスクスと笑った。
アンブローズは、笑い声を上げながら目元を拭うパトリスを見て、眉尻を下げる。
「大丈夫。きっと、何もかも上手くいくよ。私がそうしてみせる……今度こそ」
パトリスには聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。
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