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9.オルブライト侯爵の暗躍
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「ごきげんよう、ホリングワース男爵。突然訪問した無礼をお許しください。少し、お時間をいただけて?」
そう言い、レイチェルは氷のような瞳をパトリスに向けた。髪の色を変えていても、パトリスだとわかっているようだ。
パトリスは大きく目を見開き、突き刺さるように鋭い眼差しを受けとめた。久しぶりに顔を合わせたレイチェルが想像以上にやつれていることに驚いている。
レイチェルはもとよりふくよかな方ではなかったが、それでも見て明らかなほど頬が痩せて目元はくぼんでいるのだ。
オルブライト侯爵家の使用人たちが手入れをしているから髪に艶はあるが、それでも以前のような輝きはない。
レイチェルはオルブライト侯爵家に嫁いでからというもの体調を崩して部屋に籠りがちだ。医者は病ではなく疲労だと言っているが、その原因についてはわからない。
もしかして、自分が父親に勘当されてからなにかあったのだろうか。
できることならレイチェルに彼女の体調について聞きたい。しかし今のパトリスは平民で、侯爵夫人であるレイチェルに話しかけることは礼儀に反している。
(結局のところ、私は無力なままなのね……)
パトリスはやるせなさに肩を落とす。
オルブライト侯爵家に来てからできることが増えた彼女は自信をつけてきた。しかし姉と再会すると、彼女に対してなにもできない。結局のところ、以前と変わっていないのだと思い知らされる。
自分はいつまでたっても、アンブローズたちに頼ってばかりで独り立ちできない子どもなのだと。
このままでいいのかと、微かに焦燥を覚えた。
「あまりに突然で驚きました。ご用件をお伺いしても?」
「妹のパトリスのことで話がありますの。訪ねて留守だったようですから、ここで待たせてもらいましたわ。外ではどこに耳があるかわからないので、屋敷の中に入れていただけて?」
急に自分の名前を持ち出されたパトリスは、ひゅっと息を呑んだ。
ブラッドになにを話すのだろうか。
そもそも、なぜ今になって自分の話をしに来たのだろうか。
パトリスは自身がグランヴィル伯爵家を追い出されてから、自分自身が社交界でどのようにいわれているのかわからない。
おおよそ、誰にも思い出されないまま記憶から消えた存在になっているのではないかと思っている。
アンブローズに聞けばわかるだろうが、敢えて問おうとはしなかった。惨めな記憶を掘り起こしたくなかったのだ。
(まさか、私が正体を隠してここで働いていることを伝るのかしら? もしそうなら、なんのために……?)
レイチェルはパトリスを疎んではいるが、今までに一度も嫌がらをしてきたことはなかった。
そのためパトリスは、わざわざ出向いてまでパトリスの話をしようとしているレイチェルの意図を測りかねた。
すると門の前で話している声が聞こえたのか、シレンスが屋敷の中から出てきた。
先にレイチェルの対応をして彼女の用件を知っているためか、気遣わしい表情で一瞬だけパトリスに顔を向けた。
パトリスの心の中で不安がむくむくと膨れていく。ブラッドが姉を帰してくれないだろうかと心の中で祈ったが、現実は願い通りにはなってくれない。
ブラッドはやや考え込んでいたものの、小さく頷いた。
「……わかりました。兄弟子として、彼女の話を聞きましょう。どうぞ、こちらへ。エスコートできず申し訳ございませんが、ついてきてください」
「エスコートは結構ですわ。自分で歩くのもやっとな方に図々しくもエスコートを強請るようなことはしませんわ」
レイチェルは淡々と言い放つ。そんな彼女にブラッドは苦笑するだけでなにも言葉をかけなかった。
ブラッドがシレンスの助けを借りて屋敷へと歩みを進めると、その後ろにレイチェルが続く。
レイチェルから少し距離をとって付き添っていたパトリスは、レイチェルがきょろきょろと辺りを見回していることに気づいた。
それは不躾にジロジロと眺めているのではなく、まるでこの屋敷を昔から知っていて、懐かしさに耽っているように見えた。
前を歩くブラッドとシレンスが立ち止まってもレイチェルは歩みを止めず――そのまま前へと進む。その先にあるのは応接室だ。
「――オルブライト侯爵夫人、応接室にどうぞ」
ブラッドの声に、レイチェルはハッと我に返ったような顔をして立ち止まる。
そんな彼女の様子に、シレンスが片眉を上げている。
「……ご案内感謝しますわ」
レイチェルは珍しくバツが悪そうに目を伏せた。
「リズさん、お茶をお願いします。応接室に運んでください」
「かしこまりました……!」
パトリスはいつもよりやや素早く礼をとると、急ぎ足で厨房へと向かう。
早く応接室にお茶を届けて、二人の会話を聞きたかった。
逸る気持ちを抑えて準備したお茶を持って応接室へ行くと、手早くブラッドとレイチェルにお茶を出す。
耳をそばだてながら、しかし丁寧にお茶を淹れた。
「パトリスがグランヴィル伯爵家の領主邸で元気にしていると聞いて安心しました。三年前の事件以来、引きこもっていると聞いて案じていたんです。あの日以来、手紙が届かなくなりましたから……」
ティーカップを持つパトリスの手が、少しの間動きを止めた。
レイチェルはブラッドに、パトリスがグランヴィル伯爵家の領地で過ごしていると話したらしい。
自分が領地に引きこもっているとは、どういうことだ。
パトリスの胸の中で疑念と戸惑いが渦巻く。
事件のあったあの日、たしかにパトリスの父親は彼女を勘当すると言った。それなのにブラッドはパトリスがグランヴィル伯爵家の領主邸にいると思っているようだし、その話を聞いたレイチェルは否定していない。
(つまり私は――事実上は勘当されているけれど、書類や世間的にはまだグランヴィル伯爵家に籍があるの?)
魔法大家の実家が自分のような魔法の使えない子どもを残す理由なんてあるのだろうか。
考えてみたところでなにも思い浮かばない。
(旦那様はこのことを知っているはずだけど……どうして私に教えてくれなかったのかしら?)
アンブローズは魔法の研究に没頭しがちだが世間に疎いわけではない。侯爵家の当主として、そして大魔法使いとして上手く立ち回れるよう国内外の情勢を把握している。
おまけに彼はパトリスの父の同僚で、名付け親を頼まれるほど仲が良いはずだ。それにレイチェルと婚姻もした。グランヴィル伯爵家との繋がりが深い彼が知らないはずがないだろう。
(もしかすると、私が実家を思い出して落ち込まないように黙っていてくれたのかもしれない)
本当の理由はアンブローズ本人に聞いてみないとわからないが、彼なら気遣ってそうしてくれるだろうとパトリスは思うのだった。
「父が手紙を出してはいけないと厳命しているのです。あのような事件があったから慎重になっていて、外部の者とパトリスを会わせたがらないのですよ」
「そうでしたか……。ですがそのうち、見舞いに行かせていただきます。目が見えなくなってようやくまともに休みをとれるようになりましたから」
騎士と名が付く職業はとにかく忙しい。
魔物討伐に出向いて帰ってくると、今度は式典で王族を始めとした要人の警護をさせられる。事件が起きた時は現場検証に駆り出され、国内で災害が起こると支援に向かう。
魔物がブラッドたちの休日を配慮してくれるはずがなく、休日返上で魔物討伐をすることもしばしば。
目まぐるしい日々に翻弄されることもあったが、魔物から人々を守るというかねてからの夢を叶えられて充足感があった。
ただし欲を言うなら、可愛い妹弟子に会いたい。
パトリスに会えずやきもきしていたブラッドにとって、パトリスからの手紙が何よりもの楽しみで、心の支えでもあった。
「……夫を通して父に相談してみるといいでしょう。気難しい父ですが、あの人には心を開いているようですので」
「そうしてみます。師匠ならきっと力になってくれるでしょう」
まさかパトリス本人がその場にいるとはつゆ知らず、ブラッドは嬉々として会いに行く算段を立てている。
このまま話が進むことはまずないだろう。
パトリスは世間や書類上ではまだグランヴィル伯爵家にいるようだが、事実勘当されたのだ。実家は今までそれを隠してきたのだから、これからも隠し通すはず。
レイチェルはああ言ったが、アンブローズが力添えしたところで父親が首を縦に振るはずがない。
「よろしければ、私が手紙をパトリスに渡しますわ。いかがしますか?」
「――っ、ぜひお願いします」
ブラッドは勢いよく立ち上がった。側に控えていたシレンスが慌てて近寄る。
普段の落ち着いた彼らしくない行動に、パトリスも少ならからず驚いた。
「手紙を書いてきますので、少々お待ちください。シレンスさん、執務室に行くので手伝っていただけますか?」
「かしこまりました」
ブラッドとシレンスが部屋を出る。
ぱたんと扉が閉まる音がすると、パトリスはレイチェルと二人きりになってしまった。
レイチェルは優雅な所作でパトリスの淹れたお茶を飲んでいたが、ゆっくりとティーカップをソーサーの上に戻した。
「まるであなたに懐いている大きな犬のようだわ。それに使用人に敬語を使うなんて、まだ身分に合った振舞をわかっていないようね」
ぽつりと、レイチェルが言葉を零した。呆れているような、しかしいつになく穏やかな声音だ。
「――あなた、自分から望んでホリングワース男爵について行ったそうね」
不意に声をかけられたパトリスは、自分に向けられた言葉だと気付くのにしばし時間を要した。
「はい、微力ながらお支えしたいと思いましたので旦那様に願い出ました。ホリングワース男爵が目の見えない生活に慣れるまでの間という期限付きです」
「兄弟子を助けたいからなのかしら?」
「……いいえ、ブラッドを愛しているからです」
「彼を諦めなさい。魔法を使えないあなたが魔法騎士として名声を得たホリングワース男爵と釣り合うわけがないわ」
「――っ」
レイチェルの冷たく容赦のない言葉がパトリスの心を深く抉る。
言われなくてもわかっていたことだ。それでも少しの間だけその現実を忘れたかった。
目の奥が痛みと熱を持つ。ともすれば涙が浮かんで、そのまま零れ落ちてしまいそうだ。
今ここで泣きたくはない。
パトリスはぎゅっと瞼を閉じると、心を落ち着けるように、ゆっくりと静かに息を吐いた。
「存じています。私はこの想いをブラッドに伝えるつもりはありません。私なんかがブラッドに釣り合うわけがありませんし、想いを伝えたところで迷惑になるだけです」
「……そう。それならいいわ」
やや沈黙したのち、レイチェルは力なく言葉を返す。躊躇いを含んだような静けさだった。
その異様な空白に違和感を覚えたパトリスは瞼を開く。見ると、レイチェルはなぜか傷ついたような表情を浮かべているではないか。
泣きたいのは、パトリスの方だというのに。
「ここでの仕事を終えたらオルブライト侯爵家の領主邸へ行きなさい。あそこにいる使用人たちは長年仕えている者ばかりで、若手を欲しがっているそうよ」
「いいえ、私はここでの仕事を終えたら、オルブライト侯爵家のメイドの仕事を辞めようと思います」
「なんですって?」
レイチェルが茫然とパトリスを見つめた。パトリスはどこか冷静で、姉もこのような表情をするのかと内心感激していた。
「旦那様と約束をしていたんです。やりたいことを見つけるまでメイドとして働かせていただくと。だけど私はいつまでたってもやりたいことを見つけられないまま、旦那様や同僚たちに頼ってばかりでした。そんな自分を変えていきたいので、屋敷を出て街で働こうと思います」
先ほどレイチェルと対峙して気付かされた。自分は周りの人間たちに恵まれているだけで、自分自身の力が全くないということを。
権力をほしいとは思わないが、せめて一人で生きていける生活力がほしい。そうしなければ、他人に頼って迷惑をかけてばかりの自分を呪いたくなってしまう。
「止めなさい。今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ」
「外の世界で生きていくために、外に出るんです」
「ふざけないで。魔法を使えないあなたが外の世界に出ると、すぐに酷い目に遭うわ。ちょっとしたことが引き金になって、あなたがグランヴィル伯爵家の次女だと知った者がまた誘拐を企てるかもしれない。今度こそ誰も助けてくれないかもしれないのよ?」
レイチェルは立ち上がると、縋るようにパトリスの両肩を強く掴んだ。
いつもの冷静さはなく、切実さの滲む表情を彼女に向ける。
「そもそも、夫が許すはずがないわ。口先ではあなたの自由を約束しているけれど、きっと理由をつけて自分の監視下に置くはずよ」
「旦那様に限ってそのようなことはしません。旦那様はいつも私を」
パトリスの言葉に、レイチェルは悔しそうに唇を噛む。
「ローズは変わってしまったの。あなたが思うような温和な人じゃないわ!」
今にも泣き出してしまいそうな声で、そう叫んだ。
その時、応接室の扉がノックもなしに開いた。扉の先にいたのは、アンブローズとブラッド、そしてシレンスだ。
「そこまでだよ、レイチェル」
アンブローズはいつもの穏やかな声でレイチェルを諫める。しかしその目には獲物に狙いを定めた肉食獣のような鋭さが宿っていた。
「外まで君の声が聞こえていたよ。……まあ、君がこの部屋全体にかけていた防音魔法を私が解いてしまったからなのだけど」
「……っ、どこから話を聞いていたの?」
「『今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ』からだね。そこからは全て聞かせてもらったよ」
アンブローズはレイチェルの手に触れると、パトリスの肩から離す。そのままレイチェルを自分の腕の中に閉じ込めた。
「君が私をローズと呼んでくれていたなんて初めて知ったよ。なんせ、その名前で私を呼ぶ人はたった一人だけだと思っていたからね。それに、君から見て私がどう変わったのか教えてもらいたいものだね。私たちはもっと話をしてお互いを知る必要がありそうだ」
「~~いらないわよ。恥ずかしいから離れてちょうだい!」
レイチェルがジタバタと藻掻くが、アンブローズは涼しい顔のまま腕に力を込めてレイチェルを拘束し続ける。
その様子を茫然と眺めるパトリスたちに、アンブローズは片目を瞑ってみせた。
「ブラッド、夜分に押しかけた挙句に騒いでしまってすまないね。後日改めて謝罪しに来るよ」
「い、いえ、お気になさらず……」
「ああ、そうだ。明日はリズとシレンスは必ず家の中に入れておいてね。誰が来ても出てはいけないよ。たとえ、その相手が私を名乗っていてもね」
「……わかっています」
ブラッドは神妙な声で答えた。
先ほどまでアンブローズの腕の中で暴れていたレイチェルも、途端に抵抗を止めてどこか緊張した面持ちになった。
明日は別段大きな用事があるわけではなく、ブラッドの療養休暇最終日としか聞いていない。
しかしアンブローズたちの表情を見る限り、何の変哲もない一日ではなさそうだ。
「それでは明後日の早晨の頃合いに、全てを終わらせて我が屋敷に集おう」
アンブローズはそう宣言すると、レイチェルの肩を抱いて屋敷を後にした。
新月の夜の、星明かりだけの心もとない暗闇の中。
彼らを乗せた馬車が王都を駆け抜けた。
そう言い、レイチェルは氷のような瞳をパトリスに向けた。髪の色を変えていても、パトリスだとわかっているようだ。
パトリスは大きく目を見開き、突き刺さるように鋭い眼差しを受けとめた。久しぶりに顔を合わせたレイチェルが想像以上にやつれていることに驚いている。
レイチェルはもとよりふくよかな方ではなかったが、それでも見て明らかなほど頬が痩せて目元はくぼんでいるのだ。
オルブライト侯爵家の使用人たちが手入れをしているから髪に艶はあるが、それでも以前のような輝きはない。
レイチェルはオルブライト侯爵家に嫁いでからというもの体調を崩して部屋に籠りがちだ。医者は病ではなく疲労だと言っているが、その原因についてはわからない。
もしかして、自分が父親に勘当されてからなにかあったのだろうか。
できることならレイチェルに彼女の体調について聞きたい。しかし今のパトリスは平民で、侯爵夫人であるレイチェルに話しかけることは礼儀に反している。
(結局のところ、私は無力なままなのね……)
パトリスはやるせなさに肩を落とす。
オルブライト侯爵家に来てからできることが増えた彼女は自信をつけてきた。しかし姉と再会すると、彼女に対してなにもできない。結局のところ、以前と変わっていないのだと思い知らされる。
自分はいつまでたっても、アンブローズたちに頼ってばかりで独り立ちできない子どもなのだと。
このままでいいのかと、微かに焦燥を覚えた。
「あまりに突然で驚きました。ご用件をお伺いしても?」
「妹のパトリスのことで話がありますの。訪ねて留守だったようですから、ここで待たせてもらいましたわ。外ではどこに耳があるかわからないので、屋敷の中に入れていただけて?」
急に自分の名前を持ち出されたパトリスは、ひゅっと息を呑んだ。
ブラッドになにを話すのだろうか。
そもそも、なぜ今になって自分の話をしに来たのだろうか。
パトリスは自身がグランヴィル伯爵家を追い出されてから、自分自身が社交界でどのようにいわれているのかわからない。
おおよそ、誰にも思い出されないまま記憶から消えた存在になっているのではないかと思っている。
アンブローズに聞けばわかるだろうが、敢えて問おうとはしなかった。惨めな記憶を掘り起こしたくなかったのだ。
(まさか、私が正体を隠してここで働いていることを伝るのかしら? もしそうなら、なんのために……?)
レイチェルはパトリスを疎んではいるが、今までに一度も嫌がらをしてきたことはなかった。
そのためパトリスは、わざわざ出向いてまでパトリスの話をしようとしているレイチェルの意図を測りかねた。
すると門の前で話している声が聞こえたのか、シレンスが屋敷の中から出てきた。
先にレイチェルの対応をして彼女の用件を知っているためか、気遣わしい表情で一瞬だけパトリスに顔を向けた。
パトリスの心の中で不安がむくむくと膨れていく。ブラッドが姉を帰してくれないだろうかと心の中で祈ったが、現実は願い通りにはなってくれない。
ブラッドはやや考え込んでいたものの、小さく頷いた。
「……わかりました。兄弟子として、彼女の話を聞きましょう。どうぞ、こちらへ。エスコートできず申し訳ございませんが、ついてきてください」
「エスコートは結構ですわ。自分で歩くのもやっとな方に図々しくもエスコートを強請るようなことはしませんわ」
レイチェルは淡々と言い放つ。そんな彼女にブラッドは苦笑するだけでなにも言葉をかけなかった。
ブラッドがシレンスの助けを借りて屋敷へと歩みを進めると、その後ろにレイチェルが続く。
レイチェルから少し距離をとって付き添っていたパトリスは、レイチェルがきょろきょろと辺りを見回していることに気づいた。
それは不躾にジロジロと眺めているのではなく、まるでこの屋敷を昔から知っていて、懐かしさに耽っているように見えた。
前を歩くブラッドとシレンスが立ち止まってもレイチェルは歩みを止めず――そのまま前へと進む。その先にあるのは応接室だ。
「――オルブライト侯爵夫人、応接室にどうぞ」
ブラッドの声に、レイチェルはハッと我に返ったような顔をして立ち止まる。
そんな彼女の様子に、シレンスが片眉を上げている。
「……ご案内感謝しますわ」
レイチェルは珍しくバツが悪そうに目を伏せた。
「リズさん、お茶をお願いします。応接室に運んでください」
「かしこまりました……!」
パトリスはいつもよりやや素早く礼をとると、急ぎ足で厨房へと向かう。
早く応接室にお茶を届けて、二人の会話を聞きたかった。
逸る気持ちを抑えて準備したお茶を持って応接室へ行くと、手早くブラッドとレイチェルにお茶を出す。
耳をそばだてながら、しかし丁寧にお茶を淹れた。
「パトリスがグランヴィル伯爵家の領主邸で元気にしていると聞いて安心しました。三年前の事件以来、引きこもっていると聞いて案じていたんです。あの日以来、手紙が届かなくなりましたから……」
ティーカップを持つパトリスの手が、少しの間動きを止めた。
レイチェルはブラッドに、パトリスがグランヴィル伯爵家の領地で過ごしていると話したらしい。
自分が領地に引きこもっているとは、どういうことだ。
パトリスの胸の中で疑念と戸惑いが渦巻く。
事件のあったあの日、たしかにパトリスの父親は彼女を勘当すると言った。それなのにブラッドはパトリスがグランヴィル伯爵家の領主邸にいると思っているようだし、その話を聞いたレイチェルは否定していない。
(つまり私は――事実上は勘当されているけれど、書類や世間的にはまだグランヴィル伯爵家に籍があるの?)
魔法大家の実家が自分のような魔法の使えない子どもを残す理由なんてあるのだろうか。
考えてみたところでなにも思い浮かばない。
(旦那様はこのことを知っているはずだけど……どうして私に教えてくれなかったのかしら?)
アンブローズは魔法の研究に没頭しがちだが世間に疎いわけではない。侯爵家の当主として、そして大魔法使いとして上手く立ち回れるよう国内外の情勢を把握している。
おまけに彼はパトリスの父の同僚で、名付け親を頼まれるほど仲が良いはずだ。それにレイチェルと婚姻もした。グランヴィル伯爵家との繋がりが深い彼が知らないはずがないだろう。
(もしかすると、私が実家を思い出して落ち込まないように黙っていてくれたのかもしれない)
本当の理由はアンブローズ本人に聞いてみないとわからないが、彼なら気遣ってそうしてくれるだろうとパトリスは思うのだった。
「父が手紙を出してはいけないと厳命しているのです。あのような事件があったから慎重になっていて、外部の者とパトリスを会わせたがらないのですよ」
「そうでしたか……。ですがそのうち、見舞いに行かせていただきます。目が見えなくなってようやくまともに休みをとれるようになりましたから」
騎士と名が付く職業はとにかく忙しい。
魔物討伐に出向いて帰ってくると、今度は式典で王族を始めとした要人の警護をさせられる。事件が起きた時は現場検証に駆り出され、国内で災害が起こると支援に向かう。
魔物がブラッドたちの休日を配慮してくれるはずがなく、休日返上で魔物討伐をすることもしばしば。
目まぐるしい日々に翻弄されることもあったが、魔物から人々を守るというかねてからの夢を叶えられて充足感があった。
ただし欲を言うなら、可愛い妹弟子に会いたい。
パトリスに会えずやきもきしていたブラッドにとって、パトリスからの手紙が何よりもの楽しみで、心の支えでもあった。
「……夫を通して父に相談してみるといいでしょう。気難しい父ですが、あの人には心を開いているようですので」
「そうしてみます。師匠ならきっと力になってくれるでしょう」
まさかパトリス本人がその場にいるとはつゆ知らず、ブラッドは嬉々として会いに行く算段を立てている。
このまま話が進むことはまずないだろう。
パトリスは世間や書類上ではまだグランヴィル伯爵家にいるようだが、事実勘当されたのだ。実家は今までそれを隠してきたのだから、これからも隠し通すはず。
レイチェルはああ言ったが、アンブローズが力添えしたところで父親が首を縦に振るはずがない。
「よろしければ、私が手紙をパトリスに渡しますわ。いかがしますか?」
「――っ、ぜひお願いします」
ブラッドは勢いよく立ち上がった。側に控えていたシレンスが慌てて近寄る。
普段の落ち着いた彼らしくない行動に、パトリスも少ならからず驚いた。
「手紙を書いてきますので、少々お待ちください。シレンスさん、執務室に行くので手伝っていただけますか?」
「かしこまりました」
ブラッドとシレンスが部屋を出る。
ぱたんと扉が閉まる音がすると、パトリスはレイチェルと二人きりになってしまった。
レイチェルは優雅な所作でパトリスの淹れたお茶を飲んでいたが、ゆっくりとティーカップをソーサーの上に戻した。
「まるであなたに懐いている大きな犬のようだわ。それに使用人に敬語を使うなんて、まだ身分に合った振舞をわかっていないようね」
ぽつりと、レイチェルが言葉を零した。呆れているような、しかしいつになく穏やかな声音だ。
「――あなた、自分から望んでホリングワース男爵について行ったそうね」
不意に声をかけられたパトリスは、自分に向けられた言葉だと気付くのにしばし時間を要した。
「はい、微力ながらお支えしたいと思いましたので旦那様に願い出ました。ホリングワース男爵が目の見えない生活に慣れるまでの間という期限付きです」
「兄弟子を助けたいからなのかしら?」
「……いいえ、ブラッドを愛しているからです」
「彼を諦めなさい。魔法を使えないあなたが魔法騎士として名声を得たホリングワース男爵と釣り合うわけがないわ」
「――っ」
レイチェルの冷たく容赦のない言葉がパトリスの心を深く抉る。
言われなくてもわかっていたことだ。それでも少しの間だけその現実を忘れたかった。
目の奥が痛みと熱を持つ。ともすれば涙が浮かんで、そのまま零れ落ちてしまいそうだ。
今ここで泣きたくはない。
パトリスはぎゅっと瞼を閉じると、心を落ち着けるように、ゆっくりと静かに息を吐いた。
「存じています。私はこの想いをブラッドに伝えるつもりはありません。私なんかがブラッドに釣り合うわけがありませんし、想いを伝えたところで迷惑になるだけです」
「……そう。それならいいわ」
やや沈黙したのち、レイチェルは力なく言葉を返す。躊躇いを含んだような静けさだった。
その異様な空白に違和感を覚えたパトリスは瞼を開く。見ると、レイチェルはなぜか傷ついたような表情を浮かべているではないか。
泣きたいのは、パトリスの方だというのに。
「ここでの仕事を終えたらオルブライト侯爵家の領主邸へ行きなさい。あそこにいる使用人たちは長年仕えている者ばかりで、若手を欲しがっているそうよ」
「いいえ、私はここでの仕事を終えたら、オルブライト侯爵家のメイドの仕事を辞めようと思います」
「なんですって?」
レイチェルが茫然とパトリスを見つめた。パトリスはどこか冷静で、姉もこのような表情をするのかと内心感激していた。
「旦那様と約束をしていたんです。やりたいことを見つけるまでメイドとして働かせていただくと。だけど私はいつまでたってもやりたいことを見つけられないまま、旦那様や同僚たちに頼ってばかりでした。そんな自分を変えていきたいので、屋敷を出て街で働こうと思います」
先ほどレイチェルと対峙して気付かされた。自分は周りの人間たちに恵まれているだけで、自分自身の力が全くないということを。
権力をほしいとは思わないが、せめて一人で生きていける生活力がほしい。そうしなければ、他人に頼って迷惑をかけてばかりの自分を呪いたくなってしまう。
「止めなさい。今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ」
「外の世界で生きていくために、外に出るんです」
「ふざけないで。魔法を使えないあなたが外の世界に出ると、すぐに酷い目に遭うわ。ちょっとしたことが引き金になって、あなたがグランヴィル伯爵家の次女だと知った者がまた誘拐を企てるかもしれない。今度こそ誰も助けてくれないかもしれないのよ?」
レイチェルは立ち上がると、縋るようにパトリスの両肩を強く掴んだ。
いつもの冷静さはなく、切実さの滲む表情を彼女に向ける。
「そもそも、夫が許すはずがないわ。口先ではあなたの自由を約束しているけれど、きっと理由をつけて自分の監視下に置くはずよ」
「旦那様に限ってそのようなことはしません。旦那様はいつも私を」
パトリスの言葉に、レイチェルは悔しそうに唇を噛む。
「ローズは変わってしまったの。あなたが思うような温和な人じゃないわ!」
今にも泣き出してしまいそうな声で、そう叫んだ。
その時、応接室の扉がノックもなしに開いた。扉の先にいたのは、アンブローズとブラッド、そしてシレンスだ。
「そこまでだよ、レイチェル」
アンブローズはいつもの穏やかな声でレイチェルを諫める。しかしその目には獲物に狙いを定めた肉食獣のような鋭さが宿っていた。
「外まで君の声が聞こえていたよ。……まあ、君がこの部屋全体にかけていた防音魔法を私が解いてしまったからなのだけど」
「……っ、どこから話を聞いていたの?」
「『今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ』からだね。そこからは全て聞かせてもらったよ」
アンブローズはレイチェルの手に触れると、パトリスの肩から離す。そのままレイチェルを自分の腕の中に閉じ込めた。
「君が私をローズと呼んでくれていたなんて初めて知ったよ。なんせ、その名前で私を呼ぶ人はたった一人だけだと思っていたからね。それに、君から見て私がどう変わったのか教えてもらいたいものだね。私たちはもっと話をしてお互いを知る必要がありそうだ」
「~~いらないわよ。恥ずかしいから離れてちょうだい!」
レイチェルがジタバタと藻掻くが、アンブローズは涼しい顔のまま腕に力を込めてレイチェルを拘束し続ける。
その様子を茫然と眺めるパトリスたちに、アンブローズは片目を瞑ってみせた。
「ブラッド、夜分に押しかけた挙句に騒いでしまってすまないね。後日改めて謝罪しに来るよ」
「い、いえ、お気になさらず……」
「ああ、そうだ。明日はリズとシレンスは必ず家の中に入れておいてね。誰が来ても出てはいけないよ。たとえ、その相手が私を名乗っていてもね」
「……わかっています」
ブラッドは神妙な声で答えた。
先ほどまでアンブローズの腕の中で暴れていたレイチェルも、途端に抵抗を止めてどこか緊張した面持ちになった。
明日は別段大きな用事があるわけではなく、ブラッドの療養休暇最終日としか聞いていない。
しかしアンブローズたちの表情を見る限り、何の変哲もない一日ではなさそうだ。
「それでは明後日の早晨の頃合いに、全てを終わらせて我が屋敷に集おう」
アンブローズはそう宣言すると、レイチェルの肩を抱いて屋敷を後にした。
新月の夜の、星明かりだけの心もとない暗闇の中。
彼らを乗せた馬車が王都を駆け抜けた。
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※表紙はAIにより作成したものです。
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