毒入りゴールデンレトリバーの冒険

一本島宝町

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一章

迷子のゴールデンレトリバー

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 コラア、テメエ、コノヤロウ。
 テメエコソナンダ、コノヤロウ。
 ヤッテヤンゾ、バキ、ヤリヤガツタナ、バキ。
 バキドコバキドコ、ワーワーワー。

 午後三時、繁華街の路地からいさかいの声が響いた。その声に人が集まり、悲鳴が上がりつつも歓喜も湧いている。やれぇ、いけぇ。周囲に集まる人々はボクシングの世界戦のようにストリートファイトの見学に酔いしれていた。このところ、この繁華街ではこんな催し物が時々起こっている。
「最近、町が荒れてやがるな」
 人だかりを横目に通り過ぎていると、隣を歩く親友の二木ゆうじがつぶやいた。彼はボディビルをやっていてムキムキで一八〇センチもある。そんな大男が物騒なこと言っているので、まるでヤクザの世間話にも見えるけど僕も彼も十三歳の中学生だ。彼の背伸びした言葉につい笑ってしまう。
「不景気だからね」
 そう。町は空前の不景気だった。ここ高野城市は元々城下町で、古くから商いの中心地として栄えてきた。今でも商業の町と言われていて好景気の時は随一の賑わいを見せるが、不景気に転じるとそのあおりを一気に食らう。おかげで今は町全体が貧乏だ。
 喧噪が遠ざかる中で、ゆうじ君はため息をついた。
「金がないからイラついているのか。妙にピリピリして気分が悪いぜ」
「君子危うきに近づかず。近づいてケンカをしたらダメだよ」
 そう言うとゆうじ君は呆れた顔でため息をついた。
「ひょろひょろのお前が言うな。広助はこの前も先輩にからまれてただろ。お前は頼りないから、すぐに下に見られるんだ。一番用心しないといけないのはお前だよ」
 そう言って彼は僕の胸を軽くたたいた。彼にとっては軽い拳でも、平均体重を下回る色白の僕の体には強い衝撃だ。
「げほ。痛いなぁ」
「悪い、悪い。けどな、これくらいは耐えられるように体を鍛えろよ。お前も一緒にジムに来るか?鍛えてやるぞ」
 そう言うと彼は背負っていたリュックを僕に見せつける。彼の自慢のニューエラのリュックだ。
「僕はいいよ。僕は平和に安穏と生きていきたいだけだから」
 ゆうじ君は呆れたように首を振った。
「まあ、からまれても口車が上手い広助なら上手くやれるだろうが気をつけろよ。ただでさえ中学生の一人暮らしなんだから」
「そうだね。気を付けるよ」
「そういや、ご両親から連絡はあったか」
「ないよ。姉からは毎日ラインがあるけど」
「あのお姉さんな。俺はちょっと苦手だ」
「そう言わないでよ。僕にとっては唯一の身内なんだから」
「そうか。いや、つまらないことを聞いたな。それじゃあ俺はジムに行く。また明日、学校で」
「うん。また明日」
 ゆうじ君は手を振りながら駅前の方へ歩いていった。その大きな背中は鎧を身にまとった騎士にも見える。
「ああも立派だから女の子にもモテるんだなぁ」
 外見は男臭く見える彼もこれまでのやり取りでわかる通り、非常に面倒見がいいので女子にすごくモテる。気さくでありながら、繊細で、乱暴なそぶりも見せない。外見とのギャップは女子の胸に刺さるようで、親友の僕は女子から彼にあてたお手紙を預かることもある。受け取った彼は困ったように後ろ髪をかきながら、
「俺は自分を高めることしか今は考えられないからな」
と言って毎回送り主の元へ行って心を込めて今の気持ちを説明していった。その紳士的な態度のおかげでフラれた女子も恥を感じることがなくてますます彼のファンになる。そのファンはどんどん広がるので余計に女子人気が高くなっていった。
 近くで彼を見ていると僕もモテる男になりたいなとおぼろげに思う。そう思うと体を鍛えるのも悪くないかなと思うのだけど、改めて自分の外見を眺めてみると鍛えたところで、だらしのない顔にムキムキの体はアンバランスすぎた。ただ気持ち悪いだけだ。かと言ってアイドルみたいな風貌を目指すのもたぶん違う。顔に前髪を垂らした色っぽい恰好をしたところで、逆に田舎臭い顔が際立つだけだと自己分析している。
 結局、身分相応が一番。背伸びをせず、できるだけ穏やかに生きれればそれでいい。恋人などきっとできないだろうけど、そんな野比のび太のような生き方が僕には合っていた。本当にそれでいいとはあまり思ってもいないのだけど。
 そんな葛藤を抱えているからだろうか。いざ自分の身に火の粉が降りかかった時、僕はキャラになくつい出しゃばってしまった。ゆうじ君のように男らしくありたいという気持ちのせいかもしれないし、モテたいという自尊心のせいかもしれない。いずれにしてもキャラにないことで出しゃばって、よく知らない女の子に手を差し伸べてしまった。それが安穏を望む僕の生活を大きく変えることになる。

 そんな人生の転換期は僕がスナックが連なる路地の入口に通りかかった時に起こった。黄色い残像が店舗と店舗の隙間からササッと通り抜けたのだ。最初は猫か犬でも走り抜けたのかと思ったけど、それにしては目立つ金色の毛並みが印象に残った。
「ゴールデンレトリバーでも脱走したのかな」
 僕は犬派で、しかも大きな犬が好きだ。一番好きなのはシベリアンハスキーだけど、大人しくてかわいいゴールデンレトリバーも悪くない。もし脱走したのなら保護してあげないとかわいそうだ。怪しい通りだけど昼間なら大丈夫だろと足を踏み入れようとしたその時だった。
 バタバタと複数の人間の足音が聞こえた。
「小僧、どけっ!」
 後ろから突き飛ばされた。実際には肩がぶつかっただけだったのだが、軽い僕の体が過剰に遠くへ吹き飛んだだけなのだろう。
 僕が簡単に吹き飛んだものだから、突き飛ばしてきた相手の方がビックリしていた。
「あ、おい。ごめん。まさかそんなに飛ぶとは…」
 僕を突き飛ばした男たちの一人が僕を心配して足を止めたが、先頭を走る男が叱りつけた。
「おい、宮下。放っておけ!ガキが逃げるぞ」
「すばしっこい女だ」
 男は三人で全員黒いスーツを身にまとっていたが、破れんがばかりに太ももを振り上げて走っていく。取り残された宮下という男も、多少の逡巡のすえに僕を置き去りにして男たちのあとを追いかけていった。大の男たちが全力で走るなど尋常じゃないことが起こっている。そう感じた僕はこっそりと彼らのあとを追うことにした。恐怖も少しはあったけど、好奇心と怖いもの見たさが勝ったのだ。
 追いかけていった路地の先に男たちは立ち止まっている。古い商店街の路地には行き止まりがよくあるのだけど、逃げたゴールデンレトリバーは見事その袋小路に捕まっていた。
「近寄んな!離れろ!へんたいー」
 ゴールデンレトリバーは甲高い声で相手を威嚇している。言葉は小学生レベル。体格も小学生レベル。金色の髪を二つに結った髪型も小学生レベル。大人しい性格のゴールデンレトリバーとは違い、彼女はチワワのようにキャンキャン吠えている。
 そんなゴールデンレトリバーに見える女の子を黒いスーツを着た三人の男たちが冷めた目で見ていた。
「騒ぐな、春野川翔子。ご家族も心配している」
「翔子に家族なんていないっ!おじちゃんもおばちゃんも翔子を利用してるだけだもんっ」
「そんなことはないだろう。君は一般社会では生きれる体質ではないのだ。そんな君を育ててくれている里の人たちに感謝の気持ちはないのか」
「うるさいうるさいうるさいっ!あんたらに翔子の気持ちなんかわかるもんかっ」
「人の害になりかねない人間の気持ちなんてわかりたくもないな。そんな君がもし人を傷つけたらどう責任を取るつもりだ」
「誰も傷つけないし、傷つけたとしても責任は持てないし、そもそも翔子が町に出るのは初めてなんだから失敗なんてして当たり前じゃない!だから翔子は気にしない!」
「君っ!開き直っているんじゃないっ!」
「あんたになにがわかるのよっ!天涯孤独で田舎の山奥に無理やり監禁されて続けているかわいそうなかわいそうな翔子の辛さがわかるわけないっ」
 火がつきそうなほどに熱を込める鋭い目からはポロリとしずくがこぼれた。
 いろいろと不穏な会話が聞こえたが、気になることはただ一つだった。男たちに言い寄られている小さな女の子には家族がおらず、監禁されて生きてきた。そして強引に連れ戻されそうになっている。どう考えても犯罪の匂いしかしない。
 本来の僕なら危うきものには近づかない性格なのだけど、ついさきほどまで男らしさについて考えていたせいか、「ここで男にならずにいつなるのか」といきり立ってしまった。
 そう言えば六歳年上のギャルの姉も良く言っていた。
「へい、ヒロ!いい?チョーヨワヨワのあんたがモテるためには、実は男らしいというギャップしかないわけ。落としたい女がいたらむしろ無理やり迫るくらいがちょうどいいわよ」
 そんなに性欲はないよと苦笑いしていたけど、こんな外見の僕が怒鳴り込んだら、外見とのギャップでみんなビビるだろうなと思う。よし、男を見せてやろうじゃないか。
「おいっ!」
 大きな声を出すと全員がこちらを見た。全員が僕を睨んでくる。こわっ。
「…こんにちは」
 いつ通りの小声になってしまう。
「なんだ、小僧」
「さっき突き飛ばしたガキか」
「ケガしたくなれば消えてください」
 黒いスーツの男たちは口々に僕を威圧してきた。僕がしゃしゃり出たのはよほど都合が悪いらしい。追い詰められたゴールデンレトリバーは味方の登場にさぞお喜びかと思いきや、彼女は殺気だったチワワのように僕にも牙を剥いてきた。彼女が一番怖かった。
「だれよ、あんた。あっちいけ!」
 助けに入ったのに邪険に扱われる。やれやれだ。
 その時だった。突然、黒いスーツの一人が殴りかかってきた。ここでそのパンチを避けられたら、もしかするとゴールデンレトリバーも見直してくれるかもしれない。だが運動神経が極力悪い僕はまったく動くこともできずに頬に受ける。
 バキッ!
 目の中に星が浮かんだ気がした。殴られたのはいつぶりだろう。たしか小学校の頃に一緒にいた友達が万引きをしてお店の人に捕まり、共犯と思われて仲良く殴られたのが最後だろう。あまりの衝撃に目が回った。
 僕が衝撃で地面に倒れたその時だ。

「やめろっっっっっっ!」

 甲高い、ゴールデンレトリバーの悲鳴がこだました。
 それは一瞬のことだった。僕は目がおかしくなったと思った。ガスが噴射して地面を覆ったのだ。ただガスにしては妙に毒々しい。危機感を覚えてしまうほどの怪しい紫の霧が少女の体からあふれ出してきている。これは体に悪そうだ。僕の中の動物的危機管理本能が機能して「早く逃げろ」と警報を鳴らしていた。
 目の前に紫の霧が出現する経験はないので、理性は「もしかすると幻覚かも」と思おうとしていたが、それは目の錯覚ではなくスーツの男たちに見えていたようだ。
「出たぞ!」
「距離を開けましょう!」
「死ぬぞ!」
 三人の男たちはまるで刀を振り回す暴漢を警戒するように距離を開ける。男たちはゆうじ君ほどではないけれど、筋肉が張った立派な体つきをしていた。そんな男たちが警戒し、身を引いている。僕に平気で殴りかかって血気な男たちがだ。いったい、何をそんなに警戒しているのだろう。
 そんな思案のさなか、少女は僕の方へ駆け寄ってきて腕を引っ張ってきた。
「なにボケっとしてるのよ!逃げるよっ」
 そう言って彼女は走り出した。
「おわっ、ちょっと待って」
「どんだけノンキなのよ!走らなきゃ捕まるわ」
 ゴールデンレトリバーは足が速かった。足だけはそこそこ速い僕でも追いつかないくらいに速い。あっという間に男たちを置き去りにして、遠くから「待てや、こらぁ」という怒号が聞こえてきた。距離はあるものの、彼らは追いかけてきている。なんとしても彼らを巻かなければならない。
 なんとか土地の利を生かして彼らを巻けないかと考えていたその時だった。
 パァンッ。
 なにか乾いた音がしたと思ったら、近くの窓ガラスはパリーンと割れ、ジャラジャラと破片が散らばった。
「え。なにが起こった?」
 戸惑う僕に少女はあっけらかんと言う。
「拳銃よ」
「けんじゅう」
 理解できない。
「鉄砲よ」
「てっぽう」
 やっぱり理解できそうにない。
「なんでピンッと来てないのよ!」
「いや、非現実的過ぎて。これはドラマの撮影?」
「どこの世界で本物の拳銃を使うドラマがあるのよ。そんなわけがないでしょっ。いいから走れぇー」
 僕らはがむしゃらになって走った。汗だくになり、限界を振り切って風のように町の中を駆け巡る。狭い路地を猫のようにすり抜けて進み、表通りに出ると人混みを縫うようにジグザクと走った。かなり体力を使ったと思うけど、ゴールデンレトリバーの走力は劣らなかった。
「君、足はやいね」
「うるさい。足を動かせっ!」
 そう言いながら彼女は通行人にぶつかった。当然、お叱りの声が飛んでくるのだけど謝る余裕もない。男たちが追ってくると思うと恐怖でますます足を動かしてしまう。僕らは人混みを抜けると再び路地に入ると塀をジャンプして別の路地に移る。なにかに似ているなと思ったが、ユーチューブで見たパルクールそのものだ。特に彼女はその可愛らしい背恰好からも人気のパルクール・ユーチューバーになれそうだなと思って笑ってしまう。なんだか部活でもやってるみたいで楽しくなってきた。
 繁華街を抜けて一般道に出た時、バスが停車しているのが目に入った。後ろを振り返ったが、男たちが追ってきている姿は見えない。ここからさらに引き離すためにバスを利用するのは妙案だと確信する。
「ねえ。名案があるんだけど」
「なによっ」
「あの止まっているバスに乗ろう」
 そう提案すると明らかにムッとした顔をする。
「ムリッ」
「無理?だって、あれに乗れば簡単に引き離せるよ」
 彼女は家の鍵をなくした子供のようにうつむいた。
「…ないもん」
「なに?なにがないの?」
 その言葉が引き金になったようで、ゴールデンレトリバーは牙を剥いて僕を睨みつけてきた。その顔はトイレ中にドアを開けられた時のように真っ赤だ。
「お金がないのっ!ノーマネーよ、ノーマネーっ!」
 それを聞いて思わずキョトンとしてしまった。今時、バス代の百五十円も持っていない人がいるだろうか。確かに小学校の頃の友人の中には一週間に百円だけしかお小遣いをもらえなかった子がいた。もしかするとこの子は僕が思うよりもずっと年下なのかもしれない。
「いいよ。お金は僕が変わりに払うよ」
「だめっ!」
「どうして?」
「初対面の人に貸しを作るなんて、あとでどんな目にあわされるかわからないもの。これをきっかけに人生の泥沼に堕ちていく可能性があるわ」
 本当に悲壮な表情をするから笑ってしまった。
「百五十円で何を大げさなこと言ってるの。じゃあ、そうだなぁ。あとで僕の家で皿洗いでもしてよ。それでチャラにしようよ」
 今時、代金が皿洗いというのも昭和のマンガみたいで笑ってしまう。対照的に彼女はブルドッグのようなこわばった表情で「わかった」と渋々とうなずいた。
 足を止めずに走ってなんとかバスに駆け込むことができた。さすがに疲れたのか、スカスカのバスの座席でゴールデンレトリバーはグッタリと座り込んでいる。彼女とは対照的に僕はまるでマンガで見るような逃避行だなと思って楽しくなってきた。
 ただ、マンガではそういう楽観的な人間にこそ窮地が訪れるものだ。まさか本当に生命の危機が訪れるとはこの時の僕は夢にも思っていなかった。
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