境界の扉

衣谷一

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3.俺らはモンスターになった

彼女は何を見たのか

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 浦は浦でお見舞いの計画を立てていたらしかった。浦からのLINEで前澤のお見舞いに誘われた。着信のバイブが聞こえた時は、四の教室と九の教室の謎かけをした後ということもあって、何か思いついたのかもしれないと思ったわけだが、いざケータイを手にしてみれば全く関係のない話題。内心ほっとする高畑がいた。

 流山おおたかの森駅で落ち合ったのが午前九時過ぎだった。病院までの道中では浦の狙いをずっと聞かされていた。もちろん前澤のお見舞いをするというのは一番の狙いではあったが、浦が話すにはそれと同じぐらいに事情聴取することも大事そうに聞こえた。

「私達の知っている中で犯人に一番近くまで近づいたのは明ちゃんだから、何か見ているかもしれないじゃない」

「それはそうだけど、前澤は被害者だからな。あまりおすすめしないぞ」

「分かってるよ。私だって明ちゃんに無理はさせたくないもの」

 高畑は前澤がどれだけクマを作っているのかを知っている。どれだけ事件に苦しめられているかも知っている。だからこそ、分かっていると言いながらも嬉々としている様子に不安を感じてしまった。いざ前澤を前にして止まらなくなってしまうのではないだろうか。

 ナースステーションで面会票を書いて病室へ向かう。高畑は前澤の体調が気になった。まだプログラムに身をやつして、寝る間すら惜し間なければ耐えられないという状況が続いてはいまいか。体に無理をし続けるのは限度がある。入院しているのに無理をするのは本末転倒である。

 病室で作業しているプログラマーは相変わらず目の下にクマを作って熱中していた。クマの黒さ加減は単独でお見舞いをした時とはさほど変わっていないように見えるが、二人がやってきても気づいていないところ、プログラムの世界に埋もれているのは以前と同じだった。

 前澤の視界の隅にチラリ入るよう体を傾けて、その上手を振って前澤に気がついてもらおうとする浦。子供向けのおもちゃのように機械的に腰を曲げたり手を振りまくったりしても気づく様子はなかった。前澤はモニタ以外の世界は何も見えていないようだった。浦は浦でいつ気づくのか楽しくなってしまっているのか、声をかければよいものの、視界の邪魔をし続けていた。

 前澤は気づかなかった。気づくわけがなかった。

「来たぞ前澤」

「え? あ、ごめんなさい夢中になっててって何やってるんですか浦先輩」

 高畑がようやく声をかければ、その声にまずびっくりして、次におかしなことをしている浦に対してびっくりしていた。

「入院しててもパソコンやってるの? すごいね」

「えと、その、入院していると暇でしょうがないから文化祭のソフト作ってるんです」

「そっかあ、体調大丈夫かなって心配だったけど、思っていたよりも元気そうでよかった」

 浦は前澤の手を握って喜んでいて、その姿に前澤も笑みをこぼしているように見えた。見えただけ。高畑には前澤が浮かべているのは外向けに繕ったものにしか思えなかった。クマの上でとろけかけている目が物語っているように思えた。今日はまだ寝ていないのではなかろうか。

「でも実際のところはどうなの? 傷はまだ痛む?」

「痛み止めを飲んでるので普段は傷まないですが、薬が切れるとまだ痛いですね。定期的な消毒も欠かせないですし」

「まだまだ入院生活は続きそうなのかな。どれぐらいって聞いてるの?」

「だいたい一ヶ月ぐらいだと聞いています」

「そっか、そんなにかかっちゃうんだ。大変だ」

 高畑は前澤の様子に違和感を覚えた。どこかそっけない振る舞いをしているふうだった。浦に手を掴まれている間もしきりに画面を気にしていた。高畑が体を傾けてモニタを覗き込んでみれば、相変わらずの開発環境が起動している状態であったが、特段気になるようなことはなかった。コードブロックが書きかけできりが悪いところは高畑も気持ち悪かったが、何度もモニタを見るほどではなかった。

 浦が手を離すと、前澤は何かに迫られているかのように、人差し指でAltキーを連打した。ただ連打しただけ、画面の変化は全くないのだが。前澤は、というと、肩の荷が下りたように息を吐いて、手をキーボードの上に重ねた。

「それでね、明ちゃん、今日はもうひとつ聞きたいことがあって。聞いても大丈夫?」

「何でしょう、私が答えられるのであれば」

「明ちゃんが襲われた時のこと何だけど」

 一瞬で顔が険しくなった。

「犯人の姿って、見てないかな? 誰が犯人なのか探してるんだけど」

「ええと、犯人、ですか」

 ごく短い言葉であってもしりすぼみの調子だった。明らかな変化は浦にも何事か察しはつくはずだった。高畑に至ってはすでに何を感じているのかを知っているわけで、短い言葉の抑揚で前澤の気持ちが分かってしまうのだった。

「無理はしなくていい。思い出させてしまったな。答えなくていい」

「いえ、その、大丈夫です。警察の人にも根掘り葉掘り聞かれたので」

「本当に無理しなくていいんだぞ」

 高畑の心配に対して、

「大丈夫です」

と弱い調子で返すだけだった。

「私が見たのは黒い影でした。表情や顔は全く見えない、本当に真っ暗なシルエットだけでした」

「シルエット? 姿が見えなかったってこと」

「ここは私の目が信じられませんが、本当に真っ黒だったんです。お手洗いの中はすごく明るかったのに、そこだけ光がなくなってしまったかのような、そんな感じだったんです。それが壁にいたんです」

「壁にいたって、どういうこと」

「言葉通りです。壁の中に黒いシルエットがいたんです。壁の中にいたかと思ったから、鏡の中に現れて、それで気がついたら」

 モニタの画面が暗転する。途端に前澤が言葉を遮ってキーボードを叩きまくった。文字ではないキーを的確に連打する姿、画面がロックされるのを恐れているように見えた。

 前澤は、目を伏せてキーボードだけを見ていた。

 画面が暗くなって数秒、キー連打に反応して当初の画面に戻ってきた。顔を上げて画面を確かめれば、ふう、吐息を漏らすのだった。

「それで、黒い影なのですが」

「ちょっと待って今のは何? 何でそんな連打したの?」

「単に画面が黒くなっちゃったんで、戻そうとしただけです」

「そうなの、そうなら別にいいんだけど、急にキーボード叩き始めたものだから」

「なので気にしないでください。それで、影の話の続きですが」

 言葉を止めて二人の反応を見た前澤。高畑も浦も言葉を返さないで前澤を待った。二人の反応を見て、浦はキーボードを一つ叩いてから、

「多分、石田くんかなって、思うんです」

と告白した。

「黒い影が一回だけしゃべったんです。『お前らを倒してやる』って言っていて、その声が、石田くんの声だったんです。多分、だから、どうやっているのかは分からないのですが、石田くんなんだろうなって」

 浦や石田孝之の予想していたことがここで証言されてしまった。前澤を襲ったのは石田拓朗だった。黒い影になって被害者を付け回してトイレで襲撃したのだ。現実的ではない前澤の発言には違和感があるが、高畑には彼女が本当に恐怖しているのを知っているから偽りだとは思えなかった。そもそも、境界の扉に関わる事件と捉えれば、現実的でないことは当たり前だった。

 辛そうな前澤の表情。今にもプログラミングを始めたそうに、手をキーボードに乗せていた。

「そろそろ休ませてあげよう。長居しすぎた」

「そうだね、元気そうだけれども入院の身だからね」

 高畑の言葉にすんなりと従う浦は、

「それじゃあまた来るからね」

と前澤に言葉を渡しながらバッグを肩にかけて、引き戸に手をかけるのだった。高畑が、

「先に出てていいよ」

と告げれば言われるがまま外に出ていく。

 前澤と高畑。二人だけの空間。浦はいない。

「黒くなったモニタが嫌だったんだよな」

「さっきのキーボード連打ですか」

「どうしてだかは聞かないけれど、今日の前澤は強がっているように見えたから。黒くなったモニタは鏡みたいに映るから、そこに犯人が現れるかもしれないから嫌だったって言ってしまえばいいのに」

「あまり心配させたくなかったんです。先輩にはバレてしまってますが、浦先輩にはまだなので」

「俺らに心配させてもいいんだぞ。一人心に抱えているのはずっと辛いでしょ」

「先輩が気にしてくれてるじゃないですか」

「俺らがなんとかする。じゃあ、浦が待ってるから」

「うん、またプログラミングの相談に乗ってください」
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