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しおりを挟む目の前には、朝出勤したときと変わらない家があった。
負傷した左足を庇いながら玄関の前の階段を上がり、落ち着いていつものように扉に手をかけた。
戸は開かなかった。
彼の家であるはずの建物は、彼の侵入を拒絶したのだった。
へなへなと玄関の前に座り込み、呆然と扉のガラス部分から、奥に広がる室内を見る。
そこにはこの時間ならばいるはずの母の気配も、聞こえてくるはずのテレビの音もなかった。
家は静謐を保ち、奥をじっくり覗いても、玄関には靴すら置いていなかった。
そして彼の大切な一匹であり、圭太が帰って来ると必ず玄関でうるさく出迎えてくれるハルオの姿もなかった。
家はただの抜け殻であった。
「間に合わなかった……後は、俺だけなのか……」
そのままの状態で、彼は涙をこぼした。
これからどうしよう、などと考える余裕はなかった。
ただただ家族を奪われた悲しみに浸るしかできなかった。
自分のせいで命を失った皆のことを思うと、彼は涙をこぼすしかできなかった。
圭太がそうやって声をあげて泣きはじめた時だった。
きい、と玄関の階段前に設置された、簡易的な門の開く音がした。
(ああ、俺を消しにきたのか)
圭太は内に秘めた感情を抑えながら、自分たちを消そうとしている者と向き合う覚悟を決めた。そして頬に伝う涙を拭うと勢いよく音の聞こえた方を見た。
「あれ、あんたこんな時間に何やってんの」
門を開けたのは、消されたはずの母であった。買い物袋を提げ、後ろにはものすごい勢いで尻尾を振る愛犬の姿も見える。
「……どうして」
「それはこっちのセリフでしょう!あんた会社は?そんなひっどい姿でどうしたの?ーーああ、スーツ破っちゃってもう、いい社会人が何をやってるの……」
いつもと同じように、他の話題が出てくるまで次々と続く愚痴がこぼれた。正真正銘、圭太の母であった。そのいつもは煩わしい自分への文句を聞きながら、彼は再度安堵した。ああ、みんな生きていた。そして、俺はちゃんと俺だった。そうして涙腺が緩んだのであろうか、また自然と涙が溢れる。何泣いてるの、と母の愚痴は続いていたが、それすらも愛おしいと今の彼には思えた。一人と一匹の姿を見てようやく落ち着いた圭太はともに家に入り、そして今に至った経緯を説明した。
「それが、まず会社に着いてから建物の中に全然入れなくて、それで会社に電話して開けてもらおうとしたらスマホも使えないし、次に交番に駆け込んだら不法入国者と間違えられて!親に頼めば認証情報を開示できるから、って言われて家に帰ろうと思ったけど、まず電車にも乗れない!それで歩いて帰ろうとして喉が乾いても何も買えない!スマホも弄れない!しかも俺だけさあ!どういうことだ!って」
圭太の口調が初め悲しみを含んだものから徐々に怒りに変わり、最後はまるで八つ当たりをしているようであった。彼の話を聞いていた母も、初めは比較的真面目に聞こうとしていたが、徐々に彼のある過ちに気づき、そして終わった時には呆れたような視線を彼に送っていた。そして、大きなため息をついてこう言ったのだった。
「はあ、まさかとは思ったけど、本当にそうなるとは」
「へ?」
「本当に、あんなところで寝てるから……でも、まさか、遅刻した挙句に話も聞いてないとはね。もごもごよくわかんないこと言ってたから心配ではあったけど、本当に聞いていないとは。私ちゃんと言ったのに!」
どういうことなのか、今の彼には全く状況が掴めなかった。しかし、母の今の雰囲気から、圭太は自分が大きな間違いを犯していることを察し、上目遣いをして小さな声で言った。
「あの、お母さま、どう言うことですか……?」
「ほら、通勤鞄の中!よく見て!」
怒る母に言われるがまま自分の鞄を漁ると、そこから見慣れぬ小さな封筒が出て来た。中には葉書位の大きさの指紋認証付きホログラムシートと、書類が封入されていた。
その紙にはこう書いてあった。
S県Y市T町三丁目にお住いの皆様
複合型個人認証システム移行による認証停止と仮コードご利用のお知らせ
日頃から、複合型個人認証システムをご利用いただき、誠にありがとうございます。
皆様にご利用頂いている等サービスですが、データ量の増加に基づくシステム遅延の発生を受けまして、大幅なシステム改築を行うこととなりました。
それに伴い、各地区ごとに段階的なデータの移行と通信確認を行いますので、予め指定された時間帯のみ認証の解除が不能となります。ご不便をおかけして誠に申し訳ありません。従いまして、この時間帯に認証を解除される際には、送付しております別紙上の暗号化コードをご利用下さい。こちらは紙面下部の認証窓に右手親指を触れた状態で、各端末にかざすなどしてご利用下さい。
ご不明な点がありましたら、下記番号へお電話頂くか、お近くの役所へ相談窓口を設置しておりますので、ご利用いただきますようお願い申し上げます。
皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。よろしくお願い申し上げます。
記
日時:二〇六二年九月五日 午前八時三〇分~十時三十分
対象の皆様:S県Y市T町三丁目二の二十一にお住いの皆様
お問い合わせ先:システム移行推進部事務局 ×××ー××××ー××××
圭太はその紙を持ったままの状態で母に問いかけた。
「……母上殿、今何時?」
「今?自分で見たらいいじゃない。
ーー十時三十五分よ」
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