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4章 梅雨
2 秘密
しおりを挟む「ねえ、最近いい感じ?」
研究棟の共用計測室で、測定機のセッティングをする優人に声をかけてきたのは、立石ありさだった。
「……まあ、ぼちぼちかな」
「ふうん」
――何か他に言ってくると思ったのに。
立石がこうしてわざわざ声をかけてくるときは、よくも悪くも大抵何か言いたいことがあるときだった。
しかし彼女は何故か視線をこちらに向けて黙り込んだので、何をしに来たのかと優人が聞こうとしたときだった。
立石は化粧っ気のない鋭い目をじっと向けると、問いただすようにこう言った。
「……ねえ、もしかして相手できた?」
その突然の言葉に驚きながらも、優人は淡々と答える。
「……いや、いないけど」
「ふーん」
口ではそう納得したように言ったものの、彼女は腕を組んで考え込むようにして、そこから離れなかった。
――まだ何か言いたいことがあるのだろうか。
そもそも、ただ邪魔をしにきただけなのかもしれない――そう思った優人は自分から声をかけることにした。
「……何?」
「いや、別に大したことじゃないんだけど」
「……なら俺、これから測定あるからもういい?」
「ふふ、ごめんごめん。じゃあ聞くけど、優人、誰かに片思いしてるでしょ」
「…………え?」
片思い。
その言葉が耳に入った瞬間、まるで時が止まったような感覚に陥った。
――片思い。
それは久しぶりに耳にする、ふわふわと浮ついた言葉だった。
だからすぐに否定すればよかったのだ。そんな時間はないと、笑って答えればよかった。なのに何故かその言葉は心のどこかに引っかかったように、優人の思考をぷつんと止めてしまった。
不意打ちを食らったように返答できずにいると、立石はにやりと笑みを浮かべながら呟いた。
「……やっぱり、思い当たる節があるんだ」
「いや、ないって……」
片思い――それは、誰かに恋愛感情を向けること。
そんな感情を最近抱いたこともなければ、向けるような人も優人の周りにはいなかった。
ただ、何故かぼんやりと思い浮かぶ人の姿はあって。それは、確かに須藤静河だった。
――俺が…………須藤さんに片思い?
ありえない――優人が言葉を失っていると、立石は得意げにこう言った。
「……そう?優人、今も私の見たことのない顔してるけど」
「え?」
「ふふ。やっぱりそうなんだ」
どうやら彼女はカマをかけたらしい。しかしそんなこと気に留める余裕すら、優人にはなかった。
なぜならそれ以上に、今考えなければならない大切なことがあったから。
――俺は……須藤さんのこと好きなのだろうか。
そう自分に問うも、すぐさま否定する。
――いや、ありえない。だって須藤さんは男だ。
自分たちは男同士だ。だから尊敬することはあっても互いを好きにならないし、恋愛感情を抱くわけがない。
ダーツバーで偶然出会ったとき。
あのとき彼の姿を見て心躍ったのは、須藤のことが好きだったからではない。まさかあの場所で会えるとは思っていなくて、驚いたからだ。
また毎週のように誘い合ってふたりで飲みに行くのも、互いに酒が好きだからであって、須藤のことが好きだからではない。
そう自問自答する中で、優人は少しずつ自分に違和感を覚えた。
――本当に、そうだろうか。
いることに驚いたから?――違う。確かに驚いたけれど、それだけじゃない。あの場に須藤がいて、誰も知らない彼の一面を知ったようで嬉しかったんだ。
それにわざわざ誘ってまでふたりで飲みに行くのも、酒が好きだから?いや、違うだろう。
須藤と一緒に、飲みに行きたいから誘うんだ。
――じゃあ…………あの人に対するこの気持ちは。
優人がそう思ったときだった。
測定室の扉が音を立てて開き、現れたのは陽気な顔をした三隅だった。
「ありさちゃん久しぶり!ふたりで何話してんの?」
声をかけられた立石はすぐに答えた。
「優人、前と違って元気そうに見えたから、何かいいことあったんじゃないかって聞いてたの」
「そっか!まあ確かに今の優人は絶好調だよなー。だけど最近、須藤さんとばっかつるんで俺に全然付き合ってくれないんだよ!」
「へえ……」
その瞬間、優人は立石から嫌な視線を感じた。
――まずい。
これだから察しのいい人間は――優人がそう思い視線を逸らしていると、三隅はいつもの様子で調子よく続けた。
「……みんなも須藤さんの雰囲気が柔らかくなったって喜んでるから、まあいいんだけどさー。歓迎会だって、子供がまだ小さいから来ないって先輩たち言ってたのに、普通に来たしさ」
優人の中で、ある言葉が反響する。
子供。
――子供。
それは一体、誰の――そう優人がぼんやりと思ったときだった。立石はさらりと口を挟んだ。
「……須藤さんって、室島研の博士の人?」
「いや、助教の人。優人が今お世話になってる指導教官でさ。誰も見たことないんだけど、奥さんも子どもいるらしいんだ」
「……へー、そうなんだ」
立石の視線がこちらに向けられた気がした。
だからそれを振り切るように、優人は実験の準備をするふりをし始めた。三隅はそんなことなど知らず、能天気に続けた。
「え、ありさちゃん、まさか学者がいいの?」
「あはは。違う違うよ」
「じゃあ…………不倫!?」
そのとき、背にぞわりと何かが走った気がした。
「もう、三隅くん何馬鹿な事言ってんの。……ほら、優人これから測定らしいから、あたしたち邪魔だよ。行こ!」
「お、ごめん優人。悪い悪い!またな」
そうしてふたりは手を降って測定室から出て行った。
ただ、優人はそれをどう見送ったかも、そのあとどうやって測定したかも覚えていなかった。
頭はなぜか真っ白で、フリーズしたように動かなかった。
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