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1章 勾玉の導き
1 微睡みのなかで
しおりを挟む――誰かが、呼んでいる気がする。
穏やかなまどろみのなかにいた川窪瑞生は、目を閉じたまま探るように耳をすませた。
初夏のぬるい風がふわりとカーテンを揺らす、かすかな音が聞こえた。その後ろで規則正しく響いているのは、スマートフォンのアラームだろうか。
瑞生がゆっくりと目を開けると、部屋はまだ薄暗い。
身体を起こすと、窓の外には夜明け前の紫色の空が見えた。どうやら起きるにはまだ早すぎる時間らしい。
瑞生は嫌な予感を覚えた。
――この音はアラームじゃない。
跳ね起き、ベッド脇のサイドボードで震えるスマートフォンを手に取る。
それは案の定、母からの着信だった。
「……もしもし」
「瑞生!ああ、どうしよう。おばあちゃんに会えるの、もう最後かもしれない」
おばあちゃん――その言葉を聞き、瞬時に日本に住んでいるはずの祖母の姿を思い出す。
母方の祖母――川窪濔千流は、現在瑞生が住むフランスから遠く離れた日本でひとり暮らしをしている。御歳八十ながら一人余生を満喫し、若い頃の蓄えを使って友人と旅行に行くのが趣味という活発な人だ。
祖母はときおり母が愚痴をこぼすほどアクティブだったので、先日、軽い脳梗塞で倒れたと聞いたとき、母はどれだけ心配したことだろう。
結局大事をとって入院させることにし、母はその付き添いにと帰国している最中だった。
なのに、突然どういうことだろう。
「ばあちゃん……ただの入院じゃなかったの?」
瑞生がそう聞くと、母は動揺しながらも必死に口を開いた。
母が言うには、手術後祖母は順調に体力を取り戻していたらしい。しかし入院したあとすぐに眠り始めたかと思えば、以来そのまま目覚めず昏睡状態を続けているという。
「――検査結果は問題ないって先生は言っていたの。でも、もしかしたら脳に障害が起きているかもしれなくて。その場合、おばあちゃんたちみたいな体力のないお年寄りは……」
そうスマホの先で涙ぐむ母の声を聞きながら、瑞生は窓の外に広がる葡萄畑にぼんやりと視線を送る。
夜明け前の、まだ黒々とした雄大な大地が奥へ奥へと広がっていた。
この光景を見るたび思い出すのは、幼い頃祖母とすごした日本での日々だった。
どこまでも続く青い空と、遙か天高くにそびえる入道雲。
その下に連綿と続く大地には、風に揺れる新緑の絨毯が幾重にも広がり、彼方に見える山のふもとまでゆるやかに続いていく。
豊かな水の恩恵を、地にも大気にも感じる遥か彼方の故郷、日本。
そこで幼い自分を温かく迎えてくれたのが祖母だった。
『瑞生も、きっと気に入ってくれると思うわ』
初めて会ったばかりの祖母はそう言ってふくよかな手を差し出すと、幼い瑞生の小さな手を優しく包んだ。そしてあのうつくしい原風景の中へと連れ出してくれたのだ。
数十年経ったいまでも、それらの記憶はありありと思い浮かんだ。
その中でも瑞生の記憶の中に鮮明に残っていたのは、祖母がお気に入りの場所だと言い連れて行ってくれた、とある森の風景だった。
そこは、山の中をすこしばかり進んだところにあった。
木々が立ち並ぶ小道を歩き、それが徐々に暗く深く、鬱蒼としはじめた頃。
突然目の前にあらわれたのは、森の中にぽつんと湧き出た泉だった。
木々の緑に覆われたそこは、天からちらちらと木漏れ日が差し込み、鏡のように静かな水面にきらりと反射して輝いた。
非現実的で幻想的なあの風景。
次に日本に行くことが叶うなら、あの場所に絶対行きたいと瑞生は願っていた。
――でも……。
突然、冷たい風が開けっ放しの窓からぶわりと吹き込んだ。
瑞生は立ち上がり駆け寄ると、それを静かに閉めた。そしていまだ電話の先でひとり話し続ける母の声に耳を傾ける。
「――私は仕事があるから、一度そっちに戻らないといけないの。瑞生、あなた夏休みだしすぐ日本に来れるでしょう?」
その言葉に瑞生は即答できなかった。
しばらくためらったあとでようやくぼそりと言う。
「…………まあ」
「歯切れが悪いわね。大丈夫。顔を見たらすぐに戻ってくればいいじゃない」
――確かに、そうなんだけど。
そう思うと同時に、そんな簡単なことじゃないという反論が心の中で響く。
電話越しの母には、もちろんこの葛藤はわからないだろう――そう瑞生が思っていると、母はため息を付いたあとで言った。
「……あなたが気にしてるのは、もう十年も前のまだ小さかった頃のことでしょう?悪夢なんてきっとたまたまだったのよ」
その投げやりな口調は、瑞生が次に発する言葉を勝手に決めるようなものだった。
「……わかった。行くよ」
それだけ言って電話を切ると、スマホを再びサイドボードに転がしもう一度ベッドへ横になった。
「…………はあ」
ため息をついた瑞生はぼんやりと宙を眺めた。
視線の先には壁に貼られた大判カレンダーがあった。
それは日本の四季の写真を使ったもので、晴れやかな青空の下でそびえ立つ富士山と、大輪咲き乱れるひまわりの黄色が鮮烈だった。
季節はいよいよ七月。これから日本も本格的な夏を迎える頃だ。
「……行くしかないよな」
瑞生はそうぼそりと呟くと、諦めたように静かに目を閉じた。
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