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4章 誰かの記憶
2 あなたに仕えたい
しおりを挟むざわめきにも似た音が響き、イスルは目を覚ました。
そこはじめじめとした洞窟の中だった。
あたりに漂う冷たい空気に一瞬ぞっとしたものの、皮膚がたちまちうるおいを取り戻していることに気付き、イスルは立ち上がった。そして入口の明るい方へと向かっていく。
「あ、雨だ……!」
見えたのは、待ちに待った雨が森に降り注いでいる様子だった。
まるでこれまで空に溜めていたものを一度に吐き出すように、滝のように流れるそれに、イスルは安堵した。
――ああ、よかった。
これなら、きっとムラのため池はいっぱいになり、稲や作物も元気を取り戻すだろう。皆の渇きも癒やされて、これ以上森の恵みに頼らなくて済む。
そう思いながら、イスルはふと疑問に思った。
必死になって川上へと向かっていた自分は、途中で倒れてしまったはずだった。そうしてまるで天国みたいなきれいなところにいる夢を、見ていた気がするのに。
あれはまさか夢ではなかったのだろうか――腕に抱えられた感覚を思い出しながら、イスルがはっとしたときだった。
「気付いたか」
イスルの後ろ、洞窟の暗がりから声が響いた。
それは、女声のような、年齢のよくわからない穏やかな声色だった。
振り返るとあらわれたのは、あの夢で見た白い髪と不思議な緑の瞳を持ったその人だった。柔らかそうな白い麻の布で包まれた白い肌が目に入った。
あの腕で、自分を優しく抱きかかえてここまで運んできてくれたのだろうか。
ちらりと脇へ視線を向ければ、洞窟の入口には雨で水面の揺れる暗い泉が広がっていた。
きっとこの方がオオテキさまなのだ――そう悟ったイスルは、すぐに地面にひれ伏した
「お、オオテキさまであらせられますか?」
それに男は答えなかった。ただぽつりと言った。
「……そなたは、私の名を存じているのだな」
なぜそんなことを言うのだろう――そうイスルは疑問に思った。
オオテキさまは暴れ川ながら、このクニのひとびとの生活を支える大切な川なのだ。
イスルはおそるおそる返した。
「……当たり前です。高志の民の皆が存じています」
「……そうか」
男はそう言うと、すぐに黙り込んでしまった。
その様子にイスルは動揺したものの、絶えず降り注ぐ雨にはっとし、もう一度頭を下げる。
「雨、ほんとうにありがとうございました。あなた様のおかげで、家族も、みんなも救われました。自分のこのいのち……どうぞお使いください!」
イスルは勢いのままに言った。なぜならここに来る前、そうしようと決めていたのだから。
しかしいくら待っても返事は返ってこなかった。だから頭を伏せながら、疑問に思う。
――どういうことだろう。
ここに来る前、父と母が言っていたことが間違いだとは思えなかった。
この人はカミに等しい現人神たる存在なのだ。相応の捧げものがなければ、応じてくれないはずだった。
おそるおそるイスルが頭を上げると、男の困惑した表情が見えた。透けるような緑の瞳が思索に歪められたあと。こちらにぴたりと向けられと思えば、次に口が開いた。
「この雨は……たまたまだ。私の力ではない」
そのことばにイスルは思わず言う。
「でも……降りました。これまで必死にみんなで祈りを捧げたときは、一度も降らなかったのに。だから、みんなあなたさまに救われたようなものです。その恩返しがしたいのです。一体、どうしたらいいのでしょうか」
イスルは必死に思いをぶつけた。
この雨を、みなどれだけ待ちわびていたことか。
これからこの雨が、どれだけ多くのひとのいのちを救うのか、幼いイスルにも、よくわかっていたから。
しかし男は首を縦に振らなかった。
「……よい。私はなにもいらない」
そう言って沈黙するばかり。
しかしイスルも引き下がらなかった。家族やムラの皆を救ってもらったことはもちろん、自分こそ。助けてもらったようなものだったから。
「オオテキさま。だとしても自分が助けてもらったのは本当のことですし……何か少しでも、お役に立ちたいのです」
そう言いちらりと男を見上げると、まるで見かねたように洞窟の中へと戻ってしまった。
現人神であるあの方に、ぶしつけな真似をしてしまっただろうか――イスルがそう焦っていたときだった。
男はふたたび洞窟から姿を現したと思えば、近くに歩み寄り、なにかを差し出した。
「そう言うのなら、そなたに……これを渡そう。いつかそれに相応しいおとこになったとき。それを持って、またここに来るがよい。そのときに、そなたに役目を命じよう」
イスルは男の白い指先からそれを受け取った。
差し出したのは、彼の目と同じ色の勾玉だった。
この世のものとは思えない色合いの美しさと、つるりとした表面に、イスルはごくりと唾を飲む。
「はい……ありがとうございます」
そう感謝のことばを伝えた時には、男の姿はなくなっていた。
雨が穏やかに降り続ける森の中で、イスルはしばらく男を探した。しかし結局、彼がふたたび姿を現すことはなかった。
イスルはもらった勾玉を丁寧に握りしめて、ムラへと戻った。その道中で、雨はどうやら山だけでなく、国中に降り注いでいることがわかった。
天に広がる分厚い雲は灼熱の日をすっかり覆い隠し、大地を冷やすように雨を落としていた。
イスルのムラは、ひとびとの生き生きとした声を取り戻していた。
喜びの声が響き渡るなかで家に戻ると、親たちが死人でも見たような顔をして驚いた。
その後、しばらく涙を流したあとで、いろいろと問い詰められたので、イスルは彼らに聞かれるがまま水神様の話をした。
泉のこと、オオテキさまのこと、そして勾玉をもらったこと。
最後にそのうつくしい石を見せると、彼らはことばを失ったあとで、すぐに神官を呼んだ。
そのままイスルが驚いているうちに舟に乗せられ、気付いたときにはクニの中心――姫巫女の社へと連れていかれたのだった。
イスルがやってきたのは、白木がふんだんに使われた豪奢な建物だった。その高い床の社からは、とおくひとびとの営みが望めた。
そのもっとも奥、もっとも高いところに、姫巫女の居室はあった。
イスルが足を踏み入れた途端感じたのは、あの森で男に出会ったときの、ある種の静寂だった。
気がはりつめるような、清浄な気があたりに漂う中。
もっとも見晴らしのよさそうな場所に連れて行かれたと思えば、置かれていたのは麻の地でつくられた幕だった。
そこには黒い影が見えて、気づけばあたりには誰もいなかった。
イスルは幕から距離をとり、頭を伏せた。
「川中のイスルにございます」
すると幕の奥から声が聞こえた。
「そなたが、オオテキヌシに会ったというイスルですね。待っていました」
その声が、あの泉の男に似ていることにイスルはすぐに気付いた。
まるで少女のように若いはりのある響き。ただ、女の人であることは確かだった。
またその親しげな口調にイスルは安心して、思わずあの日受け取った勾玉を差し出して言った。
「これを……オオテキさまに頂いたのです」
すると幕の奥ではっと息を飲む声が聞こえた。
まさか、このクニを統べる方がそのような反応をするとは、イスルは思ってもいなかった。
だから心配したものの、ホスミノヒメはややあってこう言ったのだった。
「イスル。そなたは私の元で修行に励み、精進しなさい。あの子は……私よりもカミに近い身。そのときが来たら、そなたに声をかけましょう」
そうして急遽イスルは、幼いながら川中のムラからホスミノヒメの住まう川下のムラへと移り住み、神官たちとともに生活することになった。
祈祷や舞、捧げもの、そして狩猟など、学ぶことはいくらでもあった。
ただ、目指すべきもののためにする努力はイスルにとって少しも苦にならず、むしろ楽しかった。
旱魃から皆を救ってくれたいのちの恩人であるオオテキヌシに、早く仕えたくてたまらなかったのだ。
そうしてあっという間に十年のときが流れ、イスルが十八になった頃。
ついに姫巫女から呼び出しを受けた。
――もうすぐ、もうすぐた。
やっとあの方にお仕えできる――そうイスルがひとり喜びを噛み締めていたときだった。
それを邪魔するように飛び込んできたのは、ムラに轟いた叫び声だった。
「敵だ……敵があらわれた……!やつら……私たちのムラを、見境なしに襲い始めたぞ!」
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