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7章 水神の記憶
5 願い
しおりを挟む刃は確かに自分を貫いて、激痛が絶え間なく襲う。
視界は変わらずに赤く、まつ毛同士が乾いた血で貼り付いて痛い。
だから、自分の目に入ったものを信じられなかった。
必死に目を凝らしそして気付いた瞬間、思わず言葉が漏れる。
「なぜ………………そなたが」
社で修行に励んでいたあの少年イスルは、すっかり青年に成長していた。
背丈は伸びがっしりとした身体付きで、もう軽々と弓矢を扱うのだろう。
艶のある黒髪を束ね、筋肉のよく付いた腕には成人の証となる黒の入れ墨も見えた。
その手に握りしめていたのは、確かにあの勾玉で。
大きな黒い目を開いて、名を呼んだ。
オオテキヌシさま、と。
それを見た瞬間、胸は張り裂けそうになる。
このときを、この瞬間を、自分はどんなに夢見たことだろう。
イスルは確かに約束を守った。しかも遥か彼方のこんな地まで自分を追いかけて。
――ならば、自分が守らなければならない。
そうオオテキヌシが思ったのは、片隅から強い殺意を感じたからだった。
王は、口に笑みを浮かべていたものの、突然殺伐とした気を放ち始めたのだ。
ああ、このカミを恐れぬ男なら人も容易く殺すだろう。
そう思った瞬間、胸に湧き上がったのは強い衝動だった。
気付けば身体は大蛇の姿を象り、王に迫っていた。
「おお、まだ力が残っていたか」
その言葉を合図に、いきおいよく剣が向けられた。
不死といえど、すでにオオテキヌシの生命力は確実に削がれていた。
身体を動かすたび激痛が走り、尾で払うたびに骨が軋んだ。
それでも、距離を取り守らなければなければならなかった。
イスルはかけがえのない存在で、自分の名を呼んでくれたたったひとりの人だったから。
「ははは!水神よ、静まり給え。何をそんなに暴れる?さては――」
ああ、なんて卑劣な存在なのだろう。
迫る王に対して、湧き上がったのはもはや呆れだった。
この男は、大切なひとを守りたいことを知りながら、攻撃の手を止めず、むしろさらに激しくしているのだ。
このままでは、力が尽きてしまう。
オオテキヌシは静かに悟った。
若いイスルにはまた未来があって、別の人生を歩めるというのに。
自分がそれを妨げるのか。影の存在である自分が。
それはできるわけがないだろう。
必ず守って、生きて返さなければならない。
自分のために命を失わせるなど、絶対にしてはならない。
そう思った時には、自然と口が開いていた。
『どうか、その男のことは見逃してくれ』
「……ほう」
『私は未来永劫ここに繋がれることを約束しよう。だから……高志のクニには今後関わらぬと誓え』
すると影から叫んだのはイスルだった。
「お、オオテキヌシ様、だめです!それではあなた様が――」
「ははっ。そこの人間の言う通りだ。……なると思うか?」
その瞬間、すべてのことが頭から吹き飛んだ。
願いも聞き入れられないというのなら、もうなんとしても守りきるだけ。
何をしてでも――たとえ自分の命を失っても、イスルだけは守り抜いて、そして生きて返さねばならない。
すでに力は入らなかった。もはや身体を動かしていたのは執念と憎悪。
だから王が笑みを浮かべて別の方に視線を送っていることに、気付くのが一瞬遅れてしまった。
自分を狙っていたはずの剣は手から離れ、一直線に飛んでいく。
その先にいたのは守るべきイスルで。無我夢中で身体を動かしたあと、尾は言うことをきかなくなっていた。
「あ…………ああぁっ……」
イスルの悲鳴が聞こえた。
痛みを感じたものではない、驚きに近い声。
大丈夫。傷付けられていない。
ああ、よかった。
「……まったく。これだから、ひとに近づきすぎると禄なことがない」
穏やかな気持ちを踏みにじるような言葉が耳に入る。ただ、もうどうでもいい。
なじられようが、何を言われようが構わない。
身体を動かして、なんとかイスルと向かい合う。
心配そうな顔で涙を流しているものの、身体には傷ひとつなくて安堵する。
「そなたは……早うクニへ帰れ」
するとイスルは首を横へ振った。
「私は……貴方様を助けにきたのです。貴方様にお仕えするために……貴方様に身を捧げるために、ここに来たのです」
なんて律儀な人なのだろう。
まだそんなことを言うとは思わなかったので、思わず心の中で笑ってしまう。
そして思う。
そんなにも熱心に思ってくれる彼ならば、抱いていた夢もきっと現実になっていたかもしれない。
もうそれだけで十分だった。
「……そうか。私のことは、ここにおいていくがよい」
「でも!」
「よいのだ。あちらには……ホスミノヒメがいる。それに、もう……十分だ」
「でも……!」
「嬉しかったぞ。そなたが、私とのあんな約束を覚えていてくれて。それだけで……もう……十分なのだ」
「お、オオテキヌシ、様……」
何を言っても、このありあまる幸せを伝えることはできないのだろう。
自分は確かに幸せだ。誰が何と言おうが、現人神として十分すぎるほどのものを得た。
だから、あとはイスルを高志のクニへ返すだけ。
そう思い、最後の力を使おうとしたときだった。王はそれに気付いたようで、別の剣を取りこちらの大きな身体をばらばらにし始めた。
もう終わったというような、高笑いが響き渡った。
そんな絶望的な状況で、確かに聞こえたのは水の音だった。
大丈夫。必ず救ってみせる。
王はあたりを取り巻く異変に気付いたのだろうか。突然怒りをあらわにした。
「……そなた、何をした?」
「なに、最後の悪あがきをしただけだ」
自分の力を振り絞り、読んだのは雨だった。
流れる水の音は次第に大きくなり、流れ込む水の量は増え、行き場を失ってこの場所に溜まっていく。
現人神の王とはいえ、水神でない彼に豪雨を止めることはできない。
激流が流れ込む中、小さくなった身をよじり意識を失ったイスルを口に咥える。
蛇の体ならば、この流れをさかのぼれる自信はあった。
そして水を伝っていけば、いつか必ず外に繋がり、そこにはイスルの仲間たちもいるだろう。
そう思ったときだった。背後から怒号が飛ぶ。
「太陽は私の左目となり、月は右目となってそなたを探すだろう!この地が常世に存在する限り、そなたの御霊が解き放たれることはない!」
水かさを増す中、呪いの言葉が響き渡る。
「そなたはこれから永遠の痛み、苦しみの檻に囚われて生きていくだろう。そこから逃れる術はない。そなたの魂は……永劫の地獄をさまよい続けるのだ。覚悟するがいい!」
「……それでいい。もう、高志には関わるな」
それがすべてだった。
自分がどうなろうと構わない。
守るべき彼らがあの豊かな大地で、幸せに生き続けてくれる以外、望むものはなかった。
欠けた身体でなんとか激流を上ると案の定外へ出た。
黒い雲が先の見えないほどの豪雨をもたらしており、大地はもはや小さな海のように水で溢れていた。
その中を、イスルを引きずり進んでいると、彼によく似た姿の男たちを見つけた。
それが高志の神官たちだと気付いたときには、彼らはすでにこちらに駆け寄っていた。
「イ、イスル!?そなたこんなところに。……へ、蛇!」
「…………はよう、行け」
蛇の姿でなんとかそう言うと、神官たちはようやくただの白蛇でないことに気づいたらしい。
深く頭を下げた後で続ける。
「ですが、この雨では船を操ることが大変難しく、ひっくり返ってしまうかもしれません……」
「案ずるな。私がついている。水は……私に任せろ」
その非現実的な言葉は神官たちに届いたらしい。彼らは一片の迷いもなく頷く。
「……は、はっ。それはありがたきお言葉。では、すぐに高志へと出発いたします」
豪雨の中、イスルを背負った彼らは急いで船に乗り込んだ。蛇の姿で彼らを追い、出発した彼らを海の中から追う。
あの男がどこまで追いかけてくるのか不安になりながら、雨雲を読んでは自分たちの背後へと流していく。
外海は、陸の騒ぎが嘘のように穏やかだった。
雨で追っ手を阻みながら、船を北へ向かう海流へ乗せる。それが最短で彼らを送り届ける方法だった。
オオテキヌシはなんとか意識を保ちながら、船の後ろについて彼らを追いかけた。
追っ手はついに来なかった。
あの王が諦めたとは思えなかった。
しかし、あの呪いの言葉を吐いて、満足したのだろうか。それともこちらの願いを飲んだのかはわからない。
ついに高志の陸が見えたとき、穏やかな達成感に包まれた。
もう、目と鼻の先にあの豊かな大地がある。
大いなる水に覆われた、人々のすまう地。
ここまで来れば、もう安心だ。
その瞬間、身体が海に溶けるように失われつつあることに気付いた。
現人神とて無理をするものでない。肉を保てなくなったオオテキヌシは、そう笑った。
後悔はなかった。
イスルは自分との約束を叶えてくれた。そうしてくれた彼を守り、ここまで生きて返すことができた。
もう十分すぎるほどに思えた。
ありあまる幸せ以外、あてはまる言葉はない。
身体は沈みはじめ、眩い水面が見えた。
高志へ向かう船底は、徐々に遠ざかっていく。
まるで穏やかな海を撫でるように、船は明るいところをゆったりと進んでいく。
ああ、イスル。
どうか、幸せに。
この豊かな地で、そなたたちが末永く生きていけるよう、ずっと願っている。
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