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8章 囚われた蛇
1 縛られたもの
しおりを挟む全身が引き上げられるような浮遊感があった。
瑞生は穏やかに目を開ける。
心はすっかり満たされていて、イスルの夢を見たときとは違う、凪のような目覚めだった。
つつ、と頬に涙が溢れる。それを手で拭いながら、瑞生はひとり納得する。
――俺は、やっぱりオオテキヌシの生まれ変わりなんだ。
自分が日本に来るたび、見ていたあの恐ろしい悪夢。
あれはオオテキヌシの記憶そのものだった。
そしてそれを日本に来たときだけ夢見ていたのも。大和の王ヤオギノカミが別れ際にオオテキヌシにかけた、呪いのせいなのだ。
オオテキヌシは未来永劫日本に足を踏み入れられない――あの呪いは、泉で主の帰りを待ち続けたイスルに対して、どれだけ非情なものになったのだろう。
だからイスルの助けられなかったという後悔は強く残った。そして何度も生まれ変わることになり、そのたび彼らはあの泉で待ち続けたのだろう。
オオテキヌシの生まれ変わりも、それに応えるように現れたのだ。
ただその誰もが呪いによる悪夢に苛まれ、精神を病み、会えずに死んでしまったのだろう。
――だから……早く伝えないと。
イスルの生まれ変わりとして、待ち続けていた周吾に、感謝の言葉を伝えなければならなかった。
オオテキヌシは自分の死のことを、少しも後悔していないのだから。
自分を助けようとイスルが現れたこと。自分の名前を呼んでくれた、ただひとりの存在を守ることができたこと。
彼はそんな生を満足して終えたのだ。
だからそれを早く伝えなければならなかった。イスルは、オオテキヌシが自分を守り死んでしまったと思っているのだから。
瑞生は横たえていた身体を起こし、周りを見回した。
薄暗く冷房の効いたそこは、さっきまで見学していた郷土資料館のロビーの一角だった。
「……ああ、瑞生くん。気づいたかい?」
「丈司さん!」
奥から現れた館長の丈司に気付き、瑞生はすぐさま聞く。
「あの……周吾は?」
「周吾は外だよ。泉の前で意識を失った君を運んで、少しの時間君を見守ってたんだけど、そのあと外に戻ってしまってね。大丈夫かい?落ち着いたかな?」
「はい。すみません。ご心配をおかけしました」
お辞儀をすると、丈司は微笑みを向けた。
「大丈夫だよ。……そうだ。君が倒れてから驚くべきことがあったんだ。あの枯れていた泉がね、突然湧きだしたんだよ」
「え?」
落ち葉ですっぽり覆われたあの泉は、先ほどまで湿り気すらなかったはずなのに。
そう瑞生は驚きながらも聞いてみる。
「さっき見たとき……落ち葉で覆われていて、水なんてなかったと思うんですけど」
「そのとおり。あの泉はかなり前に枯れてしまっていたはずだったんだけど……なぜか君が意識を失ったあとに、徐々に湧き出したみたいでね」
「…………」
あの泉は、オオテキヌシの住処であり、イスルがずっと待ち続けた場所だった。
瑞生がはじめて日本に訪れたとき――祖母に連れられてきたときには満ちていた泉。それは一度枯れ、また戻ったという。
それは何を意味しているのだろう――。
瑞生が呆然としていると、丈司は続ける。
「……あの泉にはね、古い言い伝えがあってね。水は水神とともにあるというんだ」
穏やかな視線が瑞生に向けられた。
黒いふたつの眼差しは、周吾とよく似たものだった。
「……僕は、君が水神なのかなんて聞かないよ。因果はあれどきみはきみ。瑞生くんだからね。そもそも、この世界にはよくわからないことばかりだし、そういうものはみな、物語とか言い伝えになって残っていくものだから。今回のようにね」
「……丈司さん」
皺の刻まれた目元は優しく細められた。
しかし突然ぼんやりと宙をさまよいはじめたと思えば、丈司はひとりごとのように言う。
「……周吾はね、ずっと囚われて来たんだよ」
「え……?」
「幼い頃から、両親と別れて暮らしていたという話をしただろう?実は…………周吾の両親は少し前に、交通事故で亡くなっているんだ」
「え、そんな……」
瑞生は言葉を失った。今まで接していた周吾からは、そんな厳しすぎる現実は少しも読み取れなかったから。
「……それでも、周吾はなにも変わらなかったんだ。あの子はね、勾玉を握りしめて毎日あの場所へ行くんだよ。肉親が亡くなったのに、あの子の大切なものはまるで別にあるというように。……だから、君が周吾の待ち人であるというなら解き放って欲しいんだ。何か大切なものがあるのかもしれないけれど、それ以前に、あの子は青海周吾なのだから」
「……丈司さん」
瑞生は不意に周吾のことを思い出した。
泉に向かうと告げたとき。こちらを見ていた暗い瞳は、まるで大切なものを奪われるかのような虚無だった。
丈司の言葉に、瑞生は何も返すことができなかった。
なぜなら因果に囚われてここにいる自分も、まったく同じであることに気付いてしまったから。
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