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8章 囚われた蛇
2 拒絶
しおりを挟む瑞生は急いで建物の外へ向かった。
すでに日は傾き始めており、泉への階段は薄暗かった。
転ばないよう慎重に足を運ぶ。
それは丈司の言葉に瑞生自身も動揺していたからだった。
『君が周吾の待ち人であるなら、解き放って欲しいんだ』
――確かに、自分はイスルの待ちわびたオオテキヌシだ。
だからこそ周吾と同じように彼らに影響を受けて、そして川窪瑞生として生きてきた。
瑞生自身は、オオテキヌシに縛られているとは少しも思っていない。
しかし、周吾がオオテキヌシではなく自分の――川窪瑞生の言葉を聞いてくれるかはわからなかった。
泉に降りる前、呆然とこちらに向けられた感情のない眼差しを思い出す。
――それでも。
周吾のもとへ向かい、自分が見たオオテキヌシの記憶を伝えること。それはどんな状況だろうが、何よりも周吾に伝えるべきことだと思えた。
すでに木陰から橙の光が差し込み始めていた。急いで階段を降り、瑞生は思わず目を見張る。
枯れ葉で覆われていたはずの穴はすっかり水で満たされていて、水面は夕陽が反射してきらきらと輝いていた。
その光景は、時間帯は違えど祖母と訪れたあの泉と同じだった。
――やっぱり、ばあちゃんが連れてきてくれた場所はここだったんだ。
そう思いながら近づくと、暗い影の中に佇む周吾の姿が見えた。
周吾は微動だにせず、泉の方をぼんやりと見つめている。その後ろ姿に少し緊張しながら、瑞生は声をかける。
「……周吾?」
呼びかけに反応はなかった。
周吾は泉を見据えこちらに背を向けたまま少しも動かない。
不安になりながらも、瑞生は周吾の横へそろりと進み出た。そしてまるで独り言のように言う。
「周吾。俺、全部見たよ。オオテキヌシの記憶」
すると、手がぴくりと動いたのが見えた、
それでも身体は動かなかったので、瑞生はやっきになって呼びかける。
「周吾!」
そのときだった。
「……瑞生。俺はどうしたらいい?」
「……え?」
ぱっと周吾の顔を見ると、やはり呆然と宙に向けられていた。その横顔には様々な感情がないまぜになっているように見えた。
まるで行く先すべてをふせがれてしまったことに気付き、絶望したあと。先へ進むことを諦めているような微笑みだった。
瑞生は困惑した。
確かに泉が水で満たされる前、瑞生がここに向かおうとしたとき、周吾は自分を止めようとした。
思い出さなくていい、忘れていいと言って苦しそうな顔で。
――やっぱり、後悔が強く残っているんだろうか。
周吾を通して見たイスルの記憶では、オオテキヌシとはあの出雲で切り刻まれて以来、一度も会えていない。
だから会えたら幸せにしたいと思う反面、守れなかったことを強く引きずっているのではと思えた。
先ほど、丈司に言われた言葉がぶわりと思い浮かぶ。
『あの子を解き放ってくれ』
自分にしかできない、そう丈司は言っていた。
瑞生は意を決して周吾に向き直る。
「周吾。どうもしなくていいよ。俺は俺、周吾は周吾だろ?それは俺がここにやってきてから今までも、そしてオオテキヌシのすべてを思い出したこれからも、少しも変わらない。だから俺たちはこれまでどおりでいいじゃん。海外から来た観光客と、ホストファミリーで」
「――そんなの……それでいいわけない!」
突然大きな声で言われ、瑞生はびくりとする。
「……なんで?」
「お前は確かに瑞生だ。だけど……俺にとってはずっと待ち続けたオオテキヌシ様なんだ。イスルが守りたくて守れなかった大切な人で、そんな人がようやくここにやってきたんだ。だから――」
そう言って周吾はこちらに手を伸ばした。
まるで縋ろうとするかのように、かすかに震えながら差し出された手。それを瑞生は何も考えずに取ろうとする。
自分も周吾のためになりたいと思い、周吾の家にやってきた初日、夢が怖いと言う自分を抱きしめてもらったように――。
しかし、それはこちらに届く前にぱっと引っ込められてしまった。まるで、自分が触れてはいけないものだと気付いてしまったように。
「瑞生。ごめん、俺、少し頭冷やすことにする」
「……え?」
「夕飯には帰るから。……ああ、ここからの帰りはじいちゃんに声かければいいから。歩いても帰れるくらい近いから、すぐ送ってくれるよ」
「え……ま、待って。周吾!」
いつもの周吾ならばそこで足を止めてくれるのに。
泉の奥へ進むと手をひらりと手を降り、そのまま階段を上がって行ってしまった。
それはまるで周吾に拒絶されたようで。
瑞生の身体は、なぜか固まったように動かなかった。
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