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9章 海に捧げる花
4 海の上の花火
しおりを挟むあたりはすっかり薄暗かった。
夕焼けの沈む海の上は柔らかなオレンジ色に染まり、次第に紫そして濃紺へと変わっていく。
花火大会当日、瑞生は会場となる海水浴場へ向かっていた。
八千河の花火は大海原を背景に海上に上がるという。そのため周辺の海水浴場が観覧席となるようで、電車の中もそこに向かう人々でいっぱいだった。
周吾と待ち合わせた大滌川駅の入口も、こんなに人が住んでいたのかと思うほど、混み合っていた。
浴衣を着て着飾った女子グループや、Tシャツ短パンという普通の格好をしているのは地元の人だろう。
賑やかな声がざわめきとなる中、聞こえたのは自分を呼ぶ声だった。
「瑞生、こっち」
手首をくっと掴んで引っ張ったのは周吾だ。
「周吾!ごめん、ありがとう。俺……こんな人混み始めてで」
「……言うほどか?」
そう微笑みながら、周吾はこっちと手を引いてくれる。そして人の流れに向かうように、なぜか海ではなく山の方へと坂を上がっていく。
側道脇の階段を上がり、ふたりは国道へ出た。
普段車の音しか聞こえないはずなのに、歩道は花火へ向かう人でいっぱいだった。人々が賑やかに歩くその脇を、赤い無数のテールランプがゆるやかに流れていく。
人々の気配と車のエンジン音が響く、どこか非現実的な光景の中。
瑞生は前をひた歩く周吾に従い足を進めた。
手首を掴む周吾の手は熱い。それはじっとりと汗ばみ始めていたものの、なぜだか少しも嫌だと思えなかった。
むしろずっとこうしていたい――そんな気さえした。
振り返らない周吾の頭を見つめながら、瑞生はぼんやりと思う。
――この時間も、あと少しで終わるんだ。
空に闇が広がり始めたからだろうか。
迫り来る別れのときを無視し、瑞生は黙々と足を進めながら思い出す。
――周吾は今日返事をすると言っていた。
もし受け入れられないと拒絶されたらどうしよう。
翡翠に導かれて出会い、共にすごした日々は瑞生にとってかけがえのないものだった。そんな毎日が一瞬で失われてしまう気がした。
瑞生はちらりと顔を上げた。
周吾は振り向かずにどんどん進んでいく。もちろん引く腕は離さずに。
そんな周吾を見つめながら、瑞生は思った。
――それでもいいじゃん。この気持ちは俺だけのものだから。
前世から続く古い繋がりに導かれて、こうして出会った。けれどもう、オオテキヌシがイスルを守りたいと思っていた以上に、周吾のことを好きな自分がいる。
クールで淡々としているけれど、よく人を見ているところも。
頑固で大人びたところもあるけど、ふっと笑うと幼く見えるところも。
周吾を好きなこの気持ちは、自分が日本にやってきて抱いた自分だけの気持ちだ。
だから拒絶されても、それでいい。
この気持ちは自分だけのものなのだから。
そうしてしばらく歩き、次第に見えたのは道の脇に広がる駐車場だった。
どうやら人々はここに車を置き歩いて会場に向かっているらしい。
早く、と人々が急ぎ足で国道へと向かっていく。それを端目に周吾は駐車場の中へ、奥へと歩んでいく。
突き当りは断崖絶壁だった。
視界には木々が繁茂し、その隙間からは黒々とした海が覗く。
空の濃紺はすっかり深まりきっており、そろそろ花火が上がるのではと瑞生が思ったときだった。
「……瑞生」
手を柵にかけ、周吾は名前を呼んだ。
その視線は奥の黒い海原に向けられている。
「周吾、何?」
「これが終わったら……瑞生はフランスに帰るのか?」
「……うん、そのつもり。俺はこの花火がきっと答えだと思うから。それに、来学期に向けていろいろやることもあるんだよね」
「……そうか」
周吾はそう言うと海の方を見つめたまま黙り込んでしまった。
もうすぐ花火が始まるのだろう。駐車場はもう誰もいなかった。
どうしようと瑞生が声をかけようとしたときだった。
『どうか、幸せに』
それはこの海で最期を迎えたオオテキヌシの記憶だった。
『この豊かな地で……そなたたちが末永く生きていけるようずっと願っている』
――そうだ。俺まだ伝えてなかった。
暗い海の波濤に導かれるように。瑞生は周吾に語りかけるように言う。
「俺、まだ周吾に言ってないことあった」
「……え?」
「イスルはきっと、オオテキヌシは出雲で殺されたと思ってるだろ。それで助けられなかったって、ずっと後悔してたんだろう?」
「ああ、そうだ。だから……次に会うときは必ずそのときのお礼と、その――」
「違うんだ」
「……え?」
「オオテキヌシはね、ここまで見送ったんだよ。そして、この海の中に消えていったんだ」
「そう……なのか……?」
黒い瞳が信じられないというようにこちらを見ていた。
瑞生はそれを受け止めるように微笑みながら続ける。
「……うん。オオテキヌシはね、イスルが出雲まで来てくれて本当に嬉しくて。だけどもちろんイスルの幸せも願ってた。だから最後の力で大雨を呼んで、出雲から脱出してここまでやってきたんだよ。最期まで送り届けて」
ようやくオオテキヌシの思いを伝えられた――そう瑞生が安堵した瞬間。周吾は柵に寄りかかるように崩れ落ちた。
「…………う……うぅっ」
小さなうめき声が聞こえた。瑞生は柵にかけられたままの周吾の手を優しく包む。
「じゃあ……この花火は…………まさか」
「うん。海の上の花火って日本でも珍しいんだね。いろいろ調べたけど、古くから上げられてる歴史ある海の花火はここだけだった。それに母さんも言ってたし、きっとそうだと思うんだ」
すると周吾は顔を上げて小さな声で言う。
「俺も昔じいちゃんに聞いたことがある。この花火は昔から八千河にあるもので、神に奉納するものなんだって」
「……そうなんだ」
「ああ。昔は木を削って作った花を海に流したらしいんだけど、昔から夏のこの時期に海に感謝を捧げているらしい。漁業に出る人たちが無事に帰ってきて、日々恵みをくださることについての海への感謝だって。けど……始まりは違うのかもしれない。これはオオテキヌシに対するホスミノヒメの思いだったのかもしれない。クニを守ったオオテキヌシへの……感謝の花火」
その言葉は瑞生の中ですっと腑に落ちた。
いつか帰ってくると信じ待つイスルに、ホスミノヒメはあえて伝えなかったのだろう。いや、伝えられなかったのだ。そしてその代わりに――。
「……ホスミノヒメは祈りをこめたんだね。またふたりが会えるように。きっとその念がこの翡翠に込められていて、俺たちの魂を引き寄せたんだ」
「ああ……きっとそうだ」
白銀の長髪をたなびかせて微笑む、ホスミノヒメの神々しい姿が思い浮かんだ。
同時に瑞生の中で祖母の優しい眼差しが蘇る。
あの慈しむような海のように穏やかな微笑みの中には、孫に向けたものともしかしたら弟に向けた思いも込められていたのかもしれない。
瑞生がそう思ったときだった。
海を見つめていた周吾が突然何かに気付いたように言う。
「あ、やばい。始まった」
「え?」
それはあまりにも突然のことだった。
漆黒の夜空がぱっと明るくなった瞬間、空に白の大輪が花開いた。
その美しい無数の閃光のあとに、地を揺らすほどの轟音が響き、瑞生は思わずびくりとしてしまう。
「す、凄い」
「いや、ここだとまだほんの端しか見えてないから」
「え、嘘!」
実際周吾の言うとおりなのだろう。
続けざまに何かが弾けるような音が響いたものの、本体は木の陰に隠れているようで、黒い空がぼんやりと赤や緑に彩られるだけだった。
ただ、一発一発丁寧に打ちあがる大きな花火は十分だった。
色鮮やかな閃光と轟音に、思わず瑞生が見入っていたときだった。
突然胸のペンダントから、ぱきりと嫌な音がした。
「え……」
「どうした?」
「翡翠が、今――」
紐を慎重に引き胸元から取り出すと、なんと翡翠の玉に大きなひびが入っていた。
割れ目はぱきりぱきりと次第に大きくなり、脇から徐々に欠け落ちていく。
「やっぱり。これが願いなんだ。ホスミノヒメの――」
そのときだった。
「……なるほどな。そういうことか」
闇の中をぱっと振り返ると、そこにいたのは高柳だった。
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