45 / 70
第六章 覚悟の価値
第六章 第二幕
しおりを挟む
焦れるような足音が、どんどん部屋へと近づいて来る。
静かに、だが素早く部屋の扉が開く。哀しみを全身に湛えた父の姿が、ルティカの瞳に飛び込んできた。
「テレア……」
愛する妻の名を呟き、ガイゼルはそのまま、先程までアレツが居た場所まで駆け寄り、妻の手を強く握った。
「テレア、俺だ。遅くなってすまん」
気丈な父は、病床の母に対して、努めて優しい声をかけた。その声の奥底には、耐えきれない程の悲壮な感情が溢れ返っているのだろう。だがそれらを必死に押し殺し、愛しい妻へ、いつもの何気ない挨拶のように話しかけたのだ。
するとテレアは、ルティカの目にも分かる程にはっきりと、ガイゼルに握られた手を握り返した。そしてゆっくりと、愛する夫の方へと顔を向ける。
ルティカは母親の顔が見たくて、急いでベッドの下を潜り、父親の膝の上に乗り込んだ。
母は薄目を開け、穏やかに父を見つめていた。玉の様な汗が、彼女の額を伝い、枕へと沈んでいく。
テレアは、弱々しくその口元を開き、微かに声を漏らした。
「……あなた」
ガイゼルとルティカは、一斉にテレアの口元へ耳を傾ける。
「ああ、テレア、なんだい?」
「……おかえり、なさい」
「ただいま」
今まで何百回と繰り返し見て来た、普段と変わらない当り前の会話。それが、死の淵においやられたこの間際に、母の唇から零れ落ちた時、ルティカは二人の間に、娘の自分ですら入り込めない深い深い絆を感じた。
「……今日は」
なら、次の言葉は決まっている。
「……勝ったんですか?」
レースがあった日は必ず、母はその日のレースの様子を父に聞くのだ。
ガイゼルの瞳から、堪え切れずに零れ落ちた涙が、ルティカの手に落ちる。父親の顔を見上げるルティカであったが、その瞳は涙で濡れているものの、その顔はいつもと変わらない、妻に語りかける時の笑顔に満ちていた。
「ああ、勝ったよ……」
そう呟くガイゼルの声を聞き、テレアは幸せそうな顔をして、にこりと微笑んだ。
「……そう、やった、わね」
その呼吸が、徐々に浅くなっていく。
幸せそうに笑うテレアの瞳がゆるやかに閉じていき、開いていた口元もゆっくりと結ばれていってしまう。
「お母さん! お母さん!」
穏やかに闇へと沈んで行く母親に、ルティカは必死で声をかけ続けた。
だが、ルティカの願いも空しく、医者は母親の首元に指を当て、自身の首を力無く横に振った。
ジラザは周囲を憚らず号泣し、アレツは耐えられなかったのだろうか、いつの間にか部屋から消えていた。
ガイゼルは、自身が握っていたテレアの手を、膝元のルティカに握らせてくれた。
「覚えておくんだ……」
父の声が、頭上から降って来る。
「母さんの、温かさを……」
声と共に、数滴の雨が降って来る。
ルティカは自分の手の中にある、痩せ細った母親の手から感じる、未だ微かに残った温もりを、必死に心に刻みつけた。
厩舎の外から、テレアの死を悼んでか、アルバスの悲しげな声音が一つ響いた。
死者を送る灯火のようなその声音は、遠く遠く、秋空の遥か向こうにまでも響き、そしていつしか、虚空に吸い込まれる様に消えていった。
***
フレイク杯の前夜。
厩舎の奥、柔らかな藁が敷き詰められた一室が、バラクアの寝床である。
「ねぇ、バラクア」
バラクアが眠りにつこうと足を収めた時、不意に入口から声がした。声の方へ振り向くと、そこにはパジャマ姿のルティカが立っていた。
静かに、だが素早く部屋の扉が開く。哀しみを全身に湛えた父の姿が、ルティカの瞳に飛び込んできた。
「テレア……」
愛する妻の名を呟き、ガイゼルはそのまま、先程までアレツが居た場所まで駆け寄り、妻の手を強く握った。
「テレア、俺だ。遅くなってすまん」
気丈な父は、病床の母に対して、努めて優しい声をかけた。その声の奥底には、耐えきれない程の悲壮な感情が溢れ返っているのだろう。だがそれらを必死に押し殺し、愛しい妻へ、いつもの何気ない挨拶のように話しかけたのだ。
するとテレアは、ルティカの目にも分かる程にはっきりと、ガイゼルに握られた手を握り返した。そしてゆっくりと、愛する夫の方へと顔を向ける。
ルティカは母親の顔が見たくて、急いでベッドの下を潜り、父親の膝の上に乗り込んだ。
母は薄目を開け、穏やかに父を見つめていた。玉の様な汗が、彼女の額を伝い、枕へと沈んでいく。
テレアは、弱々しくその口元を開き、微かに声を漏らした。
「……あなた」
ガイゼルとルティカは、一斉にテレアの口元へ耳を傾ける。
「ああ、テレア、なんだい?」
「……おかえり、なさい」
「ただいま」
今まで何百回と繰り返し見て来た、普段と変わらない当り前の会話。それが、死の淵においやられたこの間際に、母の唇から零れ落ちた時、ルティカは二人の間に、娘の自分ですら入り込めない深い深い絆を感じた。
「……今日は」
なら、次の言葉は決まっている。
「……勝ったんですか?」
レースがあった日は必ず、母はその日のレースの様子を父に聞くのだ。
ガイゼルの瞳から、堪え切れずに零れ落ちた涙が、ルティカの手に落ちる。父親の顔を見上げるルティカであったが、その瞳は涙で濡れているものの、その顔はいつもと変わらない、妻に語りかける時の笑顔に満ちていた。
「ああ、勝ったよ……」
そう呟くガイゼルの声を聞き、テレアは幸せそうな顔をして、にこりと微笑んだ。
「……そう、やった、わね」
その呼吸が、徐々に浅くなっていく。
幸せそうに笑うテレアの瞳がゆるやかに閉じていき、開いていた口元もゆっくりと結ばれていってしまう。
「お母さん! お母さん!」
穏やかに闇へと沈んで行く母親に、ルティカは必死で声をかけ続けた。
だが、ルティカの願いも空しく、医者は母親の首元に指を当て、自身の首を力無く横に振った。
ジラザは周囲を憚らず号泣し、アレツは耐えられなかったのだろうか、いつの間にか部屋から消えていた。
ガイゼルは、自身が握っていたテレアの手を、膝元のルティカに握らせてくれた。
「覚えておくんだ……」
父の声が、頭上から降って来る。
「母さんの、温かさを……」
声と共に、数滴の雨が降って来る。
ルティカは自分の手の中にある、痩せ細った母親の手から感じる、未だ微かに残った温もりを、必死に心に刻みつけた。
厩舎の外から、テレアの死を悼んでか、アルバスの悲しげな声音が一つ響いた。
死者を送る灯火のようなその声音は、遠く遠く、秋空の遥か向こうにまでも響き、そしていつしか、虚空に吸い込まれる様に消えていった。
***
フレイク杯の前夜。
厩舎の奥、柔らかな藁が敷き詰められた一室が、バラクアの寝床である。
「ねぇ、バラクア」
バラクアが眠りにつこうと足を収めた時、不意に入口から声がした。声の方へ振り向くと、そこにはパジャマ姿のルティカが立っていた。
0
あなたにおすすめの小説
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる