割れないしゃぼん玉

泣村健汰

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その2

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「父さんを連れて、どこか旅行に行こう」

 口火を切ったのは純二兄だった。三葉姉も最初こそ渋ってはいたものの、すぐにその意見に肯いた。
 僕は、言葉にこそしなかったが、言わずもがなだった。
 長年小学校の教師を勤め上げた父さんが、定年を迎えて三か月。
 早急に準備や計画が進められ、埼玉の実家から少しだけ足を伸ばし、日光・鬼怒川で辺り温泉に浸かると言う、一泊二日の旅行に纏まった。旅行の計画を告げた際、鬼怒川辺りでゆっくりと温泉に浸かるのがいいなと言い出した、父さんの鶴の一声で、目的地はあっさりと決まった。
 日程が近づくにつれ、発起人の純二兄よりも、渋っていた三葉姉の方が乗り気になっていったのが面白かった。

「お前、旦那と子供はいいのかよ?」
「気にせず行って来いって言われちゃったから、気を遣い過ぎるのは逆に失礼よね」
「伸五はどうなん。大学は大丈夫か?」
「こう言う時に休めない程、サボっちゃいないよ」
「純二兄こそいいの? 会社、今忙しい時期なんでしょ?」
「ん~、ちょっと厳しかったけどな、無理矢理何とかした」
「それ大丈夫なの?」
「まぁ独り者の強みだな。もしどうにかなった時も、一人なら何とかなるだろうって思える」
「本当に困ったら、ちゃんと言ってよ? なんなら、うちの人の会社に口利きだって出来るんだから」
「心配すんなって、妹の旦那の世話になる程落ちぶれちゃいねぇよ」
「そう言うんじゃなくって」
「わぁってるって」
「伸ちゃんもね。変に遠慮なんかしないでよ? 兄弟なんだから」
「分かってるよ」

 純二兄や三葉姉が、今現在どう言う環境で生活を営んでいるのかを、僕はよく知らない。人には、遠慮をするな、困ったことがあったら頼れと散々言ってくる二人だが、僕に対して心配をかけまいとしている事は丸分かりだった。
 僕と二人は、随分と年が離れている。純二兄とは15歳、三葉姉とは13歳。それ故なのか、幼い頃は二人と喧嘩をした覚えはおろか、ちゃんと会話をした記憶すら殆ど無かった。それもその筈、僕が小学校に入学すると言う頃には、二人共とっくに家を出て独立していたからだ。
 そして、純二兄も三葉姉も口を揃えて言う。
 以前、父さんはとても厳しく、昔の父さんを知っている二人からしてみれば、今の父さんの姿は信じられない程だと。そんな父さんの元で、非常に窮屈な思いをしながら青春時代過ごした反動か二人は、進学・就職で家を出てから暫くの間は、めっきり家に寄り付かなくなった時期があった。
 末っ子の僕にだけは甘かったから。
 叱る相手が居なくなり気が抜けたから。
 父さんが丸くなった理由を、二人はそんな風に推理する。だけれども、真っ先に思い当たるだろう答えを、純二兄も三葉姉も、僕も、敢えて口に出す事はしなかった。
 父さんが変わった一番の要因。それはきっと、母さんの死だ……。
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