魔法道具発明家ジュナチ・サイダルカ

楓花

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(10)パースと追いかけっこ

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 魔法道具が生まれると、ナシノビトやマホウビト関係なく人々の生活には大きな変化が起こり、さまざまな職業が廃れた。仕事を失った人たちから不満が出た際、国が丁寧な救済をしたため大きな暴動は起きず、沈静化された。「民に寄り添わない王は、自ら処刑台に上れ」という建国者の言葉を、王族が厳守したおかげだろう。
 サイダルカに与えられた仮の身分である「運送屋」も、一時廃れかけた職業だ。住所を言えば勝手に移動する荷物や台車が魔法道具として登場したとき、運送屋はいらなくなると言われた。だが、結局はそれらのメンテナンスや細かな移動に、魔法でも魔法道具でもカバーしきれない人の力が必要だった。なので今も運送屋は健在で、体力自慢の人たちが多い職業であった。
 ひょろりとした体形のパースも、かなりの力持ちだ。その上、城に出入りの許可を得た、数少ない業者の一人でもある。彼は都市の大きな運送会社に勤め、よくさぼって街中で寝たり、観光客に声をかけることで有名だった。不真面目なのに首にされなかった理由は、ロロミアに大変気に入られていたからだった。
 納品係のロロミアは、城へ運ばれた品を厳しくチェックをする。少しでも納品物に不備があれば、以降その業者は出入り禁止になると噂があった。そのため、運送屋たちは彼女に媚を売ることで必死だ。だけど、パースはそんな同業者たちを横目に、ロロミアの話し相手として踊り出て、あっと言う間に彼女の懐へ入り込んだ。


 稽古のために納品室を出て、廊下を歩く3人。ロロミアが一方的に話す間、後ろを歩くパースは楽しげに相槌を打ち、ダントンは時折軽く返事をするだけだった。
「………、」
 ご機嫌そうなパースの後ろ姿を見て、イライラが溜まるダントンが我慢できなくなって嫌味を言う。
「あんたって城に住んでるみたいだな」
 納品室でシャンと話していたのを邪魔され、王族とゴールドリップの話題に踏み込めなかった。その恨みの気持ちが低い声に表れていた。
「はは、変なこと言いますね」
 へらりと笑いながら言うパースの後頭部を、ダントンは睨んだ。
「俺がいるとき、いつも会うだろ」
「それはダントンが来る日を、私が教えてるからだね!」
「さすがロロミアさん! グッジョブです!」
 ダントンの前を行く2人は元気よく同時に親指を立てて、顔を見合わせて笑った。
 ロロミアが大きな鉄扉の前で立ち止まる。扉には「室内訓練場」と文字が彫られていた。思いっきり動ける場所がなかったパースのために、ロロミアはいつもこの訓練場を貸し切りにしていた。彼女は魔法でどこからともなく飛んできた鍵を受け取り、扉を開ける。
「それじゃ、好きにやりな! 使い終わったらそのままにしていいからね」
 そう大きく手を振って去っていった。


 2人の稽古の始まりは、5年前だったとダントンは記憶している。ジュナチの両親とジュナチと一緒に、ダントンは城へ何度も納品物を運んだ。同業者のパースとは廊下でよくすれ違った。そのうちに、ジュナチとジュナチの両親と話し込むようになったが、ダントンだけがなんとなく気に食わず、彼と距離を取っていた。
 けれど2人きりになったある日、後ろに立っていたパースは無遠慮な攻撃を仕掛けてきた。
「ッ! 何すんだよ!?」
 パースの上段蹴りを、ダントンが素早く一歩引いて避ける。ギロリと睨めば、目の前の彼はいつもの笑顔とともに、弾む声で提案をしてきた。
「やっぱりキミって反射神経いい! ちょっと稽古しませんか?」
 格闘技を習いだしたので成果を試したいらしい。ダントンも、それなりにケンカの腕は立つほうだと自負していた。気に食わない相手をひとひねりできるという淡い期待を込めて、了承した。
 そしてその後、稽古を重ねてダントンが思うことはたったひとつ。
(格闘技初心者? ぜってーウソだ)
 パースに今まで一度も勝てたことはない。試合の後は、いつも舌打ちばかりだった。


 正方形の広い訓練場。天井は高くアーチを描き、小さな窓がついている。難易度の高い浮遊魔法でも使わない限り、訓練場の中を覗くことは誰もできない。キレイに整頓されたタイルの床、その中央にパースは立つ。ダントンは少し距離を取ってから向き合うと、
 ダンーーーッ!
 始めの合図もなく、思い切り地面を蹴って飛び出した。かなりのスピードで顔横を狙った蹴りを、パースが細い片腕でガードをした。軽く受け止められて舌打ちをしたダントンの視界がぐるりと回った。足首をぎりり、と指が食い込むほどの力で掴まれ、思い切り壁に投げ飛ばされた。ニヤリと微笑むパースの顔が見えた気がした。
 風を切る音が耳に響く中、急速に近づいてくる壁へこのままでは体当たりしてしまう。ダントンは全身に力を入れて、くるんと体を回転させ、音もなく壁に着地した。その俊敏な動きに、パースは満足そうに言う。
「いい感じですね~」
「はっ、」
 余裕綽々な態度を鼻で笑ってから、
「———っらぁ!!」
 思い切り壁を蹴って、ボールが跳ね返ったかのように勢いよくパースへ突進した。蹴りを入れる攻撃は簡単に止められたので、右拳を振り上げた。
「同じ攻撃を好まないせいで、次の一手が読みやすい。大きく振り上げる攻撃は軌道がわかりやすいからダメ。言ったでしょうに」
 パースのその言葉は前回の稽古で言われたものだったが、今の今までダントンは忘れていた。真っすぐに伸ばした拳は、パースの手のひらで軽く受け止められる。
「!」
 ダントンの前から、パースが一瞬で消えた。かがんで、隙だらけの脇腹に鋭い一発を打ち込んできた。
「うぐぇ…ッ」
 せりあがる吐き気とともに、呻く。片膝をついたダントンの近くで、パースは見下ろしながら聞いた。
「さっきの話ですけど、」
 目線を伏せていたダントンは、寒気を覚えた。なぜか、少し空気が冷たくなった気がする。
「なぜ、キミはゴールドリップを探っているんですかね?」
「———、」
 改めてその話題が出たことが意外で顔を上げると、パースから笑顔が消え、口が真一文字になっていた。出会ってから今まで見たことがない真顔に、ゾワゾワとダントンの肌が粟立った。良くないことが起こる予感がした。


 一休みしたルチアは、ベッドからゆっくりと上半身を起こした。
「まだ横になってたら?」
 傍で立っていたジュナチは言いながら、触れるか触れないかの距離まで手を伸ばした。ルチアが倒れそうになったらいつでも体を抱きとめようとしている。その優しい気遣いにルチアは気づいて微笑み、うなずく。
「ちゃんと休んだから、大丈夫よ」
「そう…」
 ベッドの端に座るルチアの横に、ジュナチも座った。
「どうして倒れたのか、理由はわかる? もしかして、環境が変わって疲れがたまってた?」
 恐る恐る聞く。体調不良の相手を連れ出してしまったことを、ジュナチは申し訳なく思っていた。
「………、」
 ルチアの返事を待っていたが、彼は黙ってうつむいたままでいる。
 倒れる直前に聞こえた誰かの声のことをルチアは思い出していた。何を言っていたのか忘れたが、凛とした女の声であったことは記憶している。
(誰かの記憶のせいで、倒れたのかしら? よくわからない…こんなぼんやりした情報を、伝えていいの?)
 ゴールドリップであることを隠し続けていたルチアは、余計な情報を外に漏らさないように、誰にも自分の内面を伝えないように生きてきた。そのため、記憶の話も黙っていようと考えがまとまりそうになった。
(でも、ジュナチなら…)
 自分を支えたいと言ってくれたジュナチなら、どんな些細なことも伝えるべきだと考え直した。彼女はサイダルカの秘密をすべてさらけ出しているのに、フェアじゃないと思い、隣にいる彼女をまっすぐに見る。
「お城を見た瞬間、知らない女性の声が聞こえたの。何を言ってたか忘れちゃったんだけど…それで、気分が悪くなったわ」
「その声ってゴールドリップの記憶かな…? そういえば、食器店でも記憶が蘇っていたよね。あのお店で働いていたゴールドリップが、お城を嫌がったとか?」
「そうかも…」
 ルチアは確信がなくて、顔を伏せた。ジュナチはその様子を見ながら「うーん」と唸って、今の状況を整理した。唇を人差し指でなぞる。
(推測しかできないもんなぁ…)
 だけど、ルチアが倒れた原因は、王都に住んでいたゴールドリップの記憶である可能性が高いことだけは確定している。なので、まずルチアを城から離したいと考えた。
「とりあえず、先に帰ったほうがいいと思う。家で休んでて?」
 立ち上がりながら、ルチアを見た。ずいぶんマシになったが、まだ彼の顔色は悪い。疲れのせいで反応が鈍いルチアは、ジュナチをぼうっと見ていた。
「私はダントンと合流してから帰るから」
 ダントンは移動用のマントを持っていなかった。なので、行きも帰りも一緒にいなければいけない。その理由を説明しながら、マントを広げた。
「マントがないと、ダントンが島に帰る手続きって大変なんだ。お城の偉い人に頼まなきゃいけなくって」
 ジュナチが「リビングにつながって」と言うと、マントの中に見慣れたリビングの景色が現れる。ソファーにはキイが仰向けになってゆったりと眠っていた。その光景を見ただけで、ルチアはほっとする。まだ数日しかいないサイダルカの家を、まるで我が家のように感じた。
「そうね、大人しくしておく…」
 言って、リビングに誘われるように立ち上がる。面倒を見てくれたジュナチへ無意識に手が動く。するりと彼女の頬を撫でた。
「傍にいてくれてありがとう、ジュナチ。1人になっちゃうのが心配だわ。気を付けてね?」
 気分が悪いのに無理に笑ってから、ルチアは去っていった。マントが元の布に戻っていく。
 彼の優しい言葉と手のあたたかさに、ジュナチは一気に頬が赤くなった。
(き、キレイな動き…、すてきだなぁ)
 自然とそんな言葉が出てきた自分に驚いた。今まで、舞台俳優にも誰にも感じたことがない感情だった。
 そんな戸惑いを感じている最中に、
≪先に帰ってろ、俺のことは待たなくていい≫
 魔法によるダントンからのささやき声が耳に飛び込んだ。驚きつつもジュナチは、声を聞き漏らすまいと集中する。
≪はっ、はっ、…くそっ! しつけぇな!≫
 息荒い声が、途切れた。ジュナチの真上から騒がしい足音が聞こえる。ダントンが宿屋の屋根を通り過ぎたついでに、魔法で声を送ったようだ。
 その後に、鳥が着地したような小さな足音が、コツンコツンコツン、と3回響いた。
「———、」
 ジュナチはすぐに窓の外を見た。前の通りを歩く人たちは誰も騒いでいない。猛スピードで走るダントンの様子は見えていないのだろう。スッと目をつぶり、ダントンの言葉を反芻して、屋根の足音も思い出した。
(合流できる場所は…)
 頭の中で計算がはじかれたように勢いよく目を開き、机に宿代を置く。
「誰もいない、国立公園の草原へ連れていって」
 ジュナチはマントを広げ、その中へ足を踏み入れた。


 ジュナチが宿屋から消えた時から、時間は少しさかのぼる。ダントンとパースは訓練場で見つめ合っていた。ダントンは異様な緊張感を覚えていた。こんな稽古は初めてだった。パースの顔つきは、厳しいままだ。
(なんで、急にマジになってんだよ…)
 痛みが引かない脇腹をさすりながら、パースを睨んだ。
(ルール違反だろ…)
 稽古には2つのルールがあった。魔法は使わない、大怪我は避ける。このルールは、主にダントンのために作られていた。
 もしもパースが本気になったなら、ダントンはすぐに大怪我を負うだろう。悔しいが、ダントンはそう確信していた。なぜなら、毎度の稽古で彼は本気になっていたが、パースはずっと余裕だった。ダントンの攻撃をするすると避け続け、加減された攻撃を仕掛け、隙をついてとどめの一発を入れるのが稽古が終わりの合図だ。
 そしてその後は、へばったダントンにダメ出しをする。効率が悪い攻撃を指摘し、どこの守りが弱いかを的確に伝える。くやしそうにダントンがうなずいている様子は、師匠と弟子の稽古のようだった。
 だけど今日は違う。いつもなら加減されていた最初の一発は、膝をつくほど体に響き、重かった。
「なぜ、キミはゴールドリップを探っているんですかね?」
 二度同じことを聞いてきたパースの問いをはぐらかし、「なんとなく聞いただけ」と返事をした瞬間、目の前に立っていた彼が音もなく近距離に来ていた。
 ドガッッ!
 顔面を蹴られる前に、両腕でガードする。あまりに強い衝撃が全身を走り、息ができなくなった。
「―――ッ!?」
 地面へ倒れそうになる。腹筋を使い、尻もちをついた状態でなんとか留まった。つう、と汗がこめかみに流れたが、ぬぐうにも腕がしびれてできない。
「…ジュナチさん以外の誰が、キミの近くにいるんですか? もう1人、別の人の匂いがしますね」
 パースは鼻がよくて、ロロミアから紅茶をもらえばいつも銘柄を当てた姿を何度か見たことがある。人の残り香まで嗅ぎ分けたことに、ダントンは驚いた。そして、
(もう1人って…)
 ジュナチの横で微笑むルチアの姿を思い出す。彼の存在は、ゴールドリップの存在は、誰にも教えられない。動揺して、ダントンは一気に全身から汗が噴き出た。パースを見る目が揺れる。
「誰に会ったか、教えてください。その人から「王とゴールドリップのつながり」を探るように言われたなら、なぜキミが選ばれたのかもネ」
「っ………、」
 強い口調で聞かれて、答えそうになる。ぎゅっと唇に力を入れた。パースはダントンが返事をするまで質問を続けるようだ。
「言うなと口止めされてますか? それなら、質問を変えましょう。キミはもしかしてその人から、ご自身の「出生」について教えてもらいましたか?」
「…?」
 一気に話が飛んで、ついていけなくなる。なぜゴールドリップから自分へ話題が移るのか、わからなかった。そして、パースの口ぶりは、ダントンが知りえない情報を掴んでいるように感じさせた。本当の両親や故郷について、ダントンはサイダルカに拾われた後もずっとずっと気にしている。
「どういう意味だ…俺の生まれの話なんて、したことねぇだろ」
「そう、見当違いでしたか」
 ダントンの言葉を無視して、パースはうなずきながら小さくつぶやく。
「あれこれ考えなくて、もういいか…」
 言って、少しだけ体を横へ傾けたときに髪がふわりと揺れるのが見えた。パースがなにか仕掛けてくると気づきながらも、体勢を整えることも間に合わず、ダントンは一瞬で後頭部を掴まれ、顔面に膝を入れられた。助走もないのに体が浮くほどの威力で、脳が大きく揺れた。血の香りが鼻に広がり、自然に涙があふれた。
「…うぁ、」
 受け身を取る暇もなく、床へ仰向けになって倒れる。
「折れるでしょうか。キミが強いなら折れないとは思うんですけども」
 瞼が重い中、冷たい声だけをなんとか拾った。
(折る…?)
 体から命が危険だと信号を受け取った脳が、強制的に休もうとしているようだ。思考がうまくまとまらず、目を開けられなくなり、体に力が入らない。暗闇の中で、だらりと床に置かれた右手に何かが乗った。
(ヤバイ…)
 パースが履いている固い靴底の感覚だと気づき、どうにか腕を動かそうとしたが、
 バキン…ッ!
 骨がつぶれる音が体に響いた。痛みとともに、ビクリと体が大きく震えた。
「———、ッイ゛!!!」
「こんなことで、情けない声を出さないで。キミは「本来」とても強いんですから」
 痛みの中でダントンはなんとか目を開いた。頭も自由に動かすことができず、天井をぼんやりと見ていた。
「改めて。キミが、ゴールドリップに関心を寄せる理由を教えてください」
 覗き込むようにダントンの視界に入ってきたパースは、口角をぐいと上げて笑顔を作ったつもりのようだが、目は鋭いままだった。いつもと全く違う空気を醸し出している彼に、適当なことを言うべきではないとわかっていた。
「本で、読んだ」
 けれども、ダントンは嘘を言って終わらせたかった。ルチアの存在を知られるほうが後悔しそうな気がして、痛みの中で必死に返事をする。
 その答えにパースは鼻で笑った。ダントンの言葉を微塵も信じていない。
「記録があるなら、見せてほしいもんですね」
 じゃり、とパースが微妙に足の位置を変えて、またも攻撃を仕掛けようとする音を拾う。ダントンの体に、ドクドクと心臓が早く脈打つ音が響く。
「———、」
 これ以上ここにいると命が危ない。重たい瞼を必死に大きく開けて、天井の窓を見る。集中力を振り絞って、心の中で「外へ、空へ」と強く願った。体がふわりと浮く感覚がきて、移動魔法が成功したことを確信した。

 サアアアァ…

 あたたかい風が頬を撫でる。パースの気配が一瞬消えて気が緩みそうになるが、まだ安心は少しもできない。出来る限り、あの男から距離を取らなければいけない。
(逃げろ、動け…)
 単純な言葉だけが頭に浮かぶ。城の壁の向こうまで浮遊魔法を使って飛んだ。だが、体力も集中力もないため、魔法が長く使えなかった。視界に入った民家の瓦屋根へ雑に飛び降りた。
「ふっ、くそ…」
 ここからは、自力で走って逃げなければならない。
 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ…!
 町中の屋根を死に物狂いで通り過ぎていたとき、宿屋を見つけた。窓から見えたジュナチへメッセージを送る。
 その宿の屋根を越え、その後も走り続けた。
「はっ、はぁっ…」
 体力には自信があり、走っても走っても疲れたことはなかった。だけど、今は傷だらけの体が重くて仕方ない。振り返る余裕はないが、後ろからパースの気配があった。こんなときでも静かすぎる足音で追ってくる。
(あいつも移動魔法を使えんのかよ)
 マホウビトでもなかなか使えない魔法を、パースも使えることに驚きながらも、ダントンは突風のように走り続けた。
 どうしてこんなにも追いかけてくるのか理由はわからなかったが、敏感な耳がパースのつぶやきを拾う。
「儀式と尋問を同時に…耐えられるかなぁ」
 その言葉の意味は、まるで理解できない。考えるよりも、ダントンは足を動かすしかなかった。
(これから、どこに行く?)
 視界の右手に、王都最大の公園が見える。緑が多く、身を隠す場所がありそうだったが、このままパースを振り切れる気がしなかった。左手にはある人通りが多いメインストリートにも身をひそめられそうな場所は多いが、やはりパースがつきまとってくるだろう。「隠れる」という選択肢はないように思った。ならば、と…前方の遠くに山がある。あそこまでなら、さすがについてこないかもしれない。
(このまま、逃げ切る気がしねぇ。どうするか…)
 行く先を迷っていると、真横からパースの声が聞こえる。
「へばってきましたね」
 同時に、シュルッと空を切る音がした。強い衝撃に体が揺れ、肋骨がメキメキと音を立てた。住宅地の屋上へダントンはめり込むように落ちる。受け身も取れず、無様に。
「ぁが…っ!」
 干されていた誰かの洗濯物が宙に舞う。せりあがってきた胃液を吐き出すと、赤色が混じっていた。


 土の手紙に『国立公園の草原で合流しよう ジュナチ』と書いて、彼女はそれを地面に落とした。
「ダントンへ届けて」
 乞い願うように言えば、しゅるりと溶けていく。
(ここなら、ダントンときっと会える)
 ジュナチは今、公園の最奥にある草原に立っていた。
 宿でダントンからのメッセージを受け取った後、ある考えを巡らせた。「ダントンを助けるなら、合流可能な場所はどこ?」と。
 天井から聞こえた足音の方向から、彼から見える景色を想像した。公園、商店街、山。この中で「広い平地」があるのは公園だけだった。ジュナチはそこを合流地点とした。自分が中央に立ち、リビングにつながるマントを広げ、走ってやってくるダントンへ「逃げ道を提供する」ことも決めた。
 なぜなら、ダントンは今「止まれない」状況だろうと推測をしている。彼が息を切らしていた上に、彼の足音のあとに妙に小さく屋根の上を通り過ぎる音が聞こえたことで、ダントンが「敵」から逃げていると仮定した。だから、誰も知られていない我が家へ連れ戻そうと考えた。
(ダントンのゴールを、私のマントの中に設定する)
 そうして今、雑草が生えているだけで見どころがない広い草原に降り立った。公園で最も深い森を超えた先にある場所なので、わざわざ訪れる人が少ない。ここならどの方向から走ってきてもマントの中に飛び込める。
 だけど、その前にジュナチがマントを操る姿や、マントの中を誰にも、ダントンを追いかける敵にも、知られないようにしたかった。このマントはサイダルカの秘密道具だ。
(…始めよう)
 これから「ある準備」をしたとしても、人がいない場所だから騒ぎにはならないだろう。そして、
(耳がいいダントンなら、私が「見えなくっても」、どこにいるかわかるよね)
 そう信じていた彼女はポーチを覗き込んで、持ち物を確認する。
(火の石、水の石、風の石…)
 それ以上、他の道具を確認する必要はなかった。ジュナチは水の石を数個取り出した。それをこねるように混ぜる。
「もっと冷たくなって、地面を凍らせてね」
 願えばそれは手のひらの中でどんどん冷えていく。冷えすぎて手がやけどをするほどに。痛みを限界まで我慢して、それを地面にたたきつけると、石が落ちた場所を中心に草原の一部が凍り、その範囲はじわじわと広がっていく。同じことをもう二度繰り返したとき、ジュナチの周り一面が凍った。そして、火の石と風の石を手のひらにできるだけ乗せて空へ投げ、
「温かい風をください」
 そう囁いだ。青空の中、熱帯地方にいるかのような熱い風がびゅうびゅうと吹いていく。ジュナチの首筋に汗が垂れる。手には水の石と風の石を携えていた。
(これでいい。あとはダントンが飛び込んでくれば…)
 彼女は「霧」を作るために、温かい空気と冷たい地面を準備した。この2つの条件に追加して、地面近くへ水分が多く含まれた風を発生させれば霧ができあがる、らしい。
(合ってる、よね…?)
 研究室に浮かぶ扉の中で、雲のマークが描かれたものを開ければ、その先は霧しかない島だった。寒さと温さを同時に感じる、特殊な気候だったのを覚えている。どうして霧ができるのか、疑問に思ったジュナチは島の気候を分析した内容を、必死に思い出していた。細かい計算もなく魔法道具で作り上げた気候の中で、霧を作ることに成功するかはわからなかった。だけど、今は自分を信じるしかない。
「………、」
 しんと静まった草原の中で、じっとしていた。少しでも足音が聞こえないか、耳を澄ます。
(何が起きてるんだろう…)
 ダントンが声を荒げたことは、過去になかった。苦しそうな声を聞いたのも初めてで、彼の無事をただ祈った。
「………、」
 ジュナチは遠くの森をまっすぐ見つめる。
 そのまなざしは強く、魔法道具が思い浮かばずにふてくされたり、道具作りで失敗を恐れて緊張する姿はない。大事な人を助けることだけに集中し、恐れやすべての感情が消え、ダントンを待っていた。
≪帰れって言ったんだけどな≫
 彼の声が耳元で聞こえた。そして、言葉が続く。
≪でも助かった、マントの用意を頼む≫
 打ち合わせもしていないのに、ジュナチが何をしようとしているのか、ダントンはすでに読めているようだ。
「了解。…ねえ、どうしたの?」
 自分の返事は聞こえていると確信してジュナチは心配になって問うが、ダントンは答える気がないようだった。
≪姿を消さないとお前に近づけないから、ッ…もう来たのかッ!≫
 焦りながら指示を出し、言葉は途切れた。その様子から、ジュナチはダントンが「敵」に追われているとはっきりとわかった。
「大丈夫、すぐに合流できるよ」
 遠くの彼に伝えるようにつぶやく。水の石と風の石を地面にばらまき、願う。
「元に戻って、霧を作って。…はやくお願い」
 すさまじい勢いで、地面から水蒸気が一気に発生した。ジュナチの願いを精霊たちが叶え、石は空気に溶けていく。彼女の周りには濃い霧がみるみる立ち上がり、広い草原が真っ白になった。
(どこにいるの?)
 ダントンの名前を叫びたかったが、どうにか我慢をしてマントを広げる。
「リビングにつながって」
 小さな声に反応したマントの中には、穏やかな太陽の光が差す部屋の中、ソファーでルチアとキイが一緒になって眠っていた。顔色がマシになった彼を見て、少し安心する。
≪お前もすぐ、俺に続け≫
 言葉が聞こえると同時に、霧の中から現れたダントンが、目にもとまらぬスピードで転がるようにマントの中に突進した。頭からたくさんの血が流れている姿がすれ違う瞬間に見える。ジュナチは、ショックを受けて固まった。
(どうして…?)
 頭の中が疑問でいっぱいになるが、ダントンの言葉に従うために体を縮こませてマントへ入ろうとした。そのとき、
「派手な目くらましですね」
 どこからともなく聞こえた声の主は、パースだとすぐに理解して、ジュナチは辺りを見渡そうとした。だけど、霧のせいで不可能だった。
「その魔法道具は初めて見ます、マントですかそれ?」
 真後ろから声が聞こえ、振り向こうとする。途端、ぞぞぞ、と背筋に悪寒が走る。緊張した体が動かなくなった。
「ジュナチさんにも「誰か」の香りがついていますね」
 深い霧の中で聞こえてくるパースの口調はいつもと変わらず、のほほんとしている。
「ボクは臭いに敏感だから、いくらでも跡を追えるのに。ジュナチさんがいると、ダントンの判断は鈍くなりますネ」
 そう呆れながら言うのを最後に、声は聞こえなくなった。
「………、」
 なぜパースがいるのか、なぜダントンは血だらけなのか、そしてなぜ体が動かせないほど緊張しているのか。ジュナチは体に力を入れようと、唇を強く噛み締めた。
(家に、帰らないと…)
 マントの中から息が切れたダントンが、
「ジュナチ…?」
 と呼びかけた。自分のほうがずっと大変な状況なのに、心配しているようだった。その声に導かれるように、ジュナチは体を何とか動かして一歩マントの中に踏み入れた。
「———!?」
 途端、目では追いつけないスピードでひとつの影が懐へ飛び込んでいった。中から男の叫び声が響く。
「いやああぁーーーーーッ!!!」
「ルチアッ!?」
 その声に反応して、ジュナチは駆けこむ。
 数分の間、公園の端は深い霧に包まれていたが、それを知る人はいなかった。



つづく…



閲覧ありがとうございます。
次回は10月7日(来月の第1金曜日)の夜に更新します。
よろしくお願いします。
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