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第一話 優しい日常

第一話 二

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 そこには少女とそう年の変わらなそうな美丈夫が佇んでいて、呆然と少女のことを見つめていた。
 青年の髪は艶やかな濡羽色で、瞳は黒曜石のように漆黒色に濡れている。目元は凛として涼やかで、通った鼻梁に薄い唇、細い顎と非常に整った顔立ちをしていた。
 だが、少女が気になったのは青年の呟きのほうだった。
「『みお』?」
 細く儚げな声が静寂に落ちる。
 恐らく名前だろうことは察しがついた。もしそれが記憶のない自分のものだとしたら、目の前の青年は自分のことを知っているということになる。
(けれど、知ってどうしようというの?)
 『みお』とだけ口にしたきり黙り込む少女に、青年は訝しむように眉根を寄せる。
「美桜……だよね?」
 少女は伏せていた長いまつ毛をふるりと震わせながら、柘榴石のような瞳で青年を見上げた。
「それは私のこと、でしょうか」
「……違うの?」
「わかりません」
 青年の硬質な声を意に介することなく、少女ははっきりと言い切った。
「『わからない』?」
「はい。私自身に関することは何もわかりません。名前も、過去も、現状も、全て」
 少女は平板な声で事実を述べていく。そこには一切の感情がなかった。
 少女の答えを聞いた青年は悲しそうな、それでいて安堵したような複雑な表情をのぞかせたが、それも一瞬のことだった。
「……そう。なら人違いだったかも」
 淡々とした表情はそのままに、しかし声には確かな落胆と諦念を滲ませて、青年は独りごちるようにそう言った。
「とてもよくあなたに似ていたから……。ごめんなさい」
「いいえ、私は特に気にしていませんから」
 青年を憐れんだわけでも同情したわけでもない、少女の本心からの言葉だった。青年は無言で頷いた。
 青年が「部屋に入っても?」と律儀にも許可を求めるので、少女はこくりと頷いて答えた。
青年が木桶の側に座るので、少女もまた向かい合わせになるように布団の上で座り直した。先ほどよりもぐっと距離が近くなり、互いの顔がよく見える。青年は少女の顔をじっと覗き込んだ。
「体調はどう?」
「体が重くて怠いですが、それだけです」
「痛みを感じるとかは?」
「いいえ、ないです」
「そう。……良かった」
 安堵の息とともに吐き出された言葉にはどこか重みがあった。それだけ状態が悪かったのかもしれない。
 それでも青年はなお心配そうに少女を気遣わしげに見遣って「少し話せる?」と切り出した。
長話は体が耐えられないだろうが、少しなら大丈夫だろう。少女は小さく頷いた。
 青年はほっと息をつくと「美桜……、いや、あなたはこの状況をどう思ってる?」と少女に問いかけた。
 少女は正直に答える。
「私自身のことはあまり気になりませんが、現状は知りたいです。そうでなければ身の振り方を決められないから」
「それは……ううん、わかった」
 何かを言いかけた青年は、しかし寸でで言葉を飲みこむと姿勢を正した。
「まずは僕が何者であるかを知ってもらった方が話を理解しやすいと思う。……僕の名前は渡良瀬紫苑。政府公認の組織である陰陽省に所属する陰陽師」
 この国には人間と妖が存在する。昔こそ妖は人間に畏れられていたが、人間社会の文明が発展するにつれて立場は逆転した。基本的には互いの領域を侵さないということになってはいるが、現在の実情は人間が妖を迫害しつつあった。確かに凶暴な妖も存在するが、多くは人間を恐れ、隠れ忍んで生きている。
 陰陽省には多数の陰陽師が所属しており、まれに人間を襲う妖を調伏したり、反対に人間に襲われる妖を助けたりといった人間と妖の間を取り持つようなことをしているのだった。
 自身にまつわる記憶はなくとも知識や常識は少女にも残っていたので、紫苑の説明もすんなりと理解できた。
「あなたを見つけたのも、そんな任務の最中だった」
 少女は紫苑が任務のために戦っていた場所から少し外れたところに倒れていたという。それも呪詛に喰い尽くされた状態で。
「解呪は僕がしたけど、それから一週間近く目を覚まさなかったから……」
 一般的に呪詛を受けたら呪詛返しをするか解呪によって呪詛を消滅させるか、いずれかの手をとることが多いが、どちらにせよ術者は命懸けだ。陰陽師間でも高度とされるその術を扱えるということは、紫苑はかなりの腕の持ち主であるのだろう。
 ここまで聞いても少女は自身がどうしてそんな事態に陥ってしまったのかにはあまり興味が湧かなかった。そんなことを知っても起きたことは変えられない。少女の気にかかっていることはこの後どうしていくかということだけだった。
「ここは僕の家で、あなたの身は今、一時的に僕預りになってる。だけどこれはあくまで緊急の、仮の措置だから、あなたにやりたいことがあるならそうしてくれて構わないってことになってる」
「やりたいこと……」
 少女は少し考えてみたが何も思い浮かぶことはなかった。それもそのはず、少女には『個』を形作るあらゆるものが欠けているのだから。
 自身のことについてあまり興味がないというのが本音だが、結局は自分のことを知らないとこの先どうしたいのかも定まらないのだった。
「……わかりません」
「だろうね」
 先ほど紫苑が飲みこんだ言葉はこれだったのだろう。彼には少女の答えが予見できていたらしく、当然とばかりに頷いた。
 しかしわからないということがわかった時点で、少女のなすべきことは決まったようなものだ。
「はい。だから私は、私のことを知らなくてはならな、……っ!」
 突然、鋭い頭痛が少女を襲った。雷に貫かれたようなあまりの痛みに、視界が白く弾ける。それは本能的に拒絶を訴えているようでもあったが、白の閃光の中に少女は確かに『記憶』を見た。
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