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第一話 優しい日常
第一話 三
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冴え冴えとした青白い月の光が満開の桜の木に降り注ぐ。春の香りをのせたやや冷たい夜風がさあっと桜の花をさらっていき、あたりは一瞬にして薄紅色の幻想的な光景に塗りかわった。
風にさらわれたのは桜の花だけではない。舞うように翻る白銀の髪が視界の端に映りこんでいた。
だからこの景色は他でもない少女自身のものだとすぐにわかった。
「あれが『夜桜』……」
桜吹雪の向こう側には数人の男女がいて、そのうちの誰かが畏怖をこめたように呟いた。
その視線の先には月光を浴びる桜の大樹。……ではなく。
私が、いた。
「『夜桜』……?」
少女の呟きに、紫苑はすっと目を細めた。
「『夜桜』? もしかして何か思い出したの?」
「頭痛と一緒に白い光が現れて……、多分、過去の光景を見ました。誰かが私を見て『夜桜』と言ったから、もしかしたら私の名前なのかもしれません」
「……やっぱり……」
俯き、陰になった紫苑の表情からは彼が何を考えているかは読み取れないが、恐らく探し人であろう『美桜』ではないという現実を突きつけられて気落ちしているのかもしれないと少女、夜桜は思った。
それにしても、名前がわかったのは良いがそれだけでは今後の身の振り方の決定打には到底ならない。
どうしたものかと夜桜が悩んでいると、いつの間にか顔を上げていた紫苑が「美桜……、あなたが、良ければなんだけど」と口を開いた。
「自分探しの間はここにいたらどう? このままあなたを放り出すのは心配だし、僕もできることは手伝うから」
まさかの申し出に夜桜は目を瞬く。
「……いいんですか?」
「ただ、ここには僕しかいないから……。あなたが嫌なら陰陽省に掛け合って別の方法を探すこともできなくはない」
紫苑はそこで口をつぐんだが、漆黒の瞳が「どうする?」と問いかけてくる。
身を置いてもらえるだけでも有難い話なのに、これ以上手間をかけさせるのは憚られる。
それに紫苑は優しい人だと、根拠もないのに信じられるのだ。
だから夜桜はほとんど迷うことなく答えを出せた。
「……ここで、お世話になってもいいですか」
「もちろん。というかその方が僕も安心できる。よろしくね」
そこで紫苑は初めて淡い淡い微笑を見せた。それに対して夜桜は……。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
不安もなければ期待もない、ただただ無機質で平板な声を返すことしかできなかった。
話が一段落したところで、夜桜の上体がぐらりと傾ぐ。咄嗟に差し出された紫苑の腕に支えられた夜桜はびくりと肩を跳ね上げた。
嫌な汗がじわりと滲み、心臓の動きが速まる。
表情のなかった夜桜の顔が僅かに強張ったのを紫苑は見逃さなかった。
「大丈夫?」
そう言いながら紫苑の腕がすっと外される。夜桜の動悸は徐々に収まってきて、ようやく「……はい、大丈夫です」と答えることができた。
「そろそろ休んだ方がいいね。また様子を見に来るから」
夜桜が横になったのを見届けると、紫苑は木桶を持って立ち上がった。そうして部屋にやってきたときと同じく、静かにこの場を去っていった。
閉じられた襖の向こうに微かな足音が消えていく。
夜桜はそっと息を吐いた。
(さっきのは……)
どうして急に体があのような反応を示したのか、夜桜自身にさえ理由はわからない。
感情がないかと思われた少女に残されていた、たったひとつの感情は……。
『恐怖』だった。
風にさらわれたのは桜の花だけではない。舞うように翻る白銀の髪が視界の端に映りこんでいた。
だからこの景色は他でもない少女自身のものだとすぐにわかった。
「あれが『夜桜』……」
桜吹雪の向こう側には数人の男女がいて、そのうちの誰かが畏怖をこめたように呟いた。
その視線の先には月光を浴びる桜の大樹。……ではなく。
私が、いた。
「『夜桜』……?」
少女の呟きに、紫苑はすっと目を細めた。
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「……やっぱり……」
俯き、陰になった紫苑の表情からは彼が何を考えているかは読み取れないが、恐らく探し人であろう『美桜』ではないという現実を突きつけられて気落ちしているのかもしれないと少女、夜桜は思った。
それにしても、名前がわかったのは良いがそれだけでは今後の身の振り方の決定打には到底ならない。
どうしたものかと夜桜が悩んでいると、いつの間にか顔を上げていた紫苑が「美桜……、あなたが、良ければなんだけど」と口を開いた。
「自分探しの間はここにいたらどう? このままあなたを放り出すのは心配だし、僕もできることは手伝うから」
まさかの申し出に夜桜は目を瞬く。
「……いいんですか?」
「ただ、ここには僕しかいないから……。あなたが嫌なら陰陽省に掛け合って別の方法を探すこともできなくはない」
紫苑はそこで口をつぐんだが、漆黒の瞳が「どうする?」と問いかけてくる。
身を置いてもらえるだけでも有難い話なのに、これ以上手間をかけさせるのは憚られる。
それに紫苑は優しい人だと、根拠もないのに信じられるのだ。
だから夜桜はほとんど迷うことなく答えを出せた。
「……ここで、お世話になってもいいですか」
「もちろん。というかその方が僕も安心できる。よろしくね」
そこで紫苑は初めて淡い淡い微笑を見せた。それに対して夜桜は……。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
不安もなければ期待もない、ただただ無機質で平板な声を返すことしかできなかった。
話が一段落したところで、夜桜の上体がぐらりと傾ぐ。咄嗟に差し出された紫苑の腕に支えられた夜桜はびくりと肩を跳ね上げた。
嫌な汗がじわりと滲み、心臓の動きが速まる。
表情のなかった夜桜の顔が僅かに強張ったのを紫苑は見逃さなかった。
「大丈夫?」
そう言いながら紫苑の腕がすっと外される。夜桜の動悸は徐々に収まってきて、ようやく「……はい、大丈夫です」と答えることができた。
「そろそろ休んだ方がいいね。また様子を見に来るから」
夜桜が横になったのを見届けると、紫苑は木桶を持って立ち上がった。そうして部屋にやってきたときと同じく、静かにこの場を去っていった。
閉じられた襖の向こうに微かな足音が消えていく。
夜桜はそっと息を吐いた。
(さっきのは……)
どうして急に体があのような反応を示したのか、夜桜自身にさえ理由はわからない。
感情がないかと思われた少女に残されていた、たったひとつの感情は……。
『恐怖』だった。
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