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第一話 優しい日常

第一話 七

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 少しだけのつもりだった休憩は楓が現れたこともあり、思いの外、長時間となってしまった。かまどに火を熾して米を炊くことを考えるとそろそろ準備を始めた方がいいだろう。
 紫苑も同じことを考えていたのか、湯飲みや小皿を盆の上にまとめると夜桜を見た。
「そろそろ昼食の支度をするけど、あなたもやる?」
「はい」
 紫苑は頷くと盆を持って室内へと上がった。夜桜もその後についていき、二人はかまどや流し台が設えられた土間に降りた。
「火の熾し方はわかる?」
 思い出はなくても知識はある。それに午前中の掃除のときと同様に、夜桜の体は動きを覚えているようだった。
 紫苑は火の番を夜桜に任せると、慣れた手つきで野菜を洗ったり切ったりしていく。包丁がまな板を打つとんとんという音が小気味良く響く。
 紫苑が作った料理を何度も食べていたので夜桜は紫苑が料理上手であることを察してはいたが、こうして実際に彼の手つきを見てみると本当に慣れたものだと思った。
「……料理、よくするんですね」
 夜桜が何気なく呟くと、紫苑は少し手を止めて「……そんなことない」と答えた。
「確かによくやってたときもあったけど、……一人になってからは手抜きだった」
 紫苑の漆黒の瞳に寂しさがちらつくが瞬きの後には消えていて、彼は再び手を動かす。
(余計なことを訊いてしまったかしら……)
 夜桜は居心地悪くなって視線をかまどの火に集中させようとしたが、紫苑の「だから……」という声にそっと視線を彼の方へ戻した。
「こうしてあなたとこの場にいられることが……少し、嬉しい」
 紫苑の瞳にはまだ寂しさの残滓が見え隠れしていたけれど、その言葉に嘘はなく、ほんのり優しい色も浮かべていた。
(本当に、優しい人……)
 『美桜』のことを一途に想い、ときどき面影を重ねることはあっても、夜桜のことをちゃんと見ようとしてくれる。
(私は、彼の優しさに報いることができる?)
 爆ぜる火の音がやけに大きく夜桜の耳に残った。

 出来上がった昼食を小ぢんまりとした居間で摂り終えるころには、午の刻を半刻ほど過ぎていた。紫苑が休みの日はこの後町へ赴き、買い出しにいくことが多いが、まだ家に食料はあり、午前中よく動いていた夜桜も疲れているだろうということで、今日のところは午後も家で過ごすことになった。
 そうはいっても家事は二人でやっていたから既にあらかた終わっている。また室内で書を読むことになるのだろうかと夜桜が小さくため息をついていると、たすき掛けをして右手に何かの道具を、左手に籠に入った花の苗を持った紫苑が庭に現れた。
 夜桜は私室から縁側へと降りて紫苑に近づいた。
「何か始めるんですか」
「花を植えようと思って」
 紫苑は地面に園芸道具を置くと、左手に持っていた花の苗を見せてくれる。
 籠の中には、眩しい黄色の花を咲かせる菜の花、鮮やかな朱色の大輪が目を引く花金鳳花、紅赤色の花弁のような萼と黒紫色の大きな花芯との対比が美しい牡丹一華が入っていた。
「わぁ……」
 花を前にすると夜桜はわかりやすく目を輝かせた。わかりやすくといってもこのささいな変化に気がつくのは恐らく紫苑だけだろう。
「あなたもやってみる?」
「はい、やってみたいです」
夜桜は声を僅かに弾ませる。紫苑は柔らかに目を細めた。
手早く準備を済ませた夜桜は庭に降りた。そこで紫苑に簡単な説明を受けてから、苗を植えていく。
掘り返してぶわりと広がる土の香りに、土の湿って柔らかい感触。植えた花からは甘く優しい香りが匂い立ち、葉の上ではくれたばかりの水の玉が春の陽光を受けてきらりときらめいた。
そのどれもが夜桜の心を落ち着かせる。
(やっぱり、記憶を失う前の私は花が好きだったのかもしれないわ)
 だって花を前にすると、こんなにも優しい気持ちになれるのだから。
「楽しそうだね」
「……わかるんですか」
 夜桜自身ですら感情の波どころかさざ波程度にしか感じられないこの揺らぎを、紫苑はしっかりと見抜いていたらしい。夜桜が上ずった声で尋ねると、紫苑はすぐに頷いた。
「うん、わかるよ。少しずつあなたは感情を知っていって、表情豊かになろうとしてる」
 恐怖に怯え、懐かしさに涙し、花を愛でる優しい心を知った。あれだけ自分に興味がなかったのに、いつの間にか自分にもいたであろう家族や友人の存在が気になり、自分がどんな過去を持っていたのか気になるようになっていた。今はまだ自分のことで手一杯だけれど、いつかは恩人である紫苑の優しさに報いたいと思う。
「あなたの笑顔も……。近いうちに見られるかもしれないね」
 それが彼の求める対価でもあるならば、すぐにとはいかなくても心からの笑みを彼に贈りたい。そのためにも……。
「私、もっとちゃんと自分に向き合おうと思います。自分を知って、記憶も取り戻して……。紫苑さんの優しさに見合うだけの笑顔を贈ることができるように」
 夜桜は俯きがちだった顔を上げて紫苑の顔を見上げる。彼は優しく微笑み、夜桜を見つめ返した。
「うん。……楽しみに、してるね」
 優しい微笑みと楽しみだという言葉とは裏腹に、紫苑の漆黒の瞳には消えない痛みと悲しみの影が揺らめいていた。
 夜桜がなぜと思う前に、紫苑はすっと顔を逸らした。
「片付けてお茶にしよう」
「あ、はい……」
 結局、夜桜は紫苑の瞳を忘れられず、かといってどうしてと問うこともできないまま、静かで、しかしどこか落ち着かないお茶の時間を過ごすのだった。
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