20 / 52
第二話 本当の居場所
第二話 八
しおりを挟む
主の名前は戸塚正博。陰陽省に所属する陰陽師で、式神使いとしてそこそこ名の知れた四〇代後半の男だった。陰陽省も一枚岩ではないため妖を式神として使役することに賛否両論あるが、戸塚は賛成派だった。彼は美しい半人半狐と噂される美桜のことを聞きつけて遠路はるばる拠点の西から美桜がいた東の方までやって来たという。そして適当な理由、美桜からすれば身に覚えのない濡れ衣とも言いがかりともいえる、をつけて、美桜を式神とするという当初の目的を果たしたのだった。
主従の契りの儀式が執り行われた、その日の夜から美桜は早くも命令を受けた。「あの妖を滅してこい」と真新しい短刀だけを投げつけられて。
相手は狼の妖だった。狼も必死で、警戒心を隠すことなく牙を剝き出しにして威嚇してくる。
(滅しろ、なんて。私にはそんなことできない……!)
戦いからは縁遠い暮らしを送ってきた半人半狐というだけのただの少女に、妖を殺すことなどできるはずもない。
狼の眼光の鋭さに美桜は怯えることしかできなかったが、狼の方はそれを隙だとみなしたらしく美桜に容赦なく飛びかかってくる。美桜ははっと我にかえって、とにかく死にたくない一心で本性の姿に戻った。運動能力と動体視力が飛躍的に向上し、すれすれのところで狼の牙を避ける。
(でも、でも。そうしないと私が殺される!)
狼の攻撃は止まない。再び覆いかかってきた狼に向かって半狂乱で「やめて!」と叫びながら、美桜はほとんど無意識のうちに右腕を振った。その手に短刀が握られていることも忘れて。
運が良かったのか、悪かったのか。
その一撃は狼の喉笛を切り裂いた。同時に美桜に生暖かい赤い雨が降り注ぐ。
「……え……?」
目いっぱい見開いた視界の先には、白い光に包まれて崩れ去る狼の姿があり、震えが収まらない自身の右手には真っ赤な血に塗れた短刀が握りこまれていた。
(わ、たしが……やったの……?)
殺すつもりなんてなかった。殺したくなかった。
ただ自分は死にたくなくて、この場で生き残るためには、殺すしかなかったのだ。
たとえ、そうだとしても……。
(私は、同族を殺した……っ!)
「いやあああああ!」
少女にとってはあまりに重すぎる罪で、惨たらしい現実でしかなかった。
白い光に囲まれながら美桜が慟哭していると、主である戸塚が歩み寄ってきた。美桜の涙で滲む視界でも、彼が場違いに上機嫌であることがうかがえる。その戸塚の態度が美桜の神経を逆なでした。
「何がっ! 何がそんなに愉しいのよっ!」
美桜がきっと睨み上げれば、次の瞬間、左の頬に熱い痛みが走った。戸塚に頬をぶたれたことに遅れて気がついた美桜は茫然自失とした。
あれだけ愉しそうに嗤っていたのに、今、美桜を見下ろす目はぞっとするほどに冷たい。
「わたしはおまえの主だ。言動には気をつけろと前にも言ったはずだが?」
「…………ごめん、なさい」
左頬を押さえ、震えながら謝る美桜を前に、戸塚はふんと鼻を鳴らしてから「まあ、今回は機嫌がいいから許すが」とにたりと嗤った。
「それにしてもよくやった。傷一つなく敵を斃すなんてな。美しい上に強いとは、これから重用してやろう」
喉元までせり上がった「嫌」という言葉を美桜は寸でのところで飲みこんだ。嫌で嫌でたまらなかったが、もし口にすればまたぶたれると予想した恐怖の方が勝った。
(ここで、死にたくなんかない。……紫苑に、会いたい……!)
彼のもとに帰って、また幸せと優しさに満ちた日常を紡ぎたい。
それだけを心の支えにして、美桜は提示されたたった一つの道へ足を踏み出した。それが想像以上の辛苦を伴う修羅の道だとは知らずに。
未の刻を報せる鐘の音で、美桜は目を覚ました。浅いとはいえ眠りについていたのにも関わらず、疲れがとれるどころか悪夢のせいでかえって疲労感が増していた。昼食の時間はとっくに過ぎ、食欲も湧かなければ作る気力もない。
(食事はもういいわ。……花に、水をあげないと)
美桜はよろけながら立ち上がって、縁側から庭に出た。眺めた庭の植物には昨日と同様、色がないように見える。陽が高く昇り、ほとんど雲がない空も鮮やかさに欠けていた。
半ばうわの空で水を撒く。
(『死にたくない』、『紫苑に会いたい』ね……)
当時の甘すぎる考えに美桜は内心で自嘲した。
(他者の命を奪っておきながら、自分だけは生きていたい? 最愛の人に向ける顔があると本気で思っていたの?)
自らの罪を忘れるなどあってはならない。自分だけがのうのうと生きるなど許されない。
(全ての罪を抱えて地獄に墜ちて裁かれる。それが私にできる唯一の贖罪なのに……)
それなのに今日という日もまた過ぎ去ろうとしている。美桜の陰鬱な気持ちなどとは全く関係なく、いっそ皮肉なまでに穏やかな時間がゆっくりと流れていった。
主従の契りの儀式が執り行われた、その日の夜から美桜は早くも命令を受けた。「あの妖を滅してこい」と真新しい短刀だけを投げつけられて。
相手は狼の妖だった。狼も必死で、警戒心を隠すことなく牙を剝き出しにして威嚇してくる。
(滅しろ、なんて。私にはそんなことできない……!)
戦いからは縁遠い暮らしを送ってきた半人半狐というだけのただの少女に、妖を殺すことなどできるはずもない。
狼の眼光の鋭さに美桜は怯えることしかできなかったが、狼の方はそれを隙だとみなしたらしく美桜に容赦なく飛びかかってくる。美桜ははっと我にかえって、とにかく死にたくない一心で本性の姿に戻った。運動能力と動体視力が飛躍的に向上し、すれすれのところで狼の牙を避ける。
(でも、でも。そうしないと私が殺される!)
狼の攻撃は止まない。再び覆いかかってきた狼に向かって半狂乱で「やめて!」と叫びながら、美桜はほとんど無意識のうちに右腕を振った。その手に短刀が握られていることも忘れて。
運が良かったのか、悪かったのか。
その一撃は狼の喉笛を切り裂いた。同時に美桜に生暖かい赤い雨が降り注ぐ。
「……え……?」
目いっぱい見開いた視界の先には、白い光に包まれて崩れ去る狼の姿があり、震えが収まらない自身の右手には真っ赤な血に塗れた短刀が握りこまれていた。
(わ、たしが……やったの……?)
殺すつもりなんてなかった。殺したくなかった。
ただ自分は死にたくなくて、この場で生き残るためには、殺すしかなかったのだ。
たとえ、そうだとしても……。
(私は、同族を殺した……っ!)
「いやあああああ!」
少女にとってはあまりに重すぎる罪で、惨たらしい現実でしかなかった。
白い光に囲まれながら美桜が慟哭していると、主である戸塚が歩み寄ってきた。美桜の涙で滲む視界でも、彼が場違いに上機嫌であることがうかがえる。その戸塚の態度が美桜の神経を逆なでした。
「何がっ! 何がそんなに愉しいのよっ!」
美桜がきっと睨み上げれば、次の瞬間、左の頬に熱い痛みが走った。戸塚に頬をぶたれたことに遅れて気がついた美桜は茫然自失とした。
あれだけ愉しそうに嗤っていたのに、今、美桜を見下ろす目はぞっとするほどに冷たい。
「わたしはおまえの主だ。言動には気をつけろと前にも言ったはずだが?」
「…………ごめん、なさい」
左頬を押さえ、震えながら謝る美桜を前に、戸塚はふんと鼻を鳴らしてから「まあ、今回は機嫌がいいから許すが」とにたりと嗤った。
「それにしてもよくやった。傷一つなく敵を斃すなんてな。美しい上に強いとは、これから重用してやろう」
喉元までせり上がった「嫌」という言葉を美桜は寸でのところで飲みこんだ。嫌で嫌でたまらなかったが、もし口にすればまたぶたれると予想した恐怖の方が勝った。
(ここで、死にたくなんかない。……紫苑に、会いたい……!)
彼のもとに帰って、また幸せと優しさに満ちた日常を紡ぎたい。
それだけを心の支えにして、美桜は提示されたたった一つの道へ足を踏み出した。それが想像以上の辛苦を伴う修羅の道だとは知らずに。
未の刻を報せる鐘の音で、美桜は目を覚ました。浅いとはいえ眠りについていたのにも関わらず、疲れがとれるどころか悪夢のせいでかえって疲労感が増していた。昼食の時間はとっくに過ぎ、食欲も湧かなければ作る気力もない。
(食事はもういいわ。……花に、水をあげないと)
美桜はよろけながら立ち上がって、縁側から庭に出た。眺めた庭の植物には昨日と同様、色がないように見える。陽が高く昇り、ほとんど雲がない空も鮮やかさに欠けていた。
半ばうわの空で水を撒く。
(『死にたくない』、『紫苑に会いたい』ね……)
当時の甘すぎる考えに美桜は内心で自嘲した。
(他者の命を奪っておきながら、自分だけは生きていたい? 最愛の人に向ける顔があると本気で思っていたの?)
自らの罪を忘れるなどあってはならない。自分だけがのうのうと生きるなど許されない。
(全ての罪を抱えて地獄に墜ちて裁かれる。それが私にできる唯一の贖罪なのに……)
それなのに今日という日もまた過ぎ去ろうとしている。美桜の陰鬱な気持ちなどとは全く関係なく、いっそ皮肉なまでに穏やかな時間がゆっくりと流れていった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる