48 / 52
第四話 過去との決別
第四話 九
しおりを挟む
思考に靄がかかった世界から完全に目覚める前に、美桜は本能的に危険な気配を察知して深く考えるよりも先に紫苑を突き飛ばしていた。
(この気配は純子だわ……!)
背後に迫る影と気配が大きくなっていく。
咄嗟の判断に一気に目が覚めたものの、気づいたときにはもう手遅れだと思った。なんとか紫苑だけは助けられそうだが、短刀が紫苑に突き刺さったままでは反撃に出ることもできず、そもそも美桜自身が避けるまでの時間もないだろう。
次の瞬間には風切り音が迫っていた。純子の鋭い爪に背を切り裂かれることを覚悟して、美桜はぎゅっと目を瞑り、身体を硬くした。
しかし、聞こえてきたのは爪が肉を抉る音でも苦痛の悲鳴でもなかった。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前……っ!」
はっとして美桜が目を開けると、後ろに倒れながらもすばやく九字を切る紫苑の姿が視界に入る。そして背後からは爪と結界のぶつかるかきんという甲高い音が響いていた。
美桜が紫苑を守ったように、紫苑もまた咄嗟の判断で美桜を守ってくれたのだ。
美桜がばっと振り返るころには、純子は目を丸くして結界を蹴って跳躍し後退していた。純子は穏やかな微笑を口元に湛えていたが、その瞳は全く笑っていなかった。
美桜が状況を理解し、ひとまず助かったと思うと同時に茂みの方から駆けつける足音があった。
「紫苑! 美桜ちゃん!」
「楓さん……!」
そういえば朧げな意識の中で楓の姿も見た気がする。確か風雅とともにこの場から離れていったはずだ。
「あの、風雅は……」
「うん? とりあえず伸して、転がしておいたよ。大丈夫、死んでないし目覚めたら自分でなんとかするでしょ」
楓はさらりと言い放つと「それより」と呆れるような目を座り込む紫苑に向けた。
「まーた無茶して。美桜ちゃんが大好きなのはわかるけど、そう安々と自分の身を犠牲にするものじゃないよ? 紫苑に何かあったら美桜ちゃんが悲しむことになるんだからね、もちろん俺も」
「楓」
結界を保ったまま、紫苑は厳しい視線を前方に向けている。その先には純子が今か今かと好機を狙って、目を爛々と輝かせていた。
「霊符はまだ使えるよね」
紫苑は純子から目を離さないまま、尋ねるというよりもほとんど断定する形で楓に言った。楓は今度こそ呆れたため息をつく。美桜にははらはらと事の成り行きを見守ることしかできなかった。
「使えるけど、今度はどんな無茶をするつもりなの?」
「短刀を抜く。霊符で痛みの緩和と傷口の治癒をして」
躊躇いなく言い切る紫苑に、楓は「あー、うん。なんとなくわかってたよ」と諦めたように笑った。側で会話を聞いていた美桜はたまらず声をあげた。
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。それにこのまま戦う方が不利になる」
「戦う、って……」
「今のままじゃ、本当の意味で美桜を救えたとは言えない。戸塚と決着をつけないと、終わらないんだ」
美桜は紫苑の張る結界越しに純子を見た。この場に姿は見えないが戸塚もどこかに隠れ潜んでいるだろう。
執拗に『夜桜』にこだわる戸塚はどんな手を使ってでも美桜を取り戻そうとするだろう。紫苑の言う通りここで決着をつけなければ、美桜はいつまでも恐怖に囚われ、逃げ惑い続けなければならないことになる。
だから紫苑の言うことはわかる。だが、美桜は僅かに俯けた頭を左右に振った。
「私は、もう十分に紫苑に救われたわ。……だから、もういいの」
「美桜……?」
この場にそぐわないと思えるほど、美桜の声は静かだった。訝しげに呟く紫苑に、美桜は顔を上げ、決意を込めた微笑みを紫苑に向ける。
「私が。私自身が、ちゃんと決着をつけるわ」
「でも」
紫苑の言いたいことはわかる気がした。
もう誰も傷つけたくない、戦いたくなんてない。
そんな美桜の本心を紫苑もわかっている。
紫苑は優しいから、これ以上傷つかないように代わりに自分が戦って美桜を守ろうとしてくれたのだろう。
「ありがとう、紫苑」
「美桜……」
紫苑の優しさには何度も救われてきた。今だってそうだ。その想いさえあれば、自分はまだ戦えると信じられた。今度は奪うためではない、守るために。
話が一区切りついたところで楓が「いいね?」と紫苑に合図を送る。紫苑は黙って頷いた。
「身上護神、病傷平癒、急々如律令」
楓は霊符を紫苑の左肩口にあてがっている。その間に紫苑は一息に短刀を引き抜いた。術が効いているおかげで出血はせず、痛みもないようだった。そのうちに傷口もふさがっていく。
血のりを振り払い、紫苑は短刀を美桜に差し出した。
「本当は止めたいけど、今回は美桜が決着をつけた方がいいと思うから。だけど、僕もただ黙って見てるつもりはない。……美桜のことは、絶対、守るから」
美桜は頷いて、短刀を受け取ると正面に向き直った。
(この気配は純子だわ……!)
背後に迫る影と気配が大きくなっていく。
咄嗟の判断に一気に目が覚めたものの、気づいたときにはもう手遅れだと思った。なんとか紫苑だけは助けられそうだが、短刀が紫苑に突き刺さったままでは反撃に出ることもできず、そもそも美桜自身が避けるまでの時間もないだろう。
次の瞬間には風切り音が迫っていた。純子の鋭い爪に背を切り裂かれることを覚悟して、美桜はぎゅっと目を瞑り、身体を硬くした。
しかし、聞こえてきたのは爪が肉を抉る音でも苦痛の悲鳴でもなかった。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前……っ!」
はっとして美桜が目を開けると、後ろに倒れながらもすばやく九字を切る紫苑の姿が視界に入る。そして背後からは爪と結界のぶつかるかきんという甲高い音が響いていた。
美桜が紫苑を守ったように、紫苑もまた咄嗟の判断で美桜を守ってくれたのだ。
美桜がばっと振り返るころには、純子は目を丸くして結界を蹴って跳躍し後退していた。純子は穏やかな微笑を口元に湛えていたが、その瞳は全く笑っていなかった。
美桜が状況を理解し、ひとまず助かったと思うと同時に茂みの方から駆けつける足音があった。
「紫苑! 美桜ちゃん!」
「楓さん……!」
そういえば朧げな意識の中で楓の姿も見た気がする。確か風雅とともにこの場から離れていったはずだ。
「あの、風雅は……」
「うん? とりあえず伸して、転がしておいたよ。大丈夫、死んでないし目覚めたら自分でなんとかするでしょ」
楓はさらりと言い放つと「それより」と呆れるような目を座り込む紫苑に向けた。
「まーた無茶して。美桜ちゃんが大好きなのはわかるけど、そう安々と自分の身を犠牲にするものじゃないよ? 紫苑に何かあったら美桜ちゃんが悲しむことになるんだからね、もちろん俺も」
「楓」
結界を保ったまま、紫苑は厳しい視線を前方に向けている。その先には純子が今か今かと好機を狙って、目を爛々と輝かせていた。
「霊符はまだ使えるよね」
紫苑は純子から目を離さないまま、尋ねるというよりもほとんど断定する形で楓に言った。楓は今度こそ呆れたため息をつく。美桜にははらはらと事の成り行きを見守ることしかできなかった。
「使えるけど、今度はどんな無茶をするつもりなの?」
「短刀を抜く。霊符で痛みの緩和と傷口の治癒をして」
躊躇いなく言い切る紫苑に、楓は「あー、うん。なんとなくわかってたよ」と諦めたように笑った。側で会話を聞いていた美桜はたまらず声をあげた。
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。それにこのまま戦う方が不利になる」
「戦う、って……」
「今のままじゃ、本当の意味で美桜を救えたとは言えない。戸塚と決着をつけないと、終わらないんだ」
美桜は紫苑の張る結界越しに純子を見た。この場に姿は見えないが戸塚もどこかに隠れ潜んでいるだろう。
執拗に『夜桜』にこだわる戸塚はどんな手を使ってでも美桜を取り戻そうとするだろう。紫苑の言う通りここで決着をつけなければ、美桜はいつまでも恐怖に囚われ、逃げ惑い続けなければならないことになる。
だから紫苑の言うことはわかる。だが、美桜は僅かに俯けた頭を左右に振った。
「私は、もう十分に紫苑に救われたわ。……だから、もういいの」
「美桜……?」
この場にそぐわないと思えるほど、美桜の声は静かだった。訝しげに呟く紫苑に、美桜は顔を上げ、決意を込めた微笑みを紫苑に向ける。
「私が。私自身が、ちゃんと決着をつけるわ」
「でも」
紫苑の言いたいことはわかる気がした。
もう誰も傷つけたくない、戦いたくなんてない。
そんな美桜の本心を紫苑もわかっている。
紫苑は優しいから、これ以上傷つかないように代わりに自分が戦って美桜を守ろうとしてくれたのだろう。
「ありがとう、紫苑」
「美桜……」
紫苑の優しさには何度も救われてきた。今だってそうだ。その想いさえあれば、自分はまだ戦えると信じられた。今度は奪うためではない、守るために。
話が一区切りついたところで楓が「いいね?」と紫苑に合図を送る。紫苑は黙って頷いた。
「身上護神、病傷平癒、急々如律令」
楓は霊符を紫苑の左肩口にあてがっている。その間に紫苑は一息に短刀を引き抜いた。術が効いているおかげで出血はせず、痛みもないようだった。そのうちに傷口もふさがっていく。
血のりを振り払い、紫苑は短刀を美桜に差し出した。
「本当は止めたいけど、今回は美桜が決着をつけた方がいいと思うから。だけど、僕もただ黙って見てるつもりはない。……美桜のことは、絶対、守るから」
美桜は頷いて、短刀を受け取ると正面に向き直った。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる