【本編完結】春待つ桜 君待つ紫苑

南 鈴紀

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第四話 過去との決別

第四話 九

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思考に靄がかかった世界から完全に目覚める前に、美桜は本能的に危険な気配を察知して深く考えるよりも先に紫苑を突き飛ばしていた。
(この気配は純子だわ……!)
背後に迫る影と気配が大きくなっていく。
咄嗟の判断に一気に目が覚めたものの、気づいたときにはもう手遅れだと思った。なんとか紫苑だけは助けられそうだが、短刀が紫苑に突き刺さったままでは反撃に出ることもできず、そもそも美桜自身が避けるまでの時間もないだろう。
次の瞬間には風切り音が迫っていた。純子の鋭い爪に背を切り裂かれることを覚悟して、美桜はぎゅっと目を瞑り、身体を硬くした。
 しかし、聞こえてきたのは爪が肉を抉る音でも苦痛の悲鳴でもなかった。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前……っ!」
 はっとして美桜が目を開けると、後ろに倒れながらもすばやく九字を切る紫苑の姿が視界に入る。そして背後からは爪と結界のぶつかるかきんという甲高い音が響いていた。
 美桜が紫苑を守ったように、紫苑もまた咄嗟の判断で美桜を守ってくれたのだ。
 美桜がばっと振り返るころには、純子は目を丸くして結界を蹴って跳躍し後退していた。純子は穏やかな微笑を口元に湛えていたが、その瞳は全く笑っていなかった。
 美桜が状況を理解し、ひとまず助かったと思うと同時に茂みの方から駆けつける足音があった。
「紫苑! 美桜ちゃん!」
「楓さん……!」
 そういえば朧げな意識の中で楓の姿も見た気がする。確か風雅とともにこの場から離れていったはずだ。
「あの、風雅は……」
「うん? とりあえず伸して、転がしておいたよ。大丈夫、死んでないし目覚めたら自分でなんとかするでしょ」
 楓はさらりと言い放つと「それより」と呆れるような目を座り込む紫苑に向けた。
「まーた無茶して。美桜ちゃんが大好きなのはわかるけど、そう安々と自分の身を犠牲にするものじゃないよ? 紫苑に何かあったら美桜ちゃんが悲しむことになるんだからね、もちろん俺も」
「楓」
 結界を保ったまま、紫苑は厳しい視線を前方に向けている。その先には純子が今か今かと好機を狙って、目を爛々と輝かせていた。
「霊符はまだ使えるよね」
 紫苑は純子から目を離さないまま、尋ねるというよりもほとんど断定する形で楓に言った。楓は今度こそ呆れたため息をつく。美桜にははらはらと事の成り行きを見守ることしかできなかった。
「使えるけど、今度はどんな無茶をするつもりなの?」
「短刀を抜く。霊符で痛みの緩和と傷口の治癒をして」
 躊躇いなく言い切る紫苑に、楓は「あー、うん。なんとなくわかってたよ」と諦めたように笑った。側で会話を聞いていた美桜はたまらず声をあげた。
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。それにこのまま戦う方が不利になる」
「戦う、って……」
「今のままじゃ、本当の意味で美桜を救えたとは言えない。戸塚と決着をつけないと、終わらないんだ」
 美桜は紫苑の張る結界越しに純子を見た。この場に姿は見えないが戸塚もどこかに隠れ潜んでいるだろう。
 執拗に『夜桜』にこだわる戸塚はどんな手を使ってでも美桜を取り戻そうとするだろう。紫苑の言う通りここで決着をつけなければ、美桜はいつまでも恐怖に囚われ、逃げ惑い続けなければならないことになる。
 だから紫苑の言うことはわかる。だが、美桜は僅かに俯けた頭を左右に振った。
「私は、もう十分に紫苑に救われたわ。……だから、もういいの」
「美桜……?」
 この場にそぐわないと思えるほど、美桜の声は静かだった。訝しげに呟く紫苑に、美桜は顔を上げ、決意を込めた微笑みを紫苑に向ける。
「私が。私自身が、ちゃんと決着をつけるわ」
「でも」
 紫苑の言いたいことはわかる気がした。
 もう誰も傷つけたくない、戦いたくなんてない。
そんな美桜の本心を紫苑もわかっている。
紫苑は優しいから、これ以上傷つかないように代わりに自分が戦って美桜を守ろうとしてくれたのだろう。
「ありがとう、紫苑」
「美桜……」
 紫苑の優しさには何度も救われてきた。今だってそうだ。その想いさえあれば、自分はまだ戦えると信じられた。今度は奪うためではない、守るために。
 話が一区切りついたところで楓が「いいね?」と紫苑に合図を送る。紫苑は黙って頷いた。
「身上護神、病傷平癒、急々如律令」
 楓は霊符を紫苑の左肩口にあてがっている。その間に紫苑は一息に短刀を引き抜いた。術が効いているおかげで出血はせず、痛みもないようだった。そのうちに傷口もふさがっていく。
 血のりを振り払い、紫苑は短刀を美桜に差し出した。
「本当は止めたいけど、今回は美桜が決着をつけた方がいいと思うから。だけど、僕もただ黙って見てるつもりはない。……美桜のことは、絶対、守るから」
 美桜は頷いて、短刀を受け取ると正面に向き直った。
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