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第一話 崩壊の雨音
第一話 六
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一方あかりは、朱咲大路を下り続けていた。
左手に広がる青柳の守護する土地がなんだか騒がしいが、今のあかりに構う余裕はない。
脚の感覚はとうに消え、重いも疲れたももはやわからない。自分の脚かも定かでなく、ただ走っているということだけが確かなことだった。
慣れ親しんだ朱咲大路は屋敷に近づけば近づくほど、見たこともない場所へと様変わりしていた。床が水浸しになるのはまだましで、入り口の木戸が半壊していたり家屋自体傾いていたりも珍しくない。
(それにしても、町民が見当たらない)
避難しているのならいいのだが。そこまで考えて、気づいてしまった。陰の国の手が最も及ばなかったのは中央から離れたところ。南の地でいうところの、朱咲家の屋敷であったこと。そして屋敷の裏手に広がるのが件の南朱湖だということに……。
当代当主のあかりの母は、屋敷に避難させた町民を守るため、そこに残っていたのだ。
最悪の想像があかりの脳裏を過った。
「朱咲、様っ! どうか、どうか、愛すべき南の地の民を、お護り、ください……っ」
あえぎあえぎ、それだけを祈る。
私の言霊に力があるというのなら、願いを聞き届けてください、と。
やっとの思いで朱咲門に到着した。
あかりの願いも空しく、門の向こうには茶色の海が広がっていた。
ほとんど放心状態で、門の敷居をまたぐ。じゃぶ、という水の重たい音がした。足首まで水に浸かる。恐ろしくなるくらい屋敷周辺にひと気はなく、音といえば雨が水面を打ち付ける音とあかりが水をかき分ける音しかなかった。
屋敷にたどりつくころには水かさがあかりの胸下まで迫っていた。水に対する恐怖心から、本能的に呼吸が浅くなる。しかし眼前の光景は、あかりにそれ以上の恐怖を与えた。
「何も……ない……」
二日前、最後にここを出たときは確かに存在した屋敷がそこにはなかった。よろよろと足を踏み出すと、何かにつまずいた。掴まるものは何もなく、泳ぐこともできないあかりは頭から水中に突っ込んだ。
(やっ……‼ 苦しいっ!)
濁った水中でもがきながら、目にしたのは水底に残された土台となる木枠だった。あかりの記憶では、ここは玄関にあたる場所だった。
「はっ……! げほ、ごほっ‼」
死に物狂いで水面に顔を出し、肺いっぱいに空気を取り込んだ。目尻に熱い雫が溜まった。
「誰か……誰か、いないの……?」
屋敷の傍まで来ても、人っ子ひとり見当たらない。
左右に慎重に目を走らせながら、あかりはゆっくり水中を進んだ。いよいよ顎まで水に沈もうかというときに南朱湖だったところにたどり着いた。
「……」
瞬間、呼吸が止まった。
湖の奥に色が見えたからだ。赤、黒、白、薄橙……。
「い、いやあああああっ‼」
偶然近くを漂っていた『それ』を見てしまった。苦悶を浮かべた表情のまま、あかりを見つめるその人は近所の駄菓子屋のおばあさんだった。通りを駆けるあかりを目にする度に、あかりの大好物の金平糖をくれた優しい兎の妖だった。
半狂乱で顔を振り上げると、地平線の彼方では人が水面を覆っていた。手前になるほど人がはけている。そこにあかりは見慣れた赤を見つけた。
「おかあ、さま……」
吸い寄せられるようにその身に手を伸ばす。途中でがくんと足が水中をかいた。驚きに目に映る光景がスローモーションのように見える。
(式神の符……⁉)
一瞬しか見えなかったが、母の側には式神用の符が浮いていた。おぼれかけながら、手探りで符を掴もうとしたが上手くいかない。次第に意識すら曖昧になっていく。
(みんな、こんなふうに苦しかったのかな……)
伸ばした右手、その袂から両親にもらったお守りが滑り出る。ぼやける視界でとらえられたのは赤い物が離れていくということだけ。
(……せっかく、帰れると思ったのに。ごめんね、結月、秋、昴……)
大事な幼なじみの名前をぼんやりと思い浮かべたところで、あかりの意識は水にとけ消えた。
左手に広がる青柳の守護する土地がなんだか騒がしいが、今のあかりに構う余裕はない。
脚の感覚はとうに消え、重いも疲れたももはやわからない。自分の脚かも定かでなく、ただ走っているということだけが確かなことだった。
慣れ親しんだ朱咲大路は屋敷に近づけば近づくほど、見たこともない場所へと様変わりしていた。床が水浸しになるのはまだましで、入り口の木戸が半壊していたり家屋自体傾いていたりも珍しくない。
(それにしても、町民が見当たらない)
避難しているのならいいのだが。そこまで考えて、気づいてしまった。陰の国の手が最も及ばなかったのは中央から離れたところ。南の地でいうところの、朱咲家の屋敷であったこと。そして屋敷の裏手に広がるのが件の南朱湖だということに……。
当代当主のあかりの母は、屋敷に避難させた町民を守るため、そこに残っていたのだ。
最悪の想像があかりの脳裏を過った。
「朱咲、様っ! どうか、どうか、愛すべき南の地の民を、お護り、ください……っ」
あえぎあえぎ、それだけを祈る。
私の言霊に力があるというのなら、願いを聞き届けてください、と。
やっとの思いで朱咲門に到着した。
あかりの願いも空しく、門の向こうには茶色の海が広がっていた。
ほとんど放心状態で、門の敷居をまたぐ。じゃぶ、という水の重たい音がした。足首まで水に浸かる。恐ろしくなるくらい屋敷周辺にひと気はなく、音といえば雨が水面を打ち付ける音とあかりが水をかき分ける音しかなかった。
屋敷にたどりつくころには水かさがあかりの胸下まで迫っていた。水に対する恐怖心から、本能的に呼吸が浅くなる。しかし眼前の光景は、あかりにそれ以上の恐怖を与えた。
「何も……ない……」
二日前、最後にここを出たときは確かに存在した屋敷がそこにはなかった。よろよろと足を踏み出すと、何かにつまずいた。掴まるものは何もなく、泳ぐこともできないあかりは頭から水中に突っ込んだ。
(やっ……‼ 苦しいっ!)
濁った水中でもがきながら、目にしたのは水底に残された土台となる木枠だった。あかりの記憶では、ここは玄関にあたる場所だった。
「はっ……! げほ、ごほっ‼」
死に物狂いで水面に顔を出し、肺いっぱいに空気を取り込んだ。目尻に熱い雫が溜まった。
「誰か……誰か、いないの……?」
屋敷の傍まで来ても、人っ子ひとり見当たらない。
左右に慎重に目を走らせながら、あかりはゆっくり水中を進んだ。いよいよ顎まで水に沈もうかというときに南朱湖だったところにたどり着いた。
「……」
瞬間、呼吸が止まった。
湖の奥に色が見えたからだ。赤、黒、白、薄橙……。
「い、いやあああああっ‼」
偶然近くを漂っていた『それ』を見てしまった。苦悶を浮かべた表情のまま、あかりを見つめるその人は近所の駄菓子屋のおばあさんだった。通りを駆けるあかりを目にする度に、あかりの大好物の金平糖をくれた優しい兎の妖だった。
半狂乱で顔を振り上げると、地平線の彼方では人が水面を覆っていた。手前になるほど人がはけている。そこにあかりは見慣れた赤を見つけた。
「おかあ、さま……」
吸い寄せられるようにその身に手を伸ばす。途中でがくんと足が水中をかいた。驚きに目に映る光景がスローモーションのように見える。
(式神の符……⁉)
一瞬しか見えなかったが、母の側には式神用の符が浮いていた。おぼれかけながら、手探りで符を掴もうとしたが上手くいかない。次第に意識すら曖昧になっていく。
(みんな、こんなふうに苦しかったのかな……)
伸ばした右手、その袂から両親にもらったお守りが滑り出る。ぼやける視界でとらえられたのは赤い物が離れていくということだけ。
(……せっかく、帰れると思ったのに。ごめんね、結月、秋、昴……)
大事な幼なじみの名前をぼんやりと思い浮かべたところで、あかりの意識は水にとけ消えた。
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