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イミテーション・ライク
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震える唇で、菜緒は私に許しを請う。
何を話しているのだろう。彼女の言葉を読み取ることができなかった。餌を求める池の鯉のようにぱくぱくと口だけが動いている。意味の乗らない音が、低くうなっているだけ。少しだけ滑稽だなと思った。私の頬に伸ばされた手のひらが、弱弱しく私を撫でる。いとおしいのもに触れるようにやさしく、丁寧に。力はほとんど入っていない。否、入らないのであろう。私の下で精一杯に手を伸ばす姿はかわいらしいなと思えた。彼女の瞳がうるんで、光り出す。証明が反射しているせいだ。光が歪んでどろりとこぼれた。彼女の頬をゆっくりと濡らす。ああ、泣いているのだとやっと気がついた。
「そんな瞳で見ないで」
奈緒の瞳には恐怖の色が浮かんでいる。怖がる必要なんてないのに。握りしめた手に力を籠める。普段の優しい瞳はもうどこにもなかった。まるで知らない人を見ているようだ。親友だったじゃない、私たち。私の好きだったひとと菜緒が付き合い始めたのを知った時だって、「よかったね」って言ってあげたし、私が落ちた第一志望の大学に難なく合格した貴女を祝福してあげたじゃない。いつだって菜緒の味方だった。それなのに、そんな顔しないで頂戴。
菜緒のライトブラウンの瞳が私を捉えて離さない。大きな黒目が特徴的だけれど、それは偽物の瞳だということを私は知っている。毎朝のように私よりも早く起きて、鏡の前で格闘していたのを知っている。菜緒は黒目の小ささを気にしていた。本当の瞳を隠すようにして薄い膜を乗せるのだ。私の前で裸眼を晒さなくなったのはいつからだっただろうか。一週間ほど使用可能だというコンタクトが、液体の中で浮遊している姿がなんだかグロテスクだったのを覚えている。コンタクトをしたことがない私には余計に理解の及ばない代物だった。人間の瞳ではありえないようなギザギザとした線が黒目を覆うように描かれているのはまるでナマコの断面のようだと思った。こんなの目に入れるなんて私には無理。何よりも、これが彼女の瞳を隠しているのだと思うと憎かった。
大きな瞳からはゆっくりと涙がこぼれている。床まで滴が辿りつくと、追いかけるようにまた流れていく。私の頬に触れたままの彼女の指がひっかくように私の頬に爪を立てた。ちくりと鋭い痛みが走る。今日は付け爪外してたんだ。可愛かったのに。丸く短い彼女の爪は子供のようで愛らしい。それを気にしているようで、出掛けるときは丁寧に付け爪をしている。爪が弱く長く伸ばすことができないのだと困ったように笑っていたのを思い出す。短いとはいえ、痛いなあ。お返しとでも言わんばかりに私も彼女に爪を立ててみる。菜緒が好きなオレンジ色に染まった指先が彼女の白い肌の中で光る。気まぐれで付けてみた薬指のパールが照明に反射した。菜緒の付け爪と同じデザインにしたんだ。キレイでしょう。
「苦しい? 痛い? 私も同じなの。でもね、菜緒。誰よりもキレイだよ」
じわりと視線が歪んだ。頬に温かな液体が流れていくのを感じて、ようやく自分が泣いていたことに気がついた。私泣けるんだ。涙の通った後がひんやりと冷たい。ぽたり、ぽたりと彼女の顔に涙が落ちて流れていく。ああ。私は彼女が苦しそうに顔を歪めているのを見て涙がでるのか。
涙を流す自分を冷静に分析している自分がいることに気がついて、思わず笑ってしまいそうになった。好きだったんだよ、菜緒。
引っ掻いていた彼女の手がゆっくりと離れていく。抵抗らしい抵抗がなくなって、菜緒が遠く離れていくような気がした。
誰よりも貴女のことを愛していた。でも、それも過去の話なの。
暴れたせいで、彼女の髪の毛はぼさぼさになってしまっている。グレーアッシュに染まった彼女の髪は自慢だったんでしょ。今は全くキレイなんかじゃない。人一倍おしゃれに気を遣ってた菜緒が今の自分の姿を見たら卒倒してしまうんじゃないだろうか。涙で化粧はほとんど落ちてしまっているけれど、唇だけは赤赤としている。私が誕生日にプレゼントしたティントリップを使ってくれているみたいだ。私が試し塗りをしたときはもっとピンクがかった赤色をしていたのに。菜緒の口元では深みのある暗い赤に変化している。菜緒だけの赤。彼女の色。実は私も同じものを買ったの。今日の私の唇は、菜緒と同じになれている?
彼女の厚ぼったい唇に口づける。菜緒はこのプレゼントの意味を理解していただろうか。まだ熱の残る身体に触れる。私を刻み込むように、何度も何度も口づけた。応えはなくとも、満足だ。首筋にうっすらと浮かび上がった赤色はまぎれもなく私がつけた赤色だけれど、この赤はあんまり好きじゃないな。菜緒は私を許さないかもしれないけれど、私は菜緒を許してあげる。
「菜緒、私の人生返してもらうね」
カラーコンタクトなんかなくたって私の瞳はライトブラウンで世界を観れるし、付け爪がなくたって私の爪はキレイに整えられて可愛いし。グレーアッシュは私のほうが似合ってる。どんなにそっくりにしたところで、菜緒は私にはなれない。私に成り代わろうなんて、そうはさせるものですか。
美しいほうが、高野菜緒。醜いのは、如月千里。今日から私が高野菜緒。当然でしょう?
鏡の中の私は、負け犬の如月千里とよく似ている。でも、どう見ても私のほうがキレイで、美しい。恋人も地位も、家族だって何もかも、高野菜緒のものなんてずるい。高野菜緒すら、私のものにならなかったのに。
「この名前で、もう一度愛してあげる。貴女のことも、私のことも」
大好きで大っ嫌いなこの名前で、私のものだった名前を呼ぶ。きっとお似合いよ、私たち。
何を話しているのだろう。彼女の言葉を読み取ることができなかった。餌を求める池の鯉のようにぱくぱくと口だけが動いている。意味の乗らない音が、低くうなっているだけ。少しだけ滑稽だなと思った。私の頬に伸ばされた手のひらが、弱弱しく私を撫でる。いとおしいのもに触れるようにやさしく、丁寧に。力はほとんど入っていない。否、入らないのであろう。私の下で精一杯に手を伸ばす姿はかわいらしいなと思えた。彼女の瞳がうるんで、光り出す。証明が反射しているせいだ。光が歪んでどろりとこぼれた。彼女の頬をゆっくりと濡らす。ああ、泣いているのだとやっと気がついた。
「そんな瞳で見ないで」
奈緒の瞳には恐怖の色が浮かんでいる。怖がる必要なんてないのに。握りしめた手に力を籠める。普段の優しい瞳はもうどこにもなかった。まるで知らない人を見ているようだ。親友だったじゃない、私たち。私の好きだったひとと菜緒が付き合い始めたのを知った時だって、「よかったね」って言ってあげたし、私が落ちた第一志望の大学に難なく合格した貴女を祝福してあげたじゃない。いつだって菜緒の味方だった。それなのに、そんな顔しないで頂戴。
菜緒のライトブラウンの瞳が私を捉えて離さない。大きな黒目が特徴的だけれど、それは偽物の瞳だということを私は知っている。毎朝のように私よりも早く起きて、鏡の前で格闘していたのを知っている。菜緒は黒目の小ささを気にしていた。本当の瞳を隠すようにして薄い膜を乗せるのだ。私の前で裸眼を晒さなくなったのはいつからだっただろうか。一週間ほど使用可能だというコンタクトが、液体の中で浮遊している姿がなんだかグロテスクだったのを覚えている。コンタクトをしたことがない私には余計に理解の及ばない代物だった。人間の瞳ではありえないようなギザギザとした線が黒目を覆うように描かれているのはまるでナマコの断面のようだと思った。こんなの目に入れるなんて私には無理。何よりも、これが彼女の瞳を隠しているのだと思うと憎かった。
大きな瞳からはゆっくりと涙がこぼれている。床まで滴が辿りつくと、追いかけるようにまた流れていく。私の頬に触れたままの彼女の指がひっかくように私の頬に爪を立てた。ちくりと鋭い痛みが走る。今日は付け爪外してたんだ。可愛かったのに。丸く短い彼女の爪は子供のようで愛らしい。それを気にしているようで、出掛けるときは丁寧に付け爪をしている。爪が弱く長く伸ばすことができないのだと困ったように笑っていたのを思い出す。短いとはいえ、痛いなあ。お返しとでも言わんばかりに私も彼女に爪を立ててみる。菜緒が好きなオレンジ色に染まった指先が彼女の白い肌の中で光る。気まぐれで付けてみた薬指のパールが照明に反射した。菜緒の付け爪と同じデザインにしたんだ。キレイでしょう。
「苦しい? 痛い? 私も同じなの。でもね、菜緒。誰よりもキレイだよ」
じわりと視線が歪んだ。頬に温かな液体が流れていくのを感じて、ようやく自分が泣いていたことに気がついた。私泣けるんだ。涙の通った後がひんやりと冷たい。ぽたり、ぽたりと彼女の顔に涙が落ちて流れていく。ああ。私は彼女が苦しそうに顔を歪めているのを見て涙がでるのか。
涙を流す自分を冷静に分析している自分がいることに気がついて、思わず笑ってしまいそうになった。好きだったんだよ、菜緒。
引っ掻いていた彼女の手がゆっくりと離れていく。抵抗らしい抵抗がなくなって、菜緒が遠く離れていくような気がした。
誰よりも貴女のことを愛していた。でも、それも過去の話なの。
暴れたせいで、彼女の髪の毛はぼさぼさになってしまっている。グレーアッシュに染まった彼女の髪は自慢だったんでしょ。今は全くキレイなんかじゃない。人一倍おしゃれに気を遣ってた菜緒が今の自分の姿を見たら卒倒してしまうんじゃないだろうか。涙で化粧はほとんど落ちてしまっているけれど、唇だけは赤赤としている。私が誕生日にプレゼントしたティントリップを使ってくれているみたいだ。私が試し塗りをしたときはもっとピンクがかった赤色をしていたのに。菜緒の口元では深みのある暗い赤に変化している。菜緒だけの赤。彼女の色。実は私も同じものを買ったの。今日の私の唇は、菜緒と同じになれている?
彼女の厚ぼったい唇に口づける。菜緒はこのプレゼントの意味を理解していただろうか。まだ熱の残る身体に触れる。私を刻み込むように、何度も何度も口づけた。応えはなくとも、満足だ。首筋にうっすらと浮かび上がった赤色はまぎれもなく私がつけた赤色だけれど、この赤はあんまり好きじゃないな。菜緒は私を許さないかもしれないけれど、私は菜緒を許してあげる。
「菜緒、私の人生返してもらうね」
カラーコンタクトなんかなくたって私の瞳はライトブラウンで世界を観れるし、付け爪がなくたって私の爪はキレイに整えられて可愛いし。グレーアッシュは私のほうが似合ってる。どんなにそっくりにしたところで、菜緒は私にはなれない。私に成り代わろうなんて、そうはさせるものですか。
美しいほうが、高野菜緒。醜いのは、如月千里。今日から私が高野菜緒。当然でしょう?
鏡の中の私は、負け犬の如月千里とよく似ている。でも、どう見ても私のほうがキレイで、美しい。恋人も地位も、家族だって何もかも、高野菜緒のものなんてずるい。高野菜緒すら、私のものにならなかったのに。
「この名前で、もう一度愛してあげる。貴女のことも、私のことも」
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