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第3章 芸術祭・準備編
第32話 準備
しおりを挟む長い黒髪で顔を被うと、アリナは通りがかった女子生徒に声を掛けた。
「……く~ろえ~さま~」
「え、この声はアリナさ――きゃあ!」
振り返ったクロエ・アシュベリー子爵令嬢は、アリナの姿を見ると悲鳴を上げた。貴族令嬢は大きな口を開けるのは恥らしく、取り乱してもお上品に口元に手を当てている。
「び、びっくりしたわ。アリナさんよね?」
恐るおそる訊ねられる。それも無理はないだろう。アリナは白装束を身にまとい、長い黒髪で顔を被っているのだから。暗がりのなか下からライトでも照らされたらホラーでも定番のお化けの出来上がりだ。
黒髪の隙間からクロエを伺うと、最初は悲鳴を上げていたものの、もうすっかり緊張が緩んでいるのかアリナの姿を上から下まで隅々と観察している。
「こんな斬新なおどかし方があったのね。これはきっと、お化け屋敷でもみんな驚いて悲鳴を上げてくれるわ」
「……クロエ様って、以外と肝が据わっているんだね」
「最初は驚いたけれど、アリナさんだと知ったら怖くなくなったわ」
「なるほど」
クロエは学園に入学してすぐ話した生徒だった。
ヴィクトルの隣の席を交換した生徒だ。あれからヴィクトルの情報を共有したり、ちょっとした雑談をしたりする関係になっている。
前を被う黒髪をどけると、手櫛で整えてカチューシャをつける。それをクロエが不思議そうな顔で見ていた。
「その赤いカチューシャなのだけれど、いつもつけているわよね? なにか、大切なものなの?」
「あ、これ? ……うーん、トレンドマークだからねぇ」
「トレンドマーク?」
「私にはなくてはならないものってこと」
「そうなのね。素敵ね」
『時戻りの少女』のヒロインのとって、この赤いカチューシャが何だったのかはわからない。ヒロインの情報は公式のキャラ設定にも詳しくは書いていなかったから。平民出身で、特別な能力を持っていることから王立学園に入学できたことと、能力ぐらいしか知らない。
(そういえば、このヒロインは学園に入学するまではどうやって暮らしてきたんだろう)
学園の入学前の一週間に、アリナはヒロインの体に転生した。だけどそれまでのヒロインの記憶はなく、家族構成はもちろんのこと、どこでどうやって過ごしてきたのかもわからない。やはり平民出身だから苦労してきたのだろうか。
(少なくとも前世の私みたいに、引きこもりってことはないよね)
「アリナさん、そういえばあの噂知っているかしら?」
「噂って?」
「この学園を中心とした社交界で、アレが流行っているらしいの。前にアリナさんから教えてもらった、推し活が」
あれは九月に入ってすぐのことだっただろうか。確かにアリナは、クロエに推し活について教えた。というのも――。
「私の婚約が決まって落ち込んでいた時に、アリナさんに教えてもらった推し活。いまもとても大切にしているのよ」
「そ、そうなんだー」
平民で、なおかつ前世日本人のアリナには貴族の結婚事情は詳しくわからないのだけれど、この世界の結婚が親が決めるらしい。
二学期が始まってからのクロエがとても落ち込んだ顔をしていたから話を聞いたところ、どうやら夏休み中に彼女の縁談が決まったそうだ。
彼女は学園に入学する前から、ヴィクトルに憧れていた。子爵令嬢の身で婚約者の座は望めないとわかっていたものの、その憧れは消せなかった。だから入学してすぐに、アリナの誘いに応じてくれたのだろう。結婚はできなくても、少しでも近くに居られるだけでよかったから。
それでもいざ婚約をが決まると、すこし未練ができたみたいだ。
ヴィクトルへの想いを消すにはどうしたらいいのか。そんなことを相談されたアリナは、推し活を薦めることにした。
推し活は遠い相手だからこそ、効果がある代物だ。前世で推し活を知る前にしでかした失敗から、アリナはそう学んでいた。
ゲーム画面にいる相手は自分のことを認識できない。だからこそ、相手に迷惑を掛けずに推すことができる。
前世のアリナも全力でヴィクトルを推していた。ヴィクトルのカラーである金色の小道具を作ったり、ヴィクトルの公式グッズはできる限り集めた。
会えなくても……いや、会おうなんて考えなくても、推しを応援する。それだけで充分に満たされる生活をしていた。
そんな経験を思い出しながら、アリナは推し活を薦めたのだ。
アリナ自身同担歓迎だったこともあり、クロエとヴィクトルの情報を交換するのをいつも楽しみにしていた。
だからヴィクトルに向ける眼差しを見ても、耐えることができた。
「アリナさん。私に推し活を教えてくれてありがとう」
「いえいえー。また聞きたいことがあったら、なんでも聞いて」
「わかったわ」
クロエはニコニコ笑いながら去って行く。
「それにしても、推し活かぁ。確かにクロエ様には教えたけど、社交界に広まるの早くない? 情報拡散能力が凄い」
ふと教室内を見渡すと、女子生徒の多くがアクセサリーを身に着けているみたいだ。その色合いを見て、アリナはうーんと唸る。
(もしかして、学園の生徒ほとんどが推し活をしていたりして)
少し気になったが、実行委員が教壇の前に立ってクラスのみんなに呼びかけたので、アリナは考えるのをやめた。
(芸術祭のお化け屋敷の方が優先優先。本番までもう二週間もないんだし)
◇
芸術祭前の一週間は授業がない。そのため授業の時間のほとんどを準備にあてることができた。
アリナのクラスはお化け屋敷で魔法を使用することにしている。危険な魔法は使えないので、教師の指導の元、当日のシミュレーションを行っていた。
お化け屋敷は迷路形式になっている。通路の幅は一人から最大三人まで一緒に入ることができる仕様だ。途中に様々な脅かしスポットがあって、アリナの出番は終盤辺りで井戸から顔を出す役だ。
暗闇の中、井戸から顔を出す長い黒髪の白装束の女。
ひゅ~どろんという奇妙な音楽と共に顔を出して、下からライトでアップされる。
まだ迷路自体は設置段階だけれど、衣装やメイク等はもうすでにプロ顔負けだろう。
シミュレーションは滞りなく終わった。魔法は主にライトアップや、人魂。それから大きな音を鳴らしたり、不気味な音を鳴らすための効果音などで使われている。
教師が確認を終えると教室から出て行ったので、その日の準備はお終いとなった。
制服に着替えて教室から出たアリナを迎えたのは、一学年上のはずのシオンだった。
「アリナさん、申し訳ありません。今日はこれから護衛をすることができなくなってしまいました」
頭を下げるシオンに、アリナは内心喜ぶ気持ちを隠しながら、神妙に頷いた。
「そうなんですね。わかりました。今日は外出する予定もありませんし、寮まではすぐですからひとりでも大丈夫ですよ。……それよりも何かあったのですか?」
「実は、クラリッサが準備中に倒れてしまいまして」
「え?」
サマーパーティ以降、クラリッサとはたまに会っていた。それもシオンとの仲を進展させるためだったのだけれど。
「いまは保健室で休んでいますし、容態も安定しています。ですが、少し心配なのでオルサ邸まで送って行きたいと思っているのです」
「そうなんですね。クラリッサ様に、お大事にとお伝えください」
「お心遣いありがとうございます。では、私はこれで……」
頭を下げながら去って行くシオンの後ろ姿を見送ると、アリナも帰路に着く。
九月に入ってからはシオンにスケージュールを根掘り葉掘り聞かれたり、どこに行くのにもついてきたがったりと面倒なことが多かったけれど、ここ数週間は落ち着いている。
(やっぱり、シオンとクラリッサの仲が良くなっている証拠だよね)
つい最近も、クラリッサからは町のケーキ屋さんで一緒に過ごしたという話を聞いたばかりだ。町のケーキ屋さんはゲームでのシオンとのデートスポットでもあるから、二人は思ったよりも距離を縮めているのかもしれない。
(これでシオンが護衛から外れてくれたら助かるけど。――そういえば保健室といえば……。まあ、あのキャラが出るとしたら芸術祭の後だから、まだ大丈夫だよね)
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