小説で読む教科書古典

加藤やま

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稚児のそら寝

稚児のそら寝 本文

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 秋口の夜半のことである。長い夜の退屈さをどうやって乗り切るかを話し合うことが、この頃の僧達の日課となっていた。
 ある日のこと、僧達は宿坊に帰ってくる時から落ち着かない様子だった。部屋の隅で固まって何かしているようだった。一方、稚児は脱走計画を立てるのに忙しく、そちらに気を回す余裕などなかった。しかし、一人がつぶやいた言葉が稚児の耳にも鋭角に入り込んできた。
「さあ、牡丹餅を作ろうか。」
 牡丹餅。餅米を餡子で包んだだけの変哲のない甘味である。なんの変哲もないが……甘味であるのだ。寺に入って早数ヶ月経っていた。粗食にも慣れてきた。少ない量でも腹は満たされるようになった。肉も食いたいと思うこともなくなった。
 しかし、甘味は別であった。家にいた頃に食べていたあらゆる甘味を思い出しては懊悩とする日もあった。あの頃は牡丹餅など目もくれなかった。しかし、長きにわたる甘味不足の影響は凄まじかった。稚児は牡丹餅という言葉を聞いただけであらゆる思考が停止するのを感じた。ただ一心に、牡丹餅が食べたい、その思いに取り憑かれてしまった。
 ただし、問題があった。稚児はこれまで同宿の僧達と馴れ合うことをしてこなかった。事実、その夜も一足先に寝たふりをして脱走計画を立てていた。そのため、牡丹餅の製作には携わっていなかった。このままだと牡丹餅を貰えないかもしれないという可能性は拭い去れなかった。しかし、ここで牡丹餅欲しさに僧達にすり寄れる程稚児の自尊心は柔軟ではなかった。稚児にできるのは、寝たふりを続けながらただ期待して待つことだけであった。

 しばらくして、手を動かす音が途切れ僧達が囁き合い始めた。内容までは聞き取れなかったが、牡丹餅が出来上がったようだった。実際、何人かの僧は早くも食べ始めていた。むしゃむしゃと咀嚼音が大きくなるにつれて、稚児の焦燥感も増していった。自分への呼びかけを一音たりとも聞き逃すまいと、全身の神経を逆立てながら寝たふりを続けた。
 その時、普段から稚児の様子を気にかけていた僧が振り向き、声をかけた。
「もしもし。目を覚ましなされ。牡丹餅を食べよう」
 稚児は無意識に体が震えた。今までの素っ気ない態度を反省し、今度からは幾分か愛想良く返事しようと心に誓った。
 いざ返事をするため起き出そうとした刹那、稚児の小さな自尊心が耳元で囁いた。ここで動き出したらいかにも待っていたようで恥ずかしくはないのか、と。この囁きは稚児の体を縛りつけた。体が硬直し、ひとかけらも動かすことができなくなってしまった。
 甘味を得るという目的の達成は至上命題であった。一方で、己の小さな自尊心を守ることも稚児にとっては非常に大きな命題の一つであった。この自尊心は厄介なものだったが、稚児がこれまで何度脱走を失敗しても心が折れずに勤め続けることができたのは、この自尊心が柱となっていたからでもあった。
 自尊心を守りながら甘味を食べるため、稚児が考え出した策は我慢の一手であった。もう一声かかるまで我慢すること。そうすることで、無理矢理僧達に起こされたように振る舞いつつ甘味を手に入れることができると考えたのであった。
 これには勝算もあった。かの気の良い僧は何度無視しても懲りずに話しかけてくるしつこさがあった。稚児の予想通り、一度無視された僧は再び振り返り声をかけようとしているところであった。甘味はもう目前である。
「もし、……」
「やい。無理に起こすのも申し訳ないだろう。もう寝入りなさっているのだから」
 そうして、もう二言三言話したかと思うと、僧は向き直して牡丹餅を食う音に混ざっていった。完全に梯子を外されてしまった。もう呼びかけてくれる僧はいない。
 このままでは牡丹餅を食うことができない。稚児は額に大粒の汗をかきながら、この予定外が何故起こったのか冷静に分析していた。あの止めた声には聞き覚えがあった。というより、この寺に来て最も聞き慣れた声であった。脱走に失敗する度に聞いていたから間違いない。宿坊は違うはずなのに、こんな時にも邪魔をするとは。

 牡丹餅を食う音が小さくなってきた。食い終わる者が出てきたのだろう。このままだと本当に食い損ねてしまう。稚児は、どうしたら食べられるのか、そればかり考えていた。それでも、打つ手は浮かばなかった。もはや、食う者の方が少なくなった。食い終わった僧達の満足そうな笑い声が神経に響く。ここまできたら背に腹はかえられぬ。
 どうしようもなくなってしまい、最初に呼びかけられてしばらく経っていが、
「はい」
 そう返事をして起き上がった。つい今まで談笑していた僧達の声が止んだ。皆手ぶらでこちらを向いていた。例の世話役の僧だけが牡丹餅を抱えながら口を押さえて震えていた。
 誰かが口火を切った。と同時に僧達の笑い声はこの上なく響いた。一際世話役の僧が腹を抱えて笑っていた。
 稚児は顔の周りに血が上るのを感じていた。また寝たふりに戻ろうかとも考えた。しかし、ここまで恥をかいたのに何も得られずに終わるのは癪だった。僧達の笑い声が静まるのを待ってそばに寄って行った。牡丹餅はほとんど食べ終わっていた。唯一残っていたのは、あの僧が抱えているものだけだった。
「葛藤もあっただろうが、食べに来たのは成長だな。自尊心を守るよりも素直に折れる方が良いこともあるのだぞ」
 僧は牡丹餅を稚児に差し出しながら、稚児の心中を言い当てた。稚児は碌な返事もせず、牡丹餅をひったくってかぶりついた。久しぶりの甘味は骨身に沁みた。
 こんな味を味わえるなら僧の言う通りにするのも悪くはないかもしれない。そう思いながらも、僧達にはそっぽを向きながら次の脱走計画を立てていた。
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