たとえ私がいなくても

葉方萌生

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悲しみはここに置いて

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***



 辛かったし、苦しかったよな。
 夫の口から紡がれる言葉に、美智子はこれまでピンと張り詰めていた糸がするりと解けていくような感覚がした。

 そうだ、私は苦しかったんだわ……。
 突然末期がんだと宣告されて、命の期限まで伝えられて。
 頭では「そっか」と他人事みたいに納得していたけれど、本当はずっと辛かった。
 家事をストライキしてみんなに家事を覚えさせようとしたのも、辛い気持ちを紛らわせるための防衛本能が働いたのかもしれない。
 でも、もういいんだ。
 私は辛いって素直に口にしていいし、家事だってみんなに任せてしまえばいい。
 だってみんな、こんなにも立派に家事を覚えてくれたし、自分のことを想って泣いてくれているんだもの。
 私の人生、まだまだ捨てたもんじゃなかった。
 
 美智子はすっと胸に手を当てて、残された命をどう使い尽くそうかと考えた。それは、悲しみの中にそっと生まれた灯火のように温かで、幸せな想像だった。




***




「お母さんが好きだったアーティストが新曲出したんだって。ほら、聴いてみて」

 あれから八ヶ月の時が流れた。愛梨はよく晴れた日曜日の午後、母親の美智子が眠るお墓を訪れていた。枯れかけた花を新しいものに換え、墓跡に水をかける。昔ながらのポータブルプレーヤーをセットして、美智子がストライキ中に自室で爆音で流していたアーティストの曲をかけた。
 美智子が好きなのはてっきりバラード曲かと思っていたのに、流れてくるアーティストの曲は、ポップで明るい希望のある歌詞が特徴的だった。
 お母さん、一人でこんなの聴いてたんだ。
 思い返すとおかしくなって、愛梨は誰もいないお墓でくすくすと笑う。
 美智子はあれから、半年の間、命を燃やし続けた。
 特別なことは何もせず、家族みんなで行ける範囲で旅行に行ったり、美味しいご飯を食べたり、日常の延長で家族四人の時間を楽しんだ。徹が作った渾身の豚の角煮は、硬すぎて美智子には不評だったけれど。どれも幸せな家族の思い出に溢れていて、愛梨はこの半年間が、人生で一番楽しかったと思えている。

「お父さんたちも後で来るって。今日はお父さん特製のオムライスなんけど、きっとお母さんのオムライスの方が美味しいよ。あれは私が世界で一番好きな料理だから。あ、でもこの話は内緒ね」

 しばらくしゃがみこんで美智子と話し込んだ後、愛梨は徐に立ち上がり、お墓を後にした。美智子が好きだったアーティストの曲が、ずっと耳の奥で反響していた。

 “変わらない日常 変わっていく日常
 いつだってそこにあるのは
 大切な人の笑顔だから
 今日も前だけ向いて 悲しみはここに置いてこう“



【終わり】
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