選ばれなくてよかったと、今は思います

たくわん

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雨が降り出したのは、夜の八時を過ぎた頃だった。

緊急の照会案件が午後遅くに舞い込んで、翌朝の回答期限に間に合わせるため、セシルは一人で残って作業を続けていた。
渉外部の室内はもう消灯されていて、机の上のランプだけが灯っている。

廊下の向こう、長官室の窓には今夜も明かりがついていた。
いつからかそれが当たり前になっていた。
エドワードは着任してから、自分が最後に帰る日が多かった。


作業を終えて書類を綴じ終えたのは、夜の十時を過ぎていた。

上着を手に取り、廊下に出ると、建物の外から雨音が聞こえてきた。
玄関ホールまで下りて、扉を少し開けると、想定以上の雨だった。
傘を持っていなかった。

外の空気が湿って冷たかった。
しばらくこうして待つしかないかと思っていたとき、後ろから足音がした。

振り返ると、エドワードが上着を着ながら階段を下りてくるところだった。

「残業か」
「はい。緊急案件がありまして」
「傘は」
「持っていませんでした」

エドワードは外を見た。
それからしばらく黙っていた。

セシルも黙っていた。
気まずい沈黙ではなく、ただ静かな時間だった。

エドワードが踵を返して、少し歩いた。
傘立ての横の棚を開けて、中から傘を一本取り出した。

黒い、折りたためないまっすぐな傘だった。

「返却は明日でいい」

それだけ言って、傘を差し出した。

セシルは一瞬だけ戸惑って、それから受け取った。

「ありがとうございます」
「……ああ」

エドワードは自分の傘を開いて、玄関の外へ出た。
雨の中を、足音もなく歩いていく。

セシルは借りた傘を開きながら、その背中を見送った。


翌朝、セシルはいつもより少し早く出勤した。

傘を白いハンカチで包んで、長官室の扉をノックした。

「入れ」
「昨夜はありがとうございました」

エドワードは書類から顔を上げた。

「洗って返そうかと思いましたが、濡れただけでしたので、このまま」
「構わない」

傘を受け取ったエドワードは、ハンカチを見た。
ほんの少し、目が止まった。

「……余計な手間をかけた」
「いいえ」

セシルは頭を下げて、扉に向かった。

「ロウエル職員」

名前を呼ばれて、振り返った。

エドワードはすでに書類に視線を戻していた。

「昨夜の緊急案件、朝一番で確認した。よくまとまっていた」

セシルは「ありがとうございます」と答えて、扉を閉めた。


渉外部に戻ると、リンがいつものように声をかけてきた。

「なんか今日、顔色いいね」

セシルは首をかしげた。

「そうですか」
「うん。なんか、ちょっと柔らかい感じ」

セシルは自分の頬に触れた。
特に何かを感じているつもりはなかった。

ただ、書類の束を手に取りながら、昨夜の雨音と、黒い傘と、「返却は明日でいい」という短い言葉が、頭の隅でもう一度鳴った。

窓の外には、昨夜の雨が上がって、朝の空が広がっていた。
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