もう戻りません。~偽聖女の烙印を押された私と、不器用な辺境伯の話

たくわん

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朝もやの中で、最初に異変に気づいたのは村長の妻だった。

 毎朝の日課で井戸に水を汲みに出た老婦人は、昨日あの追放されてきた娘に貸した小屋の前で足を止めた。そして目を丸くした。

 小屋の周囲だけ、花が咲いていた。

 辺境の痩せた土地では滅多に見られない、可憐な白い花。黄色い小花。名も知らぬ薄紫の花。まるで誰かが一晩かけて花壇を作ったかのように、小屋の周りだけが色鮮やかに彩られている。

「おじいさん、おじいさん、ちょっと来て!」

 老婦人の声に起こされた村長が、のそのそと出てきて同じように目を丸くした。やがて近くの住人たちも集まってきて、小屋の前にちょっとした人だかりができた。

 騒ぎに気づいたリーゼルが、寝ぼけまなこで扉を開けた。

「あの……何かありましたか?」

 村人たちの視線が一斉にリーゼルに向く。リーゼルはその視線に怯んで小さく身を縮めたが、村長が黙って足元を指さした。

 見下ろすと、自分の小屋の周りだけ花が咲き乱れていることに気がついた。

「まあ……」

 リーゼルは驚いて膝をつき、花に触れた。柔らかい花弁が指先をくすぐる。確かに本物の花だ。しかしなぜ、こんな荒れた土地に突然。

「あんた、何かしたのかい」

 村長が訝しげに尋ねた。

「いいえ、何も……。たまたま季節が来たのではないでしょうか」

 リーゼルは本心からそう答えた。まさか自分の力が原因だなどとは思いもしない。

 村人たちは半信半疑の顔を見合わせたが、それ以上追及する者はいなかった。辺境の暮らしは厳しく、不思議な花のひとつやふたつにかまけている暇はない。人々はそれぞれの仕事に戻っていった。


  
 リーゼルはその日から、自分にできることを探し始めた。

 居候の身で何もしないわけにはいかない。王都でのようなことはできないが、伯爵令嬢として身につけた教養は、この小さな村でも役に立った。

 まず気づいたのは、病人の多さだった。辺境には医者がおらず、怪我をしても風邪をひいても、自然に治るのを待つしかない状態だった。リーゼルは幼い頃から薬草学を学んでおり、母の残してくれた薬草事典の知識が頭に入っていた。

 村の周辺を歩き回り、使える薬草を探した。さすがに王都のように豊富ではなかったが、それでもいくつかの野草が薬になることがわかった。煎じ薬を作り、熱を出した子供に飲ませると、翌日にはけろりと回復した。腫れた足首に湿布を当て、慢性の咳に喉を潤す茶を処方した。

 子供たちには読み書きを教えた。辺境では学校がなく、自分の名前を書ける者さえ少なかった。地面に木の枝で文字を書くリーゼルの周りに、いつの間にか子供たちが集まるようになった。

「リーゼルお姉ちゃん、これなんて読むの?」
「これはね、『花』という字よ。お花の花」
「花! 花は好き!」

 子供たちの笑い声が響くと、遠巻きに見ていた大人たちの表情も少しずつ柔らかくなっていった。

 王都から追放されてきた貴族の娘。最初は厄介者を押し付けられたと思っていた村人たちは、泥に膝をつきながら薬草を摘み、汗を拭いながら子供たちに文字を教えるリーゼルの姿に、少しずつ見方を変え始めていた。


  
 辺境伯アレク・ヴァルトシュタインは、領主の館の執務室で報告書に目を通していた。

 銀色の髪を無造作に後ろに流し、鋭い碧の瞳が書類の上を走る。広い肩と引き締まった体躯は武人のそれで、机に向かうよりも剣を振るう方が似合う男だった。

「閣下、例の件ですが」

 副官のハンスが、控えめに声をかけた。五十を過ぎた歴戦の軍人で、アレクの亡き父の代から辺境伯家に仕えている忠臣である。

「例の件とは」

「村に来た女性です。リーゼル・フォン・エーデルシュタイン。伯爵家の令嬢で、王太子殿下との婚約を破棄されて辺境に追放されたとのこと」

 アレクの手が一瞬止まった。しかしすぐにペンを動かし直す。

「……関係ない。問題を起こさなければ放っておけ」

「はっ。ただ、村の者たちの話では、薬草で病人の手当てをしたり、子供に読み書きを教えたりしているようです。評判は悪くありません」

「そうか」

 興味なさそうに答えたアレクだったが、ハンスが退出した後、しばらくペンが止まっていた。

 エーデルシュタイン伯爵家。王国の名門で、確か当主は実直で知られた人物だったはずだ。その娘が偽聖女として追放された。王太子の判断にしては浅はかだと思ったが、王都の政治に口を出す気はなかった。辺境を守ることだけがアレクの仕事だ。

 数日が経った。

 ハンスが何気ない調子で報告を上げてきた。

「閣下、例の娘の小屋ですが、どうも薪が足りていないようです。あの小屋はもともと物置でしたから、暖炉も小さく……」

「……知らん」

「夜はかなり冷え込みますからな、辺境の冬は。王都育ちの娘には堪えるでしょう」

「だから何だ」

「いえ、何でもございません」

 ハンスが去った後、アレクは舌打ちをひとつして立ち上がった。


  
 翌朝、リーゼルが小屋の扉を開けると、入り口に大量の薪が積まれていた。

 整然と、しかし無造作に。まるで「置いただけだ」と言わんばかりの雑な積み方だが、薪の質は上等で、量もひと冬は持ちそうなほどだった。

「どなたが……?」

 村長に尋ねると、老人は意味ありげに微笑んだ。

「さあてね。辺境には気前のいい者もいるもんだ」

 その翌日には、暖かそうな毛布が小屋の前に置かれていた。さらに次の日には、保存の利く燻製肉と干し果物の籠。どれも「余り物」という建前で、誰が届けたかは明かされなかった。

 だが村人たちは知っていた。辺境伯閣下が夜中に自ら馬を走らせて届けさせたことを。そして当の本人は朝になると何食わぬ顔で執務室にいることを。

 古参の村人が笑った。

「閣下も相変わらず不器用でいらっしゃる」


  
 ある晴れた午後、リーゼルは村の裏手の森に薬草を摘みに出かけた。

 ここ数日で覚えた道を辿り、森の浅い場所で目当ての薬草を見つけてしゃがみ込む。籠に丁寧に薬草を入れながら、小さく鼻歌を口ずさんでいた。王都にいた頃は、こんなふうに自然の中で過ごすことなどなかった。皮肉なことに、追放されてからの方が穏やかな時間を過ごしているかもしれない。

 ふと、空気が変わった。

 鳥の声が止んだ。風が冷たくなる。本能的な恐怖が背筋を駆け上がった。

 茂みがガサリと揺れた。

 そこから現れたのは、犬ほどの大きさの黒い獣だった。赤い目が爛々と光り、牙の間から粘ついた涎が垂れている。魔瘴に侵された小型の魔物だ。

 リーゼルの足が凍りついた。悲鳴を上げることもできない。魔物が低く唸り、後ろ足に力を溜めた。飛びかかろうとしている。

 銀色の閃光が走った。

 目の前で、魔物の体が二つに断たれた。黒い靄となって散っていく魔物の残骸の向こうに、抜き身の剣を手にしたアレクが立っていた。

 一撃。たった一撃で、魔物は消えた。

 アレクが剣を鞘に収め、振り返った。その碧い瞳が鋭くリーゼルを見据える。

「一人で森に入るな」

 低い声が叱責の響きを帯びていた。

「も、申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」

 リーゼルは我に返り、慌てて頭を下げた。心臓がまだ激しく鳴っている。膝が笑っていて、立ち上がれそうにない。

 アレクはしばらく無言でリーゼルを見下ろしていた。やがて、小さく息を吐く。

「……怪我は」

 短い言葉。しかしその声の奥に、わずかだが柔らかいものが混じっていた。

 リーゼルは顔を上げた。逆光の中に立つアレクの表情は相変わらず読めなかったが、こちらに差し伸べられた手は大きくて、硬い剣胝があって、確かに温かそうだった。

「ありません。あの、助けていただいて……」

「礼はいい。次から薬草が必要なら兵をつける。勝手に森に入るな」

 リーゼルの手を掴んで引き上げると、アレクはさっさと背を向けた。しかし歩き出す速度は明らかに遅く、リーゼルがついて来られるように調整しているのだとわかった。

 森を出るまでの道中、二人の間に会話はなかった。けれどリーゼルは、この無口な辺境伯が思っていたよりもずっと優しい人なのだと、静かに確信し始めていた。


  
 その夜のことだった。

 村長から、井戸の水が涸れかけていると聞いた。

 もともと辺境の水脈は細く、ここ数年は魔瘴の影響でさらに地下水が汚染されていた。村にある唯一の共同井戸からは、濁った水がわずかに出るだけ。飲み水にするには何度も布で濾さなければならず、それでも腹を壊す者が後を絶たないという。

「この村の一番の悩みでねえ。水さえまともにあれば、暮らしはだいぶ楽になるんだが」

 村長がため息交じりに語るのを聞いて、リーゼルの胸が締めつけられた。

 日が暮れてから、リーゼルはひとりで井戸に向かった。理由は自分でもわからない。ただ、何かしなければという衝動に突き動かされていた。

 月明かりの下、石造りの井戸の縁に手を置く。冷たい石の感触。遠くで梟の声がする。

 リーゼルは目を閉じて、祈るように意識を集中した。お願い。この村の人たちに、きれいな水を。

 その瞬間、掌が熱くなった。

 まぶたの裏が金色に染まる。指先から溢れ出した光が井戸の壁を伝い、暗い底へと流れ落ちていく。大地の奥深くへ、光が染み渡っていく感覚があった。

 ごぼり、と音がした。

 井戸の底から、透き通った水が勢いよく湧き上がってきた。清浄な水が石壁を伝い、月光を映してきらきらと輝く。溢れるほどの水量。しかもそれは、どこまでも澄み切っていた。

 リーゼルは呆然と目を見開いた。自分に何が起きたのかわからない。ただ、両手がまだ淡い金色の光を放っていて、その光が少しずつ消えていくのを眺めていた。

「……何を、した」

 背後から声がして、リーゼルは弾かれたように振り返った。

 アレクが立っていた。

 月明かりに照らされた碧い瞳が、大きく見開かれていた。この無表情な男の顔に、初めて明確な感情が浮かんでいた。

 驚愕。そして、畏敬にも似た何か。

「お前は――一体何者だ」

 リーゼルは自分の両手を見つめた。光はもう消えていたが、掌にはまだかすかに温もりが残っていた。

「わかりません。私にも、何が起きたのか……」

 井戸からは、こんこんと清らかな水が湧き続けていた。その音だけが、静かな夜に響いていた。
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