もう戻りません。~偽聖女の烙印を押された私と、不器用な辺境伯の話

たくわん

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翌朝、井戸の水が湧き出したことは瞬く間に村中に広まった。

 村人たちは我先にと井戸に集まり、桶で水を汲んでは歓声を上げた。何年も濁った水しか出なかった井戸から、嘘のように澄んだ水が溢れている。子供たちは両手で水を掬って飲み、老人たちは信じられないという顔で何度も水を口に含んでは頷いた。

「甘い。水が甘い」
「こんな水、辺境に来てから一度も飲んだことがねえ」

 村長が目元を拭いていた。

 誰が何をしたのか、村人たちは薄々気づいていた。昨夜、井戸のそばで金色の光が揺れていたのを見た者がいたからだ。しかし問い詰める者はいなかった。辺境の人々は無骨だが聡い。恩を受けたなら黙って返す。それがこの土地の流儀だった。

 その日からリーゼルの元には、村人たちからの差し入れが絶えなくなった。焼きたてのパン、自家製のチーズ、繕いたての手袋。どれも「余りだから」という決まり文句と共に届けられた。

 リーゼルはそのひとつひとつに丁寧に礼を言い、胸の奥が温かくなるのを感じていた。


  
 三日後の朝、領主の館から使いが来た。

「辺境伯閣下がお呼びです」

 案内された館は、華美さとは無縁だった。王都の貴族邸とは違い、石造りの堅牢な造りで装飾は最小限。しかし隅々まで手入れが行き届いていて、住む者の実直な性格が窺えた。

 執務室に通されると、アレクが机の前に立っていた。窓から差し込む朝日を背に、銀髪が白く光る。

「座れ」

 短く言われ、リーゼルは向かいの椅子に腰を下ろした。アレクは机の引き出しから一冊の古い書物を取り出し、リーゼルの前に置いた。

 革の表紙はひび割れ、頁は黄ばんでいる。かなり古い文献だ。

「読んでみろ」

 リーゼルは恐る恐る表紙を開いた。古語で書かれているが、伯爵家で教育を受けたリーゼルには読解できた。

 そこに記されていたのは、辺境の地に古くから伝わる伝承だった。

 ――千年に一度、大地が魔瘴に蝕まれ疲弊した時、金色の光を持つ聖女が現れる。聖女は大地を癒し、水を清め、生命を蘇らせる力を持つ。その力は見せかけの光とは異なり、万物の根源に働きかける真の癒しである。

 リーゼルは顔を上げた。

「これは……」

「俺の祖父が集めた辺境の古文書だ。代々の辺境伯に伝えられてきた」

 アレクが窓の外に目を向けた。荒涼とした辺境の景色が広がっている。

「この土地は百年以上前から魔瘴に侵されている。土は痩せ、水は汚染され、作物は育たない。俺の親父も、その前の当主も、どうにもできなかった。……俺もだ」

 その声には珍しく、苦さが滲んでいた。無表情な顔の奥で、この男がどれほど辺境の民のために苦悩してきたかが伝わってきた。

「お前が井戸にしたこと。あの金色の光。あれが伝承にある力と同じなら、この地を救えるかもしれない」

 リーゼルは目を伏せた。

「……私は聖女ではありません。王都でそう断じられました。私にあの力が本当にあるのか、自分でもわからないのです」

「王都の連中が何と言おうが関係ない」

 アレクの声が一段低くなった。

「俺はこの目で見た。あの光は偽物じゃない」

 静かだが、揺るぎのない断言だった。リーゼルの胸の奥で、ユリウスに「偽聖女」と切り捨てられた夜の記憶が疼いた。あの夜、誰も信じてくれなかった。誰も自分の味方をしてくれなかった。

 それなのにこの人は、たった一度見ただけで、こんなにも真っ直ぐに信じてくれるのだ。

「強制はしない」

 アレクが付け加えた。

「お前にその気がなければ忘れてくれ。ただ、もし力を試してみたいと思うなら――俺が付き合う」

 リーゼルは古文書に目を落とした。黄ばんだ頁に描かれた、金色の光に包まれた女性の挿絵。自分とは似ても似つかない、神々しい姿。

 でも。この村の人たちの顔が浮かんだ。枯れた畑を耕し続ける老人。濁った水を飲んで腹を壊す子供たち。それでも笑って暮らそうとする、辺境の人々。

「……やらせてください」

 リーゼルは顔を上げた。

「自分の力が本物かどうかはわかりません。でも、もしこの土地のお役に立てるなら、試してみたいです」

 アレクの碧い瞳がわずかに揺れた。そして小さく、本当に小さく頷いた。


  
 その日の午後、アレクはリーゼルを村外れの農地に案内した。

 馬で三十分ほどの場所にある、最も魔瘴がひどい区画だった。かつては麦畑だったというが、今は黒ずんだ土がむき出しになり、草一本生えていない。空気さえも重く淀んでいて、息苦しさを感じるほどだった。

「ここが一番ひどい場所だ。ここを浄化できれば、他の土地にも望みが出る」

 アレクの説明を聞きながら、リーゼルは荒廃した大地を見渡した。胸が痛んだ。この土地にもかつては金色の麦が波打ち、農民たちの笑い声が響いていたのだろう。

 リーゼルはドレスの裾を気にせず地面に膝をついた。両手を黒い土の上に置く。冷たく、固く、生命の気配がまるでない土だった。

 目を閉じる。意識を集中する。井戸の時のように、祈るように。お願い、この大地に、もう一度命を。

 最初は何も起きなかった。

 焦りが生まれかけた時、掌の奥で何かが脈動した。温かい。心臓のように脈打つ熱が、指先から大地へと流れ込んでいく。

 まぶたの裏で金色の光が広がるのを感じた。

 光は両手から大地へ、大地から四方八方へと走った。黒ずんだ土が光の筋に沿って変化していく。黒が茶色に、乾いた茶色が湿り気を帯びた豊かな土の色に。腐敗した空気が浄化され、風が変わる。

 リーゼルの髪が金色の光をまとって舞い上がった。その姿はまさに古文書に描かれた聖女のそれだった。

 アレクは数歩後ろで、息を呑んで見守っていた。光が広がるたびに大地が蘇っていく様は、奇跡としか言いようがなかった。

 しかし、光は急速にリーゼルの体力を奪っていた。

 額に汗が浮かび、指先が震え始める。視界が白くなっていく。それでもリーゼルは手を離さなかった。もう少し。あと少しだけ広げれば。

 体から力が抜けた。

 意識が途切れる瞬間、倒れ込む体を大きな腕が受け止めた。アレクの腕だった。

「おい、リーゼル!」

 初めて名前を呼ばれた気がした。しかしその声は遠く、リーゼルの意識はそのまま闇に沈んでいった。


  
 温かい。

 それが最初の感覚だった。柔らかな毛布に包まれた温もりと、微かに薬草が香る空気。自分のあの小屋ではない。もっとしっかりした壁と天井の気配。

 リーゼルはゆっくりと目を開けた。

 見知らぬ天井だった。高い。石造りの天井に細かな彫刻が施されている。ベッドは広く、シーツは清潔で、毛布は上質な羊毛だった。枕元の小卓には水差しと、まだ温かそうなスープが置かれている。

 体を起こそうとして、全身の倦怠感に呻いた。指一本動かすのもだるい。力を使いすぎたのだと、ぼんやり理解した。

 ふと、傍らに気配を感じて首を巡らせた。

 ベッドのすぐ横に置かれた椅子に、アレクが座ったまま眠っていた。

 長い足を投げ出し、腕を組み、壁にもたれて目を閉じている。銀色の髪が乱れて額にかかり、いつもの鋭い表情が嘘のように穏やかだった。眉間の皺も消えている。起きている時より随分と若く見えた。

 枕元のスープに触れると、まだほんのりと温かい。作ってからそう時間が経っていないということは、何度も作り直してくれていたのだろうか。額に乗せられていたらしい布が膝の上に落ちている。

 この人が、ずっとここにいてくれたのだ。

 リーゼルの目頭が熱くなった。王都では婚約者だったユリウスでさえ、リーゼルが体調を崩した時に見舞いに来たことはなかった。いつも使用人任せで、後日「もう良くなったか」と事務的に尋ねるだけだった。

 それなのに。知り合ってまだ日の浅いこの人が、椅子に座ったまま夜を明かしてくれている。

 身じろぎしたリーゼルの気配で、アレクの目が開いた。碧い瞳が一瞬ぼやけ、すぐにリーゼルを捉えて意識が鮮明になる。

「……目が覚めたか」

 寝起きで少しだけ掠れた声。椅子から身を起こし、リーゼルの顔を覗き込む。

「あ、あの、私……」

「丸一日眠っていた。力を使いすぎだ」

 アレクの声は平坦だったが、その奥にわずかな安堵が滲んでいた。

「無理をするな。俺が許可した分だけやればいい。あんな倒れ方をされたら……」

 言葉が途切れた。アレクは小さく息を吐いて視線を逸らす。

「……困る」

 その一言に込められた感情を、リーゼルは正しく受け取った。困る。この不器用な男にとって、それは精一杯の心配の表現なのだ。

 リーゼルは思わず笑った。追放されてから初めての、心からの笑み。

「ありがとうございます、アレク様」

 名前を呼ぶと、アレクの耳の先がかすかに赤く染まった。目を合わせようとしない横顔が、妙に愛おしいと思った。

 不意に、執務室の扉の隙間からハンスが顔を覗かせているのが見えた。老副官は実に嬉しそうにニヤニヤしていて、目が合ったリーゼルに親指を立ててみせた。

 アレクが気配を察して振り返る前に、ハンスの顔は引っ込んだ。

 リーゼルはスープを口に運びながら、窓の外を見た。この部屋からは、午後に浄化した農地が遠くに見えた。黒かった土が茶色に変わった区画が、パッチワークのように広がっている。まだほんの一部。でも確かに、大地は蘇り始めていた。

 ここにいてもいいのかもしれない。

 この場所で、この人たちと一緒に。

 スープの温かさが、胃から胸へ、胸から全身へと広がっていった。


  
 同じ頃、王都では異変が起きていた。

 王城の中庭に広がる庭園。王国の象徴ともいえる美しい薔薇園は、セレーナが聖女として祝福を与えたことで、一層の美しさを誇っていたはずだった。

 その薔薇が、一夜にして枯れた。

 鮮やかな赤も、気品ある白も、花弁は茶色く萎れ、茎は黒ずんで折れ曲がっている。まるで一瞬で寿命を迎えたかのように、庭園全体が死に絶えていた。

 庭師が青ざめて報告に走り、知らせを受けたユリウスが庭園に駆けつけた時には、もう手遅れだった。

「セレーナ、これはどういうことだ」

 ユリウスの問いに、セレーナは美しい顔を僅かに強張らせた。しかしすぐに悲しげな表情を作って見せる。

「聖女の祝福にも波がございますの。しばらくすれば力は戻りますわ」

「波、だと? 神殿ではそんな話は聞いていないぞ」

「殿下、聖女の力は繊細なものですわ。あまりお疑いになると、力が弱まってしまいます」

 セレーナの翡翠の瞳が潤む。その涙を見ると、ユリウスはいつも追及をやめてしまう。今回もそうだった。舌打ちを飲み込んで踵を返す。

 しかし、ユリウスの背中を見送るセレーナの目から、涙はすでに消えていた。その代わりに浮かんでいたのは、焦りだった。

 聖女の力を演じ続けるのは、限界に近づいていた。神殿の光の術は見せかけに過ぎない。本物の加護がなければ、綻びは広がる一方だ。

 庭園の枯れた薔薇の向こうで、城壁に張り巡らされた結界の光もまた、少しずつ薄れ始めていた。
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