もう戻りません。~偽聖女の烙印を押された私と、不器用な辺境伯の話

たくわん

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それからの日々は、リーゼルにとって初めて経験する穏やかさに満ちていた。

 毎朝、小屋を出ると辺境の冷たい空気が頬を刺す。しかし空は広く、遮るもののない地平線まで見渡せる景色には、王都の華やかさとは違う清々しさがあった。

 アレクとの間に、いつの間にか決まりごとができていた。

 朝食の後、アレクが馬で迎えに来る。二人で浄化する農地に向かい、リーゼルが力を使い、アレクがその傍で見守る。ただそれだけのことなのに、リーゼルの胸はいつも少し騒がしくなった。

「今日はここまでだ」

 アレクが腕を組んで宣告する。リーゼルが力を使い始めてから、きっかり半刻。砂時計を持ち出してまで時間を計るその律儀さに、リーゼルは最初驚いた。

「でも、あの区画の端まであと少しで……」

「駄目だ」

「もう少しだけ」

「駄目だと言っている」

 有無を言わせない声。しかしその碧い瞳は怒っているのではなく、心配しているのだとわかるようになった。前に倒れた時のことを、アレクは本気で恐れているのだ。

「……わかりました」

 リーゼルが素直に手を引くと、アレクは小さく頷いて水筒を差し出す。

「飲め」

「ありがとうございます」

 水筒を受け取る時、指先がかすかに触れた。アレクの手が不自然に引っ込み、リーゼルもつい目を逸らす。そんなやり取りが繰り返されるうちに、周囲で作業をしていた農民たちは微笑ましそうに顔を見合わせるようになった。

 浄化の効果は目に見えて現れていた。

 黒く汚染されていた農地は、少しずつ豊かな茶色を取り戻していった。リーゼルが浄化した土地には、わずか数日で緑の芽が顔を出す。農民たちは信じられないという表情で芽を見つめ、そっと土に触れ、そして泣いた。

「土が柔らかい。こんなの、何十年ぶりだ」

 老農夫が膝をついて土を握りしめる姿に、リーゼルも目を潤ませた。

 村を流れる細い川も変わった。リーゼルが川の上流で浄化を行うと、濁っていた水が少しずつ澄んでいった。子供たちが川で水遊びをする光景が、何年ぶりかで村に戻った。

 緑が広がるにつれて、空気も変わった。重く淀んでいた魔瘴の気配が薄らぎ、風は軽やかになった。鳥が戻ってきた。野兎の姿も見かけるようになった。

 村人たちの顔つきが変わった。疲弊しきっていた目に光が宿り、口数が増えた。

「聖女様」

 いつの間にか、村人たちはリーゼルをそう呼ぶようになっていた。

「聖女様、今日はうちの畑も見てくださるかい」
「聖女様、子供が風邪をひいたんだが」
「聖女様、この漬物、よかったら」

 リーゼルはそう呼ばれるたびに、少し困ったように笑った。

「聖女だなんて。ただのリーゼルでいいですよ」

 しかし村人たちは首を横に振る。彼らにとってリーゼルは紛れもなく聖女だった。枯れた大地を蘇らせ、澄んだ水をもたらし、病を癒す存在。それを聖女と呼ばずに何と呼ぶのか。

 リーゼルの小屋の周りは、今や色とりどりの花に囲まれていた。最初はわずかな芽吹きだったものが、リーゼルの力が日々安定するにつれて広がり、小さな花畑のようになっていた。子供たちはそこを遊び場にし、大人たちは花を摘んで家に飾った。

 辺境に、春が来ていた。


  
 ある日の夕方、浄化を終えて村に戻る道でのことだった。

 アレクが不意に歩みを止めた。道の脇に、小さな花が咲いていた。淡い青色の、名もない野花。枯れかけていたものが息を吹き返したように、健気に花弁を開いている。

 アレクはしばらくその花を見下ろしていた。

 そしておもむろにしゃがみ込み、丁寧に茎を折らないよう指先で花を摘んだ。武骨な指に似合わない、妙に慎重な手つきだった。

 立ち上がったアレクは、数歩前を歩くリーゼルの背中を見た。夕日に照らされた金色の髪が風に揺れている。その小さな背中が、いつの間にかアレクの視界の中心に居座っていた。

「リーゼル」

「はい?」

 振り返ったリーゼルの目の前に、ぶっきらぼうに花が差し出された。

「……枯れかけていたのが咲いていた。お前のおかげだ」

 それだけ言って、アレクは顔を背けた。照れているのだと気づくのに一瞬かかった。この無愛想な辺境伯が花を摘んで渡すなど、本人にとってどれほどの覚悟が要っただろう。

 リーゼルは小さな青い花を両手で受け取った。

「……ありがとうございます。大切にします」

 花を胸元に寄せると、頬が熱くなるのがわかった。見上げたアレクの横顔は夕焼けに染まっていて、耳が赤いのか夕日のせいなのか判別がつかなかった。おそらく、両方だ。

 二人は無言のまま歩き出した。影が長く伸びて、並んで歩く二つのシルエットが夕日の中に溶けていく。

 その夜、リーゼルは小さな空き瓶に水を入れ、青い花を挿して窓辺に置いた。月明かりに照らされた花弁を見つめながら、自分の胸の鼓動がやけに速いことに気づいていた。

 でも、と思う。自分は追放された身だ。辺境伯の隣に立てるような女ではない。この気持ちを育てたら、きっとまた傷つくことになる。

 だから気づかないふりをしよう。この温かさは、ただの感謝だと自分に言い聞かせよう。

 窓辺の花が月光を浴びて、ほんのりと輝いていた。


  
 王都の王宮は、にわかに慌ただしくなっていた。

 セレーナが聖女として祝福を与えた王城の結界が、目に見えて弱体化していた。結界の光は以前の半分以下にまで落ち、城壁の一角では完全に消失している箇所さえあった。

 それに伴い、王都の周辺地域で魔物の目撃情報が相次いだ。小型の魔獣が家畜を襲い、街道に魔物が出没して商人たちが迂回を余儀なくされた。辺境ほどではないにせよ、王都近郊でこれほどの魔物被害が出るのは異例のことだった。

 宮廷会議は紛糾した。

「結界の維持は聖女の務めではなかったのか」
「セレーナ殿は本当に聖女なのか。疑問を持つ者が出始めている」

 貴族たちの追及に、ユリウスは苛立ちを隠せなかった。

「セレーナは真の聖女だ。一時的な不調に過ぎない。騒ぎ立てるな」

 しかしその言葉に以前ほどの確信はなかった。セレーナの力を初めて見た時の感動は、日を追うごとに疑念に変わりつつあった。庭園の薔薇は枯れたまま蘇らない。病の癒しを求めて神殿を訪れた民にも、セレーナは「体調が優れない」と言って対応を避けるようになっていた。

 会議の後、ユリウスは自室で一人、窓の外を眺めていた。

 ふと、リーゼルの顔が浮かんだ。夜会の場で婚約破棄を告げた時の、あの穏やかな微笑み。「どうかお幸せに」と言って去っていった背中。あの時は何も感じなかった。偽聖女を切り捨てた正義の行いだと信じていた。

 今、その記憶が妙に引っかかる。偽物が、なぜあんなに穏やかに笑えたのだろう。

 思考を振り払うように首を振った時、もうひとつの問題が頭をよぎった。

 エーデルシュタイン伯爵家。

 リーゼルの父である伯爵が、娘の追放以降、王家への協力を静かに縮小し始めていた。表立って反旗を翻すわけではない。しかし伯爵家が担っていた財務支援が滞り、社交界での王家寄りの発言が減り、伯爵と懇意にしていた商会が王城との取引を見直し始めている。

 エーデルシュタイン伯爵家は王国有数の名門であり、その経済力は王家の財政を支える柱の一つだった。それが崩れかけている。

「伯爵は何を考えている」

 ユリウスが側近に問うと、老練な文官が慎重に答えた。

「伯爵は何もおっしゃっていません。ただ、令嬢の追放以降、心労で体調を崩されているとのことで、公務を縮小されているだけです」

 建前としては完璧だった。病を理由にした協力縮小を、王家から咎める術はない。

「しかし殿下、伯爵家の影響は無視できません。このままでは他の貴族家にも波及します」

 ユリウスは唇を噛んだ。リーゼルを追放したことで、これほどの影響が出るとは考えていなかった。いや、考えなかったのだ。セレーナに夢中で、それ以外のことが見えていなかった。

 認めたくない後悔が、少しずつ胸の底に溜まっていく。


  
 そんな折、ユリウスの耳に一つの噂が届いた。

「辺境に、荒れ地を蘇らせる奇跡の女性がいるそうです」

 側近が何気なく言った一言に、ユリウスの手が止まった。

「……辺境だと?」

「はい。辺境伯領内の村で、枯れた大地を浄化し、涸れた井戸から水を湧かせたと。金色の光を使うのだとか。村人たちは彼女を聖女と呼んでいるようです」

 金色の光。

 ユリウスの背筋を、冷たいものが走った。

 セレーナの光は白だった。華やかで美しい白い光。しかし――金色ではなかった。神殿の古い文献には、真の聖女の光は金色だと記されていたはずだ。当時は気にも留めなかったが。

「その女は、何者だ」

「まだ確認は取れておりませんが……」

 側近が言い淀んだ。

「辺境伯領に送られた女性で、金色の光を使う者となると、心当たりは一人しかおりません」

 ユリウスの顔から血の気が引いた。

 リーゼル。

 まさか。

 偽聖女として追放したあの女が、辺境で本物の聖女の力に目覚めたというのか。もしそれが事実なら、自分は本物の聖女を追い出し、偽物を手元に置いていたことになる。

 それだけではない。王国の加護を支える真の聖女を失ったせいで、結界が弱まり、魔物が増え、国が傾き始めている。そのすべてが、自分の判断の誤りが原因だということになる。

「……確かめろ」

 ユリウスは搾り出すように言った。

「辺境のその女が何者なのか、すぐに調べろ」

 側近が頭を下げて退出した後、ユリウスは椅子の背に深く沈み込んだ。

 あの夜会の光景が脳裏に蘇る。嘲笑する貴族たち。泣きそうな顔で立ち尽くすリーゼルの父。そして、静かに微笑んで去っていったリーゼル。

 あの微笑みの意味を、ユリウスは初めて考えた。

 あれは許しではなかった。

 諦めだったのだ。自分に対する、完全なる諦め。

 窓の外で、結界の光がまたひとつ、消えた。
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