もう戻りません。~偽聖女の烙印を押された私と、不器用な辺境伯の話

たくわん

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異変は夜明け前に起きた。

 王城の地下深くで、セレーナが禁術を発動した。

 古い書物に記された術式に従い、魔瘴を自らの体に取り込もうとしたのだ。城の結界が弱まったことで地下に染み出していた魔瘴を利用し、それを己の力に変換する。成功すれば、本物の聖女に匹敵する力が手に入る。そう信じていた。

 最初はうまくいった。

 セレーナの体に黒い靄が吸い込まれていく。体の奥で力が膨れ上がるのを感じた。これまで見せかけでしかなかった光が、本物の輝きを帯び始める。

 笑みが浮かんだ。やはり私は選ばれた人間なのだ。リーゼルなどという地味な女に負けるはずがない。

 しかし次の瞬間、体の内側で何かが弾けた。

 制御できない。

 取り込んだ魔瘴が暴走を始めた。セレーナの体を器として、際限なく魔瘴が流れ込んでくる。止められない。書物に記された制御の術式が、まるで機能しない。

 セレーナの悲鳴が地下に響いた。しかしその声はすぐに人のものではなくなった。

 彼女の体から噴き出した魔瘴が渦を巻き、地下を突き破って地上に噴出した。王城の中庭を突き抜け、黒紫の柱となって天を衝く。

 王都の空が、裂けた。


  
 夜明けの王都は、悪夢に沈んだ。

 王城を中心に巨大な魔瘴の渦が発生し、黒紫の霧が街を侵食していった。触れたものを腐らせ、生命力を奪う呪いの霧。街路樹は枯れ、花壇の花は黒ずみ、石畳にひびが入った。

 民はパニックに陥った。着の身着のままで逃げ出す者、家に閉じこもる者、泣き叫ぶ子供を抱えて走る母親。王城の衛兵たちは魔瘴に対抗する術を持たず、ただ民を城外に誘導することしかできなかった。

 ユリウスは王城の広間で、信じられない光景を目の当たりにしていた。

 中庭に魔瘴の渦の中心がある。そしてその中心に、かろうじて人の形を保ったセレーナがいた。もはや美しい栗色の髪も翡翠の瞳もない。黒い靄に覆われた体から魔瘴が際限なく溢れ出し、渦を肥大させ続けている。

「セレーナ! やめろ、止めるんだ!」

 ユリウスが叫んだが、返ってきたのは人の声ではなかった。獣のような唸り声と、ガラスを引っ掻くような甲高い悲鳴が混じった、おぞましい音。

「殿下、近づいてはなりません!」

 側近がユリウスの腕を引いた。魔瘴の渦は膨張を続けており、王城の結界は完全に消失していた。このままでは王都全体が魔瘴に飲み込まれる。

「どうすればいい。どうすれば止められる」

 ユリウスの声は掠れていた。王太子としての威厳はもうなかった。ただの、怯えた若者の声だった。

 神殿の長老が駆けつけてきた。老神官は魔瘴の渦を見上げて顔面蒼白になった。

「これは……禁術の暴走です。魔瘴を取り込む古の禁忌。術者の体を核として魔瘴が無限に引き寄せられている。このままでは王都だけでなく、周辺の街も村も飲み込まれます」

「止める方法は!」

「魔瘴の核を浄化するしかありません。しかし、これほどの規模の魔瘴を浄化できる力は……」

 長老の言葉が途切れた。

 真の聖女の力でなければ、不可能だと。全員がその結論に行き着いた。

 しかし真の聖女は、ここにはいない。半年前にユリウス自身が追い出した。そしてつい先日、帰還の要請を拒否された。

 ユリウスは膝から崩れ落ちた。

「俺のせいだ……全部、俺の……」

 王として、人として、あまりにも遅すぎる悔恨だった。

 それでも側近は冷静だった。

「早馬を出しましょう。辺境伯領に。事態を伝え、聖女リーゼルの助力を請うのです。命令ではなく、懇願として」

 ユリウスは力なく頷いた。もはやprideなど捨てるしかなかった。


  
 辺境伯の館に早馬が到着したのは、翌日の昼過ぎだった。

 馬は泡を吹いて倒れ、乗っていた伝令兵は転がるように馬から落ちた。満身創痍の兵士がアレクの前に這うようにして進み出る。

「へ、辺境伯閣下……王都が……」

 息も絶え絶えに語られた内容に、アレクの表情が凍りついた。

 セレーナの禁術暴走。王都を覆う魔瘴の渦。結界の消失。民の避難。そして、聖女の力でなければ止められないという神殿の見解。

「殿下より……聖女リーゼル様に……お力添えを……懇願すると……」

 伝令兵はそれだけ言って意識を失った。

 アレクは伝令兵を部下に預け、リーゼルのいる小屋に向かった。足早に。しかし途中で一度立ち止まり、深く息を吸った。

 行かせたくない。

 本心はそれだった。リーゼルを自分の腕の中に閉じ込めて、王都のことなど知らないと言いたかった。リーゼルを捨てた連中が窮地に陥った。自業自得だ。助ける義理などない。

 しかし、リーゼルがどういう人間かをアレクは知っていた。

 小屋の扉を叩くと、リーゼルがすぐに開けた。アレクの顔を見て、何かを察したように表情が変わった。

「アレク様、何かあったのですか」

 アレクは黙って中に入り、椅子に座り、王都の状況を伝えた。一言一句、正確に。自分の感情は挟まなかった。

 リーゼルは窓辺に置かれた青い花――アレクに貰った花の横で、静かに話を聞いていた。

 沈黙が落ちた。

「……行かなくてはいけませんね」

 リーゼルがぽつりと言った。

「義理はない。お前を捨てた連中だ」

 アレクの声は平坦だったが、その奥に抑えた感情が渦巻いているのをリーゼルは感じ取っていた。

「はい。義理はないのかもしれません」

 リーゼルは目を伏せた。

「でも、王都には何の罪もない人たちがいます。街で暮らす市民、子供たち、お年寄り。それに……お父様も」

 父のことを口にした時、声がかすかに震えた。追放された後も、手紙をくれた父。不器用な文面で娘の無事を祈り続けてくれた、たった一人の肉親。

「それに、セレーナ様も……あの方も被害者なのかもしれません。追い詰められて、あんな術に手を出すしかなかった」

 アレクは何も言わなかった。リーゼルの言葉を否定も肯定もせず、ただ静かに待っていた。

 リーゼルは両手を見つめた。この手に宿る力で、人を助けることができる。その力がある以上、見捨てるという選択肢は自分にはないのだと、とうに気づいていた。

 しかし同時に、怖かった。王都に戻れば、あの夜会の記憶が蘇る。嘲笑と軽蔑の目。お前は偽物だと断じた声。

「怖いです」

 正直に言った。

「また王都に行くのは、怖い。あの場所に良い思い出はひとつもありません。でも……」

 顔を上げた。アレクの碧い瞳を見つめた。

「逃げたくはないんです。もう、逃げたくない」

 アレクは長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。リーゼルの前に歩み寄り、その両肩にそっと手を置いた。

「お前が行きたいなら、俺も行く」

 低く、静かな声だった。

「お前を一人では行かせない。俺が隣にいる。何があっても守る」

 行くなとは言わない。お前の選択を、俺は尊重する。

 その言葉に、リーゼルは目を閉じた。ユリウスだったら止めただろう。危険だから行くなと。あるいは命じただろう。聖女として行けと。どちらにしても、リーゼル自身の意思は関係なかった。

 アレクは違う。リーゼルの意思を尊重した上で、自分は必ず守ると誓う。それがこの人の愛し方なのだ。

「ありがとうございます、アレク様」

 リーゼルは微笑んだ。覚悟を決めた、静かな笑みだった。


  
 翌朝、アレクは辺境騎士団の精鋭を選抜した。

 二十騎。数は少ないが、一人ひとりが魔物との実戦経験を積んだ歴戦の兵だった。副官ハンスが隊を取りまとめ、出立の準備が進められた。

 出発の知らせはすぐに村中に広まった。

 村人たちが次々と館の前に集まってきた。手に手に物資を抱えている。保存食、薬草、毛布、水筒。自分たちの蓄えから少しずつ持ち寄ったものだった。

「聖女様、これ持って行ってくだせえ」
「道中、体を冷やしちゃいけねえ。この毛布を使ってくれ」
「薬草はいつも聖女様に貰ってばっかりだったが、今度は俺たちが用意した」

 リーゼルは胸がいっぱいになった。この村の人たちは裕福ではない。むしろ辺境の暮らしはまだまだ厳しい。それでも、自分たちの持てるものを差し出してくれている。

「必ず、帰ってきますから」

 リーゼルが約束すると、村人たちは大きく頷いた。子供たちが駆け寄ってきてリーゼルの腰にしがみついた。

「お姉ちゃん、行っちゃやだ」
「大丈夫よ。すぐに戻ってくるから。いい子にして待っていてね」

 子供たちの頭を撫で、村長夫妻に頭を下げ、リーゼルは馬車に乗り込んだ。

 かつて追放された道を、今度は多くの人に見送られて逆走する。あの時は一人きりの粗末な馬車だった。今は精鋭の騎士団と、何より隣にアレクがいる。

 馬車が動き出した。村の景色が後ろに流れていく。リーゼルが蘇らせた緑の大地が、花咲く村が、遠ざかっていく。


  
 二日の強行軍の末、一行は王都に到着した。

 その光景に、全員が息を呑んだ。

 王都は魔瘴の霧に覆われていた。かつて華やかだった白壁の街並みは灰色にくすみ、街路樹は立ち枯れ、花壇は黒ずんでいる。街中に人の姿はほとんどなく、家々の窓は固く閉ざされていた。空気は重く淀み、呼吸をするだけで胸が詰まるようだった。

 城門の近くで、避難してきた市民たちが肩を寄せ合っていた。子供たちが泣き、老人たちは咳き込んでいる。衛兵たちは疲弊しきった顔で、それでもなんとか秩序を保とうとしていた。

 リーゼルは馬車の窓からその光景を見つめ、唇を噛んだ。こんなにも酷いことになっている。

 王城に入ると、さらに状況は深刻だった。中庭に渦巻く魔瘴の柱は、数日前より太くなっていた。その中心に、もはや人の輪郭をほとんど失ったセレーナがいる。黒紫の靄に包まれた体から、うめき声のような、泣き声のような音が漏れていた。

 ユリウスが広間にいた。椅子にも座らず、床に座り込んでいた。衣服は乱れ、目の下には深い隈が刻まれている。リーゼルの姿を見た瞬間、血走った目が大きく見開かれた。

「リーゼル……来てくれたのか」

 その声はもう、王太子の威厳など欠片もなかった。ただの、疲れ果てた男の声だった。

 リーゼルはユリウスを一瞥し、視線を魔瘴の渦に向けた。今はこの人に構っている場合ではない。

「アレク様」

「ああ」

「行きます」

 リーゼルは中庭に向かって歩き出した。魔瘴の霧が体を包む。息が苦しい。しかし足は止めない。

 渦の前に立った。凄まじい圧力。体中の細胞が逃げろと叫んでいる。

 リーゼルは両手を前に掲げた。目を閉じ、自分の奥底にある力に呼びかける。

 金色の光が溢れ出した。

 両手から、体全体から、太陽のような光が放たれる。魔瘴の黒紫と、聖女の金色が激突し、中庭が二つの色に染め分けられた。

「私は、逃げません」

 リーゼルの声が、光と共に広がっていった。

 その背後で、アレクが剣を抜いた。魔瘴が形を成して襲いかかってくる触手を斬り払い、リーゼルへの攻撃を一つも通さない。

「集中しろ。後ろは任せた」

 短い言葉。しかしその声は、何よりも心強かった。

 辺境騎士団が扇状に展開し、魔瘴の触手と戦い始める。ハンスの指揮の下、騎士たちが互いを庇い合いながら魔物を斬り伏せていく。

 リーゼルは全力を注いだ。金色の光が渦の中に切り込んでいく。しかし魔瘴の核――禁術に取り込まれたセレーナは、あまりにも深い場所にいた。光が届かない。

 体力が削られていく。視界が霞む。膝が震える。

 それでもリーゼルは手を下ろさなかった。あと少し。あと少しで届く。

 金色の光の先に、セレーナの姿がかすかに見えた。黒い靄の中で、恐怖に歪んだ顔。声にならない叫び。

 あの人も怖いのだ。自分が何をしてしまったのかわかっていて、止められなくて、怖くて泣いている。

 リーゼルは最後の力を振り絞った。光が一際強く輝き――。

 そして、途絶えた。

 体から力が抜け、リーゼルは前のめりに倒れかけた。

 大きな腕が、背後から体を支えた。

「アレク、様……」

「俺がいる」

 アレクの腕がリーゼルを抱きしめていた。倒れないように。壊れないように。そしてその瞬間、アレクの手がリーゼルの手に重なった。

 何かが共鳴した。

 アレクの体の奥で、今まで眠っていた力が脈動した。辺境伯ヴァルトシュタイン家に代々受け継がれてきた、大地の守護者としての古い血の力。千年の間一度も目覚めなかったその力が、聖女の光に呼応するように覚醒した。

 二人の重なった手から、これまでとは次元の異なる光が爆発した。

 金色と深い翠が混じり合った光が、螺旋を描きながら魔瘴の渦を貫いた。
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