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異変は夜明け前に起きた。
王城の地下深くで、セレーナが禁術を発動した。
古い書物に記された術式に従い、魔瘴を自らの体に取り込もうとしたのだ。城の結界が弱まったことで地下に染み出していた魔瘴を利用し、それを己の力に変換する。成功すれば、本物の聖女に匹敵する力が手に入る。そう信じていた。
最初はうまくいった。
セレーナの体に黒い靄が吸い込まれていく。体の奥で力が膨れ上がるのを感じた。これまで見せかけでしかなかった光が、本物の輝きを帯び始める。
笑みが浮かんだ。やはり私は選ばれた人間なのだ。リーゼルなどという地味な女に負けるはずがない。
しかし次の瞬間、体の内側で何かが弾けた。
制御できない。
取り込んだ魔瘴が暴走を始めた。セレーナの体を器として、際限なく魔瘴が流れ込んでくる。止められない。書物に記された制御の術式が、まるで機能しない。
セレーナの悲鳴が地下に響いた。しかしその声はすぐに人のものではなくなった。
彼女の体から噴き出した魔瘴が渦を巻き、地下を突き破って地上に噴出した。王城の中庭を突き抜け、黒紫の柱となって天を衝く。
王都の空が、裂けた。
夜明けの王都は、悪夢に沈んだ。
王城を中心に巨大な魔瘴の渦が発生し、黒紫の霧が街を侵食していった。触れたものを腐らせ、生命力を奪う呪いの霧。街路樹は枯れ、花壇の花は黒ずみ、石畳にひびが入った。
民はパニックに陥った。着の身着のままで逃げ出す者、家に閉じこもる者、泣き叫ぶ子供を抱えて走る母親。王城の衛兵たちは魔瘴に対抗する術を持たず、ただ民を城外に誘導することしかできなかった。
ユリウスは王城の広間で、信じられない光景を目の当たりにしていた。
中庭に魔瘴の渦の中心がある。そしてその中心に、かろうじて人の形を保ったセレーナがいた。もはや美しい栗色の髪も翡翠の瞳もない。黒い靄に覆われた体から魔瘴が際限なく溢れ出し、渦を肥大させ続けている。
「セレーナ! やめろ、止めるんだ!」
ユリウスが叫んだが、返ってきたのは人の声ではなかった。獣のような唸り声と、ガラスを引っ掻くような甲高い悲鳴が混じった、おぞましい音。
「殿下、近づいてはなりません!」
側近がユリウスの腕を引いた。魔瘴の渦は膨張を続けており、王城の結界は完全に消失していた。このままでは王都全体が魔瘴に飲み込まれる。
「どうすればいい。どうすれば止められる」
ユリウスの声は掠れていた。王太子としての威厳はもうなかった。ただの、怯えた若者の声だった。
神殿の長老が駆けつけてきた。老神官は魔瘴の渦を見上げて顔面蒼白になった。
「これは……禁術の暴走です。魔瘴を取り込む古の禁忌。術者の体を核として魔瘴が無限に引き寄せられている。このままでは王都だけでなく、周辺の街も村も飲み込まれます」
「止める方法は!」
「魔瘴の核を浄化するしかありません。しかし、これほどの規模の魔瘴を浄化できる力は……」
長老の言葉が途切れた。
真の聖女の力でなければ、不可能だと。全員がその結論に行き着いた。
しかし真の聖女は、ここにはいない。半年前にユリウス自身が追い出した。そしてつい先日、帰還の要請を拒否された。
ユリウスは膝から崩れ落ちた。
「俺のせいだ……全部、俺の……」
王として、人として、あまりにも遅すぎる悔恨だった。
それでも側近は冷静だった。
「早馬を出しましょう。辺境伯領に。事態を伝え、聖女リーゼルの助力を請うのです。命令ではなく、懇願として」
ユリウスは力なく頷いた。もはやprideなど捨てるしかなかった。
辺境伯の館に早馬が到着したのは、翌日の昼過ぎだった。
馬は泡を吹いて倒れ、乗っていた伝令兵は転がるように馬から落ちた。満身創痍の兵士がアレクの前に這うようにして進み出る。
「へ、辺境伯閣下……王都が……」
息も絶え絶えに語られた内容に、アレクの表情が凍りついた。
セレーナの禁術暴走。王都を覆う魔瘴の渦。結界の消失。民の避難。そして、聖女の力でなければ止められないという神殿の見解。
「殿下より……聖女リーゼル様に……お力添えを……懇願すると……」
伝令兵はそれだけ言って意識を失った。
アレクは伝令兵を部下に預け、リーゼルのいる小屋に向かった。足早に。しかし途中で一度立ち止まり、深く息を吸った。
行かせたくない。
本心はそれだった。リーゼルを自分の腕の中に閉じ込めて、王都のことなど知らないと言いたかった。リーゼルを捨てた連中が窮地に陥った。自業自得だ。助ける義理などない。
しかし、リーゼルがどういう人間かをアレクは知っていた。
小屋の扉を叩くと、リーゼルがすぐに開けた。アレクの顔を見て、何かを察したように表情が変わった。
「アレク様、何かあったのですか」
アレクは黙って中に入り、椅子に座り、王都の状況を伝えた。一言一句、正確に。自分の感情は挟まなかった。
リーゼルは窓辺に置かれた青い花――アレクに貰った花の横で、静かに話を聞いていた。
沈黙が落ちた。
「……行かなくてはいけませんね」
リーゼルがぽつりと言った。
「義理はない。お前を捨てた連中だ」
アレクの声は平坦だったが、その奥に抑えた感情が渦巻いているのをリーゼルは感じ取っていた。
「はい。義理はないのかもしれません」
リーゼルは目を伏せた。
「でも、王都には何の罪もない人たちがいます。街で暮らす市民、子供たち、お年寄り。それに……お父様も」
父のことを口にした時、声がかすかに震えた。追放された後も、手紙をくれた父。不器用な文面で娘の無事を祈り続けてくれた、たった一人の肉親。
「それに、セレーナ様も……あの方も被害者なのかもしれません。追い詰められて、あんな術に手を出すしかなかった」
アレクは何も言わなかった。リーゼルの言葉を否定も肯定もせず、ただ静かに待っていた。
リーゼルは両手を見つめた。この手に宿る力で、人を助けることができる。その力がある以上、見捨てるという選択肢は自分にはないのだと、とうに気づいていた。
しかし同時に、怖かった。王都に戻れば、あの夜会の記憶が蘇る。嘲笑と軽蔑の目。お前は偽物だと断じた声。
「怖いです」
正直に言った。
「また王都に行くのは、怖い。あの場所に良い思い出はひとつもありません。でも……」
顔を上げた。アレクの碧い瞳を見つめた。
「逃げたくはないんです。もう、逃げたくない」
アレクは長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。リーゼルの前に歩み寄り、その両肩にそっと手を置いた。
「お前が行きたいなら、俺も行く」
低く、静かな声だった。
「お前を一人では行かせない。俺が隣にいる。何があっても守る」
行くなとは言わない。お前の選択を、俺は尊重する。
その言葉に、リーゼルは目を閉じた。ユリウスだったら止めただろう。危険だから行くなと。あるいは命じただろう。聖女として行けと。どちらにしても、リーゼル自身の意思は関係なかった。
アレクは違う。リーゼルの意思を尊重した上で、自分は必ず守ると誓う。それがこの人の愛し方なのだ。
「ありがとうございます、アレク様」
リーゼルは微笑んだ。覚悟を決めた、静かな笑みだった。
翌朝、アレクは辺境騎士団の精鋭を選抜した。
二十騎。数は少ないが、一人ひとりが魔物との実戦経験を積んだ歴戦の兵だった。副官ハンスが隊を取りまとめ、出立の準備が進められた。
出発の知らせはすぐに村中に広まった。
村人たちが次々と館の前に集まってきた。手に手に物資を抱えている。保存食、薬草、毛布、水筒。自分たちの蓄えから少しずつ持ち寄ったものだった。
「聖女様、これ持って行ってくだせえ」
「道中、体を冷やしちゃいけねえ。この毛布を使ってくれ」
「薬草はいつも聖女様に貰ってばっかりだったが、今度は俺たちが用意した」
リーゼルは胸がいっぱいになった。この村の人たちは裕福ではない。むしろ辺境の暮らしはまだまだ厳しい。それでも、自分たちの持てるものを差し出してくれている。
「必ず、帰ってきますから」
リーゼルが約束すると、村人たちは大きく頷いた。子供たちが駆け寄ってきてリーゼルの腰にしがみついた。
「お姉ちゃん、行っちゃやだ」
「大丈夫よ。すぐに戻ってくるから。いい子にして待っていてね」
子供たちの頭を撫で、村長夫妻に頭を下げ、リーゼルは馬車に乗り込んだ。
かつて追放された道を、今度は多くの人に見送られて逆走する。あの時は一人きりの粗末な馬車だった。今は精鋭の騎士団と、何より隣にアレクがいる。
馬車が動き出した。村の景色が後ろに流れていく。リーゼルが蘇らせた緑の大地が、花咲く村が、遠ざかっていく。
二日の強行軍の末、一行は王都に到着した。
その光景に、全員が息を呑んだ。
王都は魔瘴の霧に覆われていた。かつて華やかだった白壁の街並みは灰色にくすみ、街路樹は立ち枯れ、花壇は黒ずんでいる。街中に人の姿はほとんどなく、家々の窓は固く閉ざされていた。空気は重く淀み、呼吸をするだけで胸が詰まるようだった。
城門の近くで、避難してきた市民たちが肩を寄せ合っていた。子供たちが泣き、老人たちは咳き込んでいる。衛兵たちは疲弊しきった顔で、それでもなんとか秩序を保とうとしていた。
リーゼルは馬車の窓からその光景を見つめ、唇を噛んだ。こんなにも酷いことになっている。
王城に入ると、さらに状況は深刻だった。中庭に渦巻く魔瘴の柱は、数日前より太くなっていた。その中心に、もはや人の輪郭をほとんど失ったセレーナがいる。黒紫の靄に包まれた体から、うめき声のような、泣き声のような音が漏れていた。
ユリウスが広間にいた。椅子にも座らず、床に座り込んでいた。衣服は乱れ、目の下には深い隈が刻まれている。リーゼルの姿を見た瞬間、血走った目が大きく見開かれた。
「リーゼル……来てくれたのか」
その声はもう、王太子の威厳など欠片もなかった。ただの、疲れ果てた男の声だった。
リーゼルはユリウスを一瞥し、視線を魔瘴の渦に向けた。今はこの人に構っている場合ではない。
「アレク様」
「ああ」
「行きます」
リーゼルは中庭に向かって歩き出した。魔瘴の霧が体を包む。息が苦しい。しかし足は止めない。
渦の前に立った。凄まじい圧力。体中の細胞が逃げろと叫んでいる。
リーゼルは両手を前に掲げた。目を閉じ、自分の奥底にある力に呼びかける。
金色の光が溢れ出した。
両手から、体全体から、太陽のような光が放たれる。魔瘴の黒紫と、聖女の金色が激突し、中庭が二つの色に染め分けられた。
「私は、逃げません」
リーゼルの声が、光と共に広がっていった。
その背後で、アレクが剣を抜いた。魔瘴が形を成して襲いかかってくる触手を斬り払い、リーゼルへの攻撃を一つも通さない。
「集中しろ。後ろは任せた」
短い言葉。しかしその声は、何よりも心強かった。
辺境騎士団が扇状に展開し、魔瘴の触手と戦い始める。ハンスの指揮の下、騎士たちが互いを庇い合いながら魔物を斬り伏せていく。
リーゼルは全力を注いだ。金色の光が渦の中に切り込んでいく。しかし魔瘴の核――禁術に取り込まれたセレーナは、あまりにも深い場所にいた。光が届かない。
体力が削られていく。視界が霞む。膝が震える。
それでもリーゼルは手を下ろさなかった。あと少し。あと少しで届く。
金色の光の先に、セレーナの姿がかすかに見えた。黒い靄の中で、恐怖に歪んだ顔。声にならない叫び。
あの人も怖いのだ。自分が何をしてしまったのかわかっていて、止められなくて、怖くて泣いている。
リーゼルは最後の力を振り絞った。光が一際強く輝き――。
そして、途絶えた。
体から力が抜け、リーゼルは前のめりに倒れかけた。
大きな腕が、背後から体を支えた。
「アレク、様……」
「俺がいる」
アレクの腕がリーゼルを抱きしめていた。倒れないように。壊れないように。そしてその瞬間、アレクの手がリーゼルの手に重なった。
何かが共鳴した。
アレクの体の奥で、今まで眠っていた力が脈動した。辺境伯ヴァルトシュタイン家に代々受け継がれてきた、大地の守護者としての古い血の力。千年の間一度も目覚めなかったその力が、聖女の光に呼応するように覚醒した。
二人の重なった手から、これまでとは次元の異なる光が爆発した。
金色と深い翠が混じり合った光が、螺旋を描きながら魔瘴の渦を貫いた。
王城の地下深くで、セレーナが禁術を発動した。
古い書物に記された術式に従い、魔瘴を自らの体に取り込もうとしたのだ。城の結界が弱まったことで地下に染み出していた魔瘴を利用し、それを己の力に変換する。成功すれば、本物の聖女に匹敵する力が手に入る。そう信じていた。
最初はうまくいった。
セレーナの体に黒い靄が吸い込まれていく。体の奥で力が膨れ上がるのを感じた。これまで見せかけでしかなかった光が、本物の輝きを帯び始める。
笑みが浮かんだ。やはり私は選ばれた人間なのだ。リーゼルなどという地味な女に負けるはずがない。
しかし次の瞬間、体の内側で何かが弾けた。
制御できない。
取り込んだ魔瘴が暴走を始めた。セレーナの体を器として、際限なく魔瘴が流れ込んでくる。止められない。書物に記された制御の術式が、まるで機能しない。
セレーナの悲鳴が地下に響いた。しかしその声はすぐに人のものではなくなった。
彼女の体から噴き出した魔瘴が渦を巻き、地下を突き破って地上に噴出した。王城の中庭を突き抜け、黒紫の柱となって天を衝く。
王都の空が、裂けた。
夜明けの王都は、悪夢に沈んだ。
王城を中心に巨大な魔瘴の渦が発生し、黒紫の霧が街を侵食していった。触れたものを腐らせ、生命力を奪う呪いの霧。街路樹は枯れ、花壇の花は黒ずみ、石畳にひびが入った。
民はパニックに陥った。着の身着のままで逃げ出す者、家に閉じこもる者、泣き叫ぶ子供を抱えて走る母親。王城の衛兵たちは魔瘴に対抗する術を持たず、ただ民を城外に誘導することしかできなかった。
ユリウスは王城の広間で、信じられない光景を目の当たりにしていた。
中庭に魔瘴の渦の中心がある。そしてその中心に、かろうじて人の形を保ったセレーナがいた。もはや美しい栗色の髪も翡翠の瞳もない。黒い靄に覆われた体から魔瘴が際限なく溢れ出し、渦を肥大させ続けている。
「セレーナ! やめろ、止めるんだ!」
ユリウスが叫んだが、返ってきたのは人の声ではなかった。獣のような唸り声と、ガラスを引っ掻くような甲高い悲鳴が混じった、おぞましい音。
「殿下、近づいてはなりません!」
側近がユリウスの腕を引いた。魔瘴の渦は膨張を続けており、王城の結界は完全に消失していた。このままでは王都全体が魔瘴に飲み込まれる。
「どうすればいい。どうすれば止められる」
ユリウスの声は掠れていた。王太子としての威厳はもうなかった。ただの、怯えた若者の声だった。
神殿の長老が駆けつけてきた。老神官は魔瘴の渦を見上げて顔面蒼白になった。
「これは……禁術の暴走です。魔瘴を取り込む古の禁忌。術者の体を核として魔瘴が無限に引き寄せられている。このままでは王都だけでなく、周辺の街も村も飲み込まれます」
「止める方法は!」
「魔瘴の核を浄化するしかありません。しかし、これほどの規模の魔瘴を浄化できる力は……」
長老の言葉が途切れた。
真の聖女の力でなければ、不可能だと。全員がその結論に行き着いた。
しかし真の聖女は、ここにはいない。半年前にユリウス自身が追い出した。そしてつい先日、帰還の要請を拒否された。
ユリウスは膝から崩れ落ちた。
「俺のせいだ……全部、俺の……」
王として、人として、あまりにも遅すぎる悔恨だった。
それでも側近は冷静だった。
「早馬を出しましょう。辺境伯領に。事態を伝え、聖女リーゼルの助力を請うのです。命令ではなく、懇願として」
ユリウスは力なく頷いた。もはやprideなど捨てるしかなかった。
辺境伯の館に早馬が到着したのは、翌日の昼過ぎだった。
馬は泡を吹いて倒れ、乗っていた伝令兵は転がるように馬から落ちた。満身創痍の兵士がアレクの前に這うようにして進み出る。
「へ、辺境伯閣下……王都が……」
息も絶え絶えに語られた内容に、アレクの表情が凍りついた。
セレーナの禁術暴走。王都を覆う魔瘴の渦。結界の消失。民の避難。そして、聖女の力でなければ止められないという神殿の見解。
「殿下より……聖女リーゼル様に……お力添えを……懇願すると……」
伝令兵はそれだけ言って意識を失った。
アレクは伝令兵を部下に預け、リーゼルのいる小屋に向かった。足早に。しかし途中で一度立ち止まり、深く息を吸った。
行かせたくない。
本心はそれだった。リーゼルを自分の腕の中に閉じ込めて、王都のことなど知らないと言いたかった。リーゼルを捨てた連中が窮地に陥った。自業自得だ。助ける義理などない。
しかし、リーゼルがどういう人間かをアレクは知っていた。
小屋の扉を叩くと、リーゼルがすぐに開けた。アレクの顔を見て、何かを察したように表情が変わった。
「アレク様、何かあったのですか」
アレクは黙って中に入り、椅子に座り、王都の状況を伝えた。一言一句、正確に。自分の感情は挟まなかった。
リーゼルは窓辺に置かれた青い花――アレクに貰った花の横で、静かに話を聞いていた。
沈黙が落ちた。
「……行かなくてはいけませんね」
リーゼルがぽつりと言った。
「義理はない。お前を捨てた連中だ」
アレクの声は平坦だったが、その奥に抑えた感情が渦巻いているのをリーゼルは感じ取っていた。
「はい。義理はないのかもしれません」
リーゼルは目を伏せた。
「でも、王都には何の罪もない人たちがいます。街で暮らす市民、子供たち、お年寄り。それに……お父様も」
父のことを口にした時、声がかすかに震えた。追放された後も、手紙をくれた父。不器用な文面で娘の無事を祈り続けてくれた、たった一人の肉親。
「それに、セレーナ様も……あの方も被害者なのかもしれません。追い詰められて、あんな術に手を出すしかなかった」
アレクは何も言わなかった。リーゼルの言葉を否定も肯定もせず、ただ静かに待っていた。
リーゼルは両手を見つめた。この手に宿る力で、人を助けることができる。その力がある以上、見捨てるという選択肢は自分にはないのだと、とうに気づいていた。
しかし同時に、怖かった。王都に戻れば、あの夜会の記憶が蘇る。嘲笑と軽蔑の目。お前は偽物だと断じた声。
「怖いです」
正直に言った。
「また王都に行くのは、怖い。あの場所に良い思い出はひとつもありません。でも……」
顔を上げた。アレクの碧い瞳を見つめた。
「逃げたくはないんです。もう、逃げたくない」
アレクは長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。リーゼルの前に歩み寄り、その両肩にそっと手を置いた。
「お前が行きたいなら、俺も行く」
低く、静かな声だった。
「お前を一人では行かせない。俺が隣にいる。何があっても守る」
行くなとは言わない。お前の選択を、俺は尊重する。
その言葉に、リーゼルは目を閉じた。ユリウスだったら止めただろう。危険だから行くなと。あるいは命じただろう。聖女として行けと。どちらにしても、リーゼル自身の意思は関係なかった。
アレクは違う。リーゼルの意思を尊重した上で、自分は必ず守ると誓う。それがこの人の愛し方なのだ。
「ありがとうございます、アレク様」
リーゼルは微笑んだ。覚悟を決めた、静かな笑みだった。
翌朝、アレクは辺境騎士団の精鋭を選抜した。
二十騎。数は少ないが、一人ひとりが魔物との実戦経験を積んだ歴戦の兵だった。副官ハンスが隊を取りまとめ、出立の準備が進められた。
出発の知らせはすぐに村中に広まった。
村人たちが次々と館の前に集まってきた。手に手に物資を抱えている。保存食、薬草、毛布、水筒。自分たちの蓄えから少しずつ持ち寄ったものだった。
「聖女様、これ持って行ってくだせえ」
「道中、体を冷やしちゃいけねえ。この毛布を使ってくれ」
「薬草はいつも聖女様に貰ってばっかりだったが、今度は俺たちが用意した」
リーゼルは胸がいっぱいになった。この村の人たちは裕福ではない。むしろ辺境の暮らしはまだまだ厳しい。それでも、自分たちの持てるものを差し出してくれている。
「必ず、帰ってきますから」
リーゼルが約束すると、村人たちは大きく頷いた。子供たちが駆け寄ってきてリーゼルの腰にしがみついた。
「お姉ちゃん、行っちゃやだ」
「大丈夫よ。すぐに戻ってくるから。いい子にして待っていてね」
子供たちの頭を撫で、村長夫妻に頭を下げ、リーゼルは馬車に乗り込んだ。
かつて追放された道を、今度は多くの人に見送られて逆走する。あの時は一人きりの粗末な馬車だった。今は精鋭の騎士団と、何より隣にアレクがいる。
馬車が動き出した。村の景色が後ろに流れていく。リーゼルが蘇らせた緑の大地が、花咲く村が、遠ざかっていく。
二日の強行軍の末、一行は王都に到着した。
その光景に、全員が息を呑んだ。
王都は魔瘴の霧に覆われていた。かつて華やかだった白壁の街並みは灰色にくすみ、街路樹は立ち枯れ、花壇は黒ずんでいる。街中に人の姿はほとんどなく、家々の窓は固く閉ざされていた。空気は重く淀み、呼吸をするだけで胸が詰まるようだった。
城門の近くで、避難してきた市民たちが肩を寄せ合っていた。子供たちが泣き、老人たちは咳き込んでいる。衛兵たちは疲弊しきった顔で、それでもなんとか秩序を保とうとしていた。
リーゼルは馬車の窓からその光景を見つめ、唇を噛んだ。こんなにも酷いことになっている。
王城に入ると、さらに状況は深刻だった。中庭に渦巻く魔瘴の柱は、数日前より太くなっていた。その中心に、もはや人の輪郭をほとんど失ったセレーナがいる。黒紫の靄に包まれた体から、うめき声のような、泣き声のような音が漏れていた。
ユリウスが広間にいた。椅子にも座らず、床に座り込んでいた。衣服は乱れ、目の下には深い隈が刻まれている。リーゼルの姿を見た瞬間、血走った目が大きく見開かれた。
「リーゼル……来てくれたのか」
その声はもう、王太子の威厳など欠片もなかった。ただの、疲れ果てた男の声だった。
リーゼルはユリウスを一瞥し、視線を魔瘴の渦に向けた。今はこの人に構っている場合ではない。
「アレク様」
「ああ」
「行きます」
リーゼルは中庭に向かって歩き出した。魔瘴の霧が体を包む。息が苦しい。しかし足は止めない。
渦の前に立った。凄まじい圧力。体中の細胞が逃げろと叫んでいる。
リーゼルは両手を前に掲げた。目を閉じ、自分の奥底にある力に呼びかける。
金色の光が溢れ出した。
両手から、体全体から、太陽のような光が放たれる。魔瘴の黒紫と、聖女の金色が激突し、中庭が二つの色に染め分けられた。
「私は、逃げません」
リーゼルの声が、光と共に広がっていった。
その背後で、アレクが剣を抜いた。魔瘴が形を成して襲いかかってくる触手を斬り払い、リーゼルへの攻撃を一つも通さない。
「集中しろ。後ろは任せた」
短い言葉。しかしその声は、何よりも心強かった。
辺境騎士団が扇状に展開し、魔瘴の触手と戦い始める。ハンスの指揮の下、騎士たちが互いを庇い合いながら魔物を斬り伏せていく。
リーゼルは全力を注いだ。金色の光が渦の中に切り込んでいく。しかし魔瘴の核――禁術に取り込まれたセレーナは、あまりにも深い場所にいた。光が届かない。
体力が削られていく。視界が霞む。膝が震える。
それでもリーゼルは手を下ろさなかった。あと少し。あと少しで届く。
金色の光の先に、セレーナの姿がかすかに見えた。黒い靄の中で、恐怖に歪んだ顔。声にならない叫び。
あの人も怖いのだ。自分が何をしてしまったのかわかっていて、止められなくて、怖くて泣いている。
リーゼルは最後の力を振り絞った。光が一際強く輝き――。
そして、途絶えた。
体から力が抜け、リーゼルは前のめりに倒れかけた。
大きな腕が、背後から体を支えた。
「アレク、様……」
「俺がいる」
アレクの腕がリーゼルを抱きしめていた。倒れないように。壊れないように。そしてその瞬間、アレクの手がリーゼルの手に重なった。
何かが共鳴した。
アレクの体の奥で、今まで眠っていた力が脈動した。辺境伯ヴァルトシュタイン家に代々受け継がれてきた、大地の守護者としての古い血の力。千年の間一度も目覚めなかったその力が、聖女の光に呼応するように覚醒した。
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