もう戻りません。~偽聖女の烙印を押された私と、不器用な辺境伯の話

たくわん

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光が、すべてを呑み込んだ。

 金色と翠色が螺旋を描き、魔瘴の渦の核へと突き進んでいく。二人の手が重なった瞬間に生まれた光は、リーゼル一人の力を遥かに凌駕していた。

 アレクの体を通じて大地そのものの力が流れ込んでくる。辺境の地が何百年もかけて蓄えた生命の源。それがリーゼルの聖女の光と融合し、純粋な浄化の奔流となって魔瘴を押し返していく。

「リーゼル、しっかり掴まれ」

 アレクの声が耳元で響いた。背後から抱きしめる腕に力がこもる。リーゼルはその腕に身を預け、残った意識のすべてを光に注いだ。

 魔瘴が軋みを上げた。黒紫の渦が金と翠の光に侵食され、内側から崩れ始める。

 光の先に、セレーナが見えた。

 黒い靄に覆われた体。しかしその奥で、人の形がまだかろうじて残っていた。閉じた瞳から涙が伝っている。もう声を出す力もないのだろう。けれどその唇が何かを形作っていた。

 たすけて。

 リーゼルにはそう読めた。

「届いて……!」

 リーゼルが叫んだ。光が一際強く輝き、魔瘴の核を貫いた。

 閃光が中庭を、王城を、王都全体を包み込んだ。目も開けていられないほどの金色の光が天まで昇り、黒紫に染まっていた空を引き裂いていく。

 魔瘴が悲鳴のような音を上げて散り始めた。渦の中心から外側へ、波紋のように浄化が広がっていく。街を覆っていた霧が晴れ、灰色だった空に青が戻ってくる。

 枯れていた街路樹の枝先から、小さな新芽が吹いた。

 黒ずんでいた花壇に、白い花が一輪、咲いた。

 王都に、光が戻った。


  
 魔瘴の渦が完全に消失した後、中庭の中央にセレーナが倒れていた。

 黒い靄は消え、そこにいたのは力を使い果たした一人の女だった。栗色の髪は色褪せて白くなり、閉じた瞳の下には深い隈が刻まれている。呼吸はかすかだが、命に別状はなさそうだった。ただ、その体からはいかなる力の気配も感じられない。聖女の演技に使っていた光術も、禁術で取り込もうとした魔瘴の力も、すべて失われていた。

 リーゼルもまた、限界だった。

 光が消えた瞬間、全身の力が抜けた。立っていることもできず、アレクの腕の中で崩れ落ちた。

「リーゼル。おい、リーゼル」

 アレクの声が遠い。意識が薄れていく。でも今度は不安はなかった。この腕の中にいれば大丈夫だという、揺るぎない信頼があった。

「……大丈夫です。少し、休ませて……」

 それだけ言って、リーゼルの意識は穏やかに沈んでいった。


  
 目が覚めたのは、二日後だった。

 見知らぬ天井。しかし今度は辺境伯の館ではなく、王城の客室だった。天蓋つきの寝台に白いシーツ。窓からは澄んだ陽光が差し込んでいる。

 ベッドの横に、アレクがいた。前と同じように椅子に座って、前と同じように腕を組んで目を閉じていた。ただし今回は、その大きな手がリーゼルの手をしっかりと握ったままだった。

 リーゼルはその手を見つめて、そっと指に力を込めた。

 アレクの目が開いた。碧い瞳がリーゼルを捉え、一瞬で鮮明になる。

「……目が覚めたか」

「はい」

「二日寝てた」

「またですか」

「また、だ。今度は三日寝てもおかしくないと医者に言われた」

 声は平坦だが、握る手の力が微かに強くなった。心配していたのだ。ずっとここにいてくれたのだ。

「ありがとうございます、アレク様。あの時、手を重ねてくださったおかげで……」

「礼を言うのは俺の方だ。お前がいなければ王都は終わっていた」

「アレク様がいなければ、私一人では届きませんでした」

 二人の目が合い、自然と笑みが溢れた。言葉にしなくても、あの瞬間の感覚を二人は共有していた。光が融合した時の温かさ。二つの力が一つになった時の、あの圧倒的な安心感。

 扉を控えめにノックする音がして、ハンスが顔を覗かせた。

「閣下、リーゼル様。失礼いたします。王太子殿下がお会いしたいとのことですが」

 アレクの表情が冷えた。

「断れ」

「いえ……お会いします」

 リーゼルが静かに言った。アレクが眉をひそめたが、リーゼルは小さく頷いて見せた。

「終わらせなくてはいけないことがあります」


  
 王城の広間。

 半年前に婚約破棄が宣告されたのと同じ場所だった。しかし今、その広間に華やかさはない。魔瘴の影響で壁の装飾は剥がれ、シャンデリアの金色は色褪せていた。復旧にはまだ時間がかかるだろう。

 ユリウスが広間の中央に立っていた。

 半年前とは別人だった。痩せ、やつれ、目の下の隈は黒々としている。しかし何より変わったのは、あの傲慢な光が瞳から消えていたことだ。

 リーゼルが広間に入ると、ユリウスは数歩歩み寄り――そして膝をついた。

 王太子が、膝をついた。

 広間にいた数少ない側近たちが息を呑んだ。

「リーゼル」

 ユリウスの声はかすれていた。

「すべて、俺の過ちだった。お前を偽聖女と断じたのも、婚約を破棄したのも、辺境に追放したのも。何もかも、俺の愚かさが招いたことだ」

 その言葉に嘘はないようだった。この数日で、ユリウスは否応なく現実を突きつけられたのだろう。自分が何を失い、何を壊したのかを。

「王都を救ってくれたこと、感謝する。そして……戻ってきてくれないか、リーゼル。お前がいなければ、この国は……」

「殿下」

 リーゼルが静かに遮った。

 穏やかだが、揺るぎのない声だった。

「謝罪をお受けいたします。殿下が過ちをお認めになったこと、敬意を表します」

 ユリウスの目にわずかな期待が灯った。しかしリーゼルの次の言葉が、その灯を消した。

「ですが、王都に戻ることはいたしません」

「なぜだ。俺は過ちを認めた。お前が求めた通りに……」

「殿下。あの日の婚約破棄に、私は感謝しています」

 ユリウスが目を見開いた。

「あの夜、殿下に捨てられたおかげで、私は本当の居場所を見つけることができました」

 リーゼルの目が、傍らに立つアレクに向けられた。銀髪の辺境伯は腕を組んで壁際に立っていたが、リーゼルの視線を受けて静かに歩み寄り、その肩を引き寄せた。大きな手が、当たり前のようにリーゼルの肩に置かれる。

「そして、本当に大切な方に出会えました」

 リーゼルはアレクを見上げ、微笑んだ。アレクはわずかに口の端を上げて応えた。二人の間に流れる信頼と愛情は、言葉にするまでもなく明らかだった。

 ユリウスはすべてを悟った。

 この女はもう、自分のものではない。自分が捨てた宝石は、別の男が拾い、磨き上げ、大切に守っている。そしてリーゼル自身が、その男の隣を選んでいる。

 唇を噛んだ。悔しさと、自業自得だという理解が同時に押し寄せてきた。

「……そうか」

 絞り出すように言った。

「幸せに、なれ」

 それがユリウスにできる、精一杯の誠意だった。


  
 数週間後、王都は少しずつ日常を取り戻しつつあった。

 魔瘴の浄化は完全ではなかったが、リーゼルが王都を去る前に主要な区画を浄化したことで、自然回復の軌道には乗っていた。神殿の神官たちが残りの浄化を引き継ぎ、結界の再構築も始まっている。

 ユリウスは王太子の地位を剥奪された。

 王が病床から起き上がり、事態の全容を知った時、その判断は迅速だった。聖女の追放、偽聖女の擁立、結界の崩壊、禁術の暴走。そのすべての起点にユリウスの判断があった。王太子として国を守る責務を果たせなかったばかりか、国を危機に陥れた。情状酌量の余地はなかった。

 次の王太子には、ユリウスの弟であるフリードリヒが選ばれた。聡明で実直な青年で、兄とは対照的に地味だが堅実な人物だった。リーゼルの父であるエーデルシュタイン伯爵とも信頼関係があり、その就任を歓迎する声は多かった。

 セレーナは意識を取り戻したものの、いかなる術も使えない状態だった。禁術の代償は重く、体内の魔力は完全に枯渇していた。男爵家に送り返されたセレーナを、社交界の誰も振り返らなかった。かつて聖女ともてはやされた女は、静かに表舞台から姿を消した。

 エーデルシュタイン伯爵は、娘の活躍を伝え聞き、執務室で一人泣いたという。そして辺境伯との婚約を知った時には、満面の笑みで祝いの品を山ほど送りつけてきた。ハンスが荷解きに半日かかったと嘆いていた。


  
 辺境に、冬が来ていた。

 しかしそれはかつての厳しい冬ではなかった。浄化された大地は秋の収穫を十分にもたらし、村の蔵には食糧が蓄えられている。井戸の水は変わらず清く、暖炉には薪が積まれ、家々からは煮炊きの煙が上がっている。

 その冬の最初の日曜日、村の小さな教会で結婚式が挙げられた。

 花嫁はリーゼル。花婿はアレク。

 豪華な式ではなかった。王都の大聖堂で行われるような壮麗な儀式とは程遠い。石造りの小さな教会に、辺境の村人たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれた、それはそれは賑やかな式だった。

 リーゼルの白いドレスは、村の女たちが総出で縫い上げたものだった。絹ではなく木綿だが、丁寧な刺繍が施されていて、袖口には辺境の野花の模様が入っている。頭には、浄化された庭で摘んだ花の冠。

 アレクは普段の質素な装いをやめ、辺境伯の正装に身を包んでいた。銀の髪を整え、深い紺色の外套を纏った姿は、無愛想な表情さえなければ完璧な貴公子だった。もっとも、その無愛想さがわずかに緩んでいることに、ハンスは感無量の面持ちで気づいていた。

 誓いの言葉は短かった。

「生涯をかけて、この女を守る」

 アレクらしい、飾り気のない誓い。しかし教会中の誰もが、その言葉の重さを知っていた。

 リーゼルの番。

「生涯をかけて、この方の隣で、この土地と共に歩みます」

 神父が二人の手を重ね合わせた。その瞬間、リーゼルの掌からかすかに金色の光が漏れた。祝福するように温かい光が二人を包み、教会の中を柔らかく照らした。

「花婿は花嫁に口づけを」

 神父の言葉に、アレクの耳が赤くなった。大勢の前で口づけなど、この男にとっては魔物との戦いより余程難易度が高いのだろう。しかし意を決したように一歩踏み出し、リーゼルの頬に手を添えた。

 静かな口づけ。

 教会が割れんばかりの歓声に包まれた。子供たちが花弁を撒き散らし、村人たちが口笛を吹き、ハンスが目頭を押さえている。村長の妻は大泣きしていて、村長がその背中をさすりながら自分も泣いていた。

 教会の扉が開かれ、二人が外に出ると、冬の澄んだ空気の中に花弁が舞った。辺境の白い大地に、色とりどりの花弁が降り注ぐ。その向こうに、リーゼルが蘇らせた緑の大地が広がっている。まだ冬枯れの季節だが、春になればまた花が咲き乱れるだろう。

 村人たちに囲まれ、祝福の言葉を受けながら、リーゼルはふと空を見上げた。高く澄んだ冬空に、雲ひとつない。あの夜会の夜からここまで、長い道のりだった。でも今、自分は世界で一番幸せな場所にいる。

「どうした」

 アレクが隣で問う。

「いいえ。ただ、空がきれいだなと思って」

「そうか」

 それだけ。でもアレクの目も空を見上げていて、その碧い瞳に映る冬空はどこまでも深かった。


  
 祝宴が夜まで続き、村人たちが酔いつぶれて散っていった後、リーゼルとアレクは館の庭に立っていた。

 あの告白の夜と同じ場所。月明かりが銀と金の髪を照らしている。

「アレク様」

「何だ」

「幸せです」

 リーゼルが言うと、アレクは少し間を置いて答えた。

「……俺もだ」

 短い言葉。しかしその声は、リーゼルが聞いた中で最も柔らかかった。

「なあ、リーゼル」

「はい」

「もう『アレク様』はやめろ。お前は俺の妻だ」

 リーゼルは頬を赤くした。

「では……アレク」

 名前だけ呼ぶと、アレクの耳がまた赤くなった。自分で言い出しておいて照れている。その不器用さに、リーゼルは思わず笑った。

 アレクが無言でリーゼルを抱き上げた。突然のことに悲鳴を上げかけたリーゼルの耳元に、低い声が落ちた。

「もう二度と、どこにもやらない」

 腕の中で、リーゼルは微笑んだ。頬を赤く染めたまま、アレクの外套の胸元に顔を埋める。

「逃げるつもりはありませんから」

 月明かりの庭で、二つの影が重なった。

 辺境の夜は静かだった。かつて魔瘴に覆われていた空には、満天の星が輝いている。浄化された大地の下で、春を待つ種子が静かに眠っている。やがて雪が溶け、花が咲き、この土地はもっともっと豊かになるだろう。

 捨てられた聖女は、辺境の地で永遠の愛を手に入れた。

 それは千年に一度の奇跡よりも、ずっと尊いものだった。
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S
2026.02.16 S
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