厄介払いされてしまいました

たくわん

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春の午後の陽光が、侯爵家の応接室に柔らかく降り注いでいた。窓辺に置かれた花瓶には、庭から摘んだばかりの薔薇が活けられている。その芳香が部屋を満たす中、エリアーナ・フォンティーヌは父の言葉を呆然と聞いていた。

「エリアーナ、お前を、グレンフォード伯爵に嫁がせることにした」

侯爵ロベール・フォンティーヌの声は、いつものように冷たく事務的だった。今日は娘の十八歳の誕生日だというのに、祝いの言葉もなく、ただ一方的に結婚を告げる。その態度は、エリアーナにとって驚くべきことではなかった。彼女は生まれてからずっと、この家で厄介者として扱われてきたのだから。

「グレンフォード伯爵と申しますと、どのような方でしょうか」

エリアーナは努めて冷静に尋ねた。心臓が早鐘を打っているが、表情には出さない。感情を表に出さないこと。それが、この家で生き延びるために身につけた処世術だった。

「辺境の、年老いた伯爵だ。六十を過ぎているが、跡継ぎがおらず、若い妻を求めている。お前のような娘には、ちょうどいい話だろう」

ちょうどいい。

その言葉が、エリアーナの胸に鋭く突き刺さった。六十過ぎの老人に、十八歳の娘を嫁がせる。それが「ちょうどいい」のだと、父は平然と言う。

応接室の扉が開き、美しい金髪の女性が優雅に入ってきた。エリアーナの姉、ロザリンドだ。二十歳になる彼女は、フォンティーヌ家の誇りとして両親に溺愛されてきた。完璧な容姿、優雅な立ち振る舞い、社交界での華やかな評判。全てにおいてロザリンドは完璧で、全てにおいてエリアーナは劣っていると、両親は常々言い続けてきた。

「あら、エリアーナ。お誕生日おめでとう」

ロザリンドの声は蜜のように甘かった。しかしその青い瞳には、同情を装った優越感が浮かんでいた。エリアーナはそれが演技だと知っていた。姉は心から彼女を見下し、厄介者が片付くことを喜んでいるのだ。

「ありがとうございます、お姉様」

「辺境に嫁ぐなんて、大変ね。でも、これもあなたのためよ。ここにいても、あなたには良縁は来ないでしょうから」

侯爵夫人のマリアンヌが、溜息混じりに言った。

「本当に。ロザリンドには公爵家や伯爵家から縁談が山ほど来ているのに。エリアーナ、あなたは運が良いわ。あなたのような地味な娘を、伯爵が妻に迎えてくださるなんて」

地味。

それは、エリアーナが生まれてからずっと言われ続けてきた言葉だった。確かに、金髪碧眼の姉と比べれば、栗色の髪と灰色の瞳を持つエリアーナは目立たなかった。華やかさもなく、社交界でちやほやされることもなく、いつも姉の影に隠れていた。

「いつ、出発いたしますか」

エリアーナは感情を押し殺して尋ねた。

「一週間後だ。準備をしておけ」

侯爵の言葉は短く、それ以上の会話を拒絶していた。エリアーナは深く一礼すると、応接室を出た。

廊下を歩きながら、エリアーナは自分の人生を振り返っていた。

五歳の時、初めてロザリンドと比べられた。「お姉様のように美しくなりなさい」と母に言われた。

七歳の時、ピアノの発表会で失敗した。「ロザリンドは完璧に弾けたのに」と父に言われた。

十歳の時、社交界にデビューした。誰も彼女に話しかけず、ロザリンドの周りにだけ人が集まった。

十二歳の時、誕生日パーティーを開いてもらえなかった。「お金の無駄だから」と言われた。

十五歳の時、好きだった本を取り上げられた。「読書などしていないで、もっと女性らしくしなさい」と母に叱られた。

十七歳の時、唯一の友人だった侍女が突然解雇された。「エリアーナに甘い顔をするな」と父が言ったからだ。

そして今、十八歳の誕生日。六十過ぎの老伯爵に、厄介払いのように嫁がされる。

自室に戻る廊下は、いつもより長く感じられた。壁に掛けられた家族の肖像画が、彼女を見下ろしている。そこには、侯爵夫妻とロザリンドの姿があった。三人とも、満面の笑みを浮かべている。

エリアーナの肖像画は、廊下の奥の、誰も通らない場所に追いやられていた。画家も適当に描いたのだろう、どこか生気のない絵だった。

部屋に入ると、エリアーナはベッドに腰を下ろした。窓の外には、美しい庭園が広がっている。色とりどりの花が咲き、噴水が優雅に水を噴き上げている。

幼い頃、エリアーナはあの庭で遊ぶことを許されなかった。

「お前が遊ぶと、庭が汚れる」

母はそう言った。ロザリンドが庭で笑い、両親に褒められる姿を、エリアーナはいつも部屋の窓から眺めるだけだった。

涙が頬を伝った。

悲しいのか、悔しいのか、それとも安堵しているのか。自分でもよくわからなかった。ただ、涙は止まらなかった。

十八年間、ずっと我慢してきた。冷たい言葉に耐え、無視に耐え、比較に耐え、軽蔑に耐えてきた。

もう、これで終わりなのだ。

辺境に行けば、もうこの家に戻ることはない。両親の冷たい視線も、姉の嘲笑も、使用人たちの哀れみの目も、全てから解放される。

そう思うと、不思議と心が軽くなった。

翌日から、エリアーナは旅の準備を始めた。持っていける荷物はわずかだった。母が「辺境にそんな立派な物は必要ない」と言ったからだ。

服は数着だけ。装飾品もなく、宝石もなく、持参金も最低限だった。

「これが、侯爵家の令嬢の嫁入り道具ですか」

使用人の一人が小さく呟いたが、すぐに口を噤んだ。

エリアーナは気にしなかった。物はなくても、知識はある。侯爵家で冷遇されていた間、彼女は無駄に過ごしていたわけではなかった。

使用人たちと一緒に働き、家計の管理を学んだ。料理や洗濯、掃除も一通りできる。刺繍も得意だし、薬草の知識もある。

唯一の友人だった老庭師のトマスは、エリアーナに薬草のことを教えてくれた。ラベンダー、カモミール、セージ、ペパーミント。それぞれの効能、育て方、収穫の時期。

「お嬢様、知識は誰にも奪えない財産ですよ」

トマスの優しい言葉が、今も心に残っている。

出発の前夜、トマスがエリアーナの部屋を訪れた。彼は小さな革の袋を差し出した。

「これを、お持ちください」

中には、薬草の種が入っていた。

「辺境でも、きっと役に立ちます。お嬢様なら、必ず幸せになれる。わたくしは、そう信じております」

老いた庭師の目には、涙が光っていた。

「トマス...」

「お嬢様は、優しくて、賢くて、強い方です。この家の人たちは気づいておりませんが、わたくしは知っております」

エリアーナは、生まれて初めて、心から感謝の言葉を述べた。

「ありがとう、トマス。あなたのことは、決して忘れません」

二人は静かに抱擁を交わした。

出発の朝が来た。

エリアーナは簡素な旅装に身を包み、わずかな荷物を持って玄関に向かった。見送りに来ているのは、使用人たちだけだった。両親もロザリンドも、姿を見せなかった。

老齢の護衛騎士ジョルジュが、馬車の扉を開けてくれた。

「お嬢様、どうぞ」

「ありがとう、ジョルジュ」

馬車に乗り込む前に、エリアーナは振り返った。十八年間暮らした屋敷が、朝日を浴びて輝いている。美しい屋敷だった。でも、彼女にとっては、決して温かい場所ではなかった。

使用人たちが、小さく手を振っている。料理番のマルタは、ハンカチで目を押さえていた。

「皆さん、お元気で」

エリアーナは微笑んで、馬車に乗り込んだ。

馬車が動き出す。屋敷が、庭園が、王都の街並みが、ゆっくりと遠ざかっていく。

窓から外を見つめながら、エリアーナは静かに涙を流した。

悲しみの涙ではなかった。

これは、別れの涙だった。過去との、決別の涙だった。

「お嬢様」

ジョルジュが優しく声をかけた。

「大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫です」

エリアーナは涙を拭い、前を向いた。

もう、後ろは振り返らない。過去に縛られることも、両親の期待に応えようとすることも、姉と比べられることも、もうない。

辺境で、どんな人生が待っているのかはわからない。老いた伯爵がどんな人なのかも、わからない。

でも、ここにいるよりは、きっといい。

自分の力で、自分の幸せを掴み取る。トマスがくれた薬草の種を大切に育て、新しい土地で、新しい人生を築く。

馬車は街道を進んでいく。王都が遠ざかり、見知らぬ景色が広がっていく。

エリアーナ・フォンティーヌの、新しい物語が、今、始まろうとしていた。
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