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夜会の広間は、シャンデリアの灯りと笑い声で満ちていた。フィーネ・ヴァイスベルクは壁際に立ち、手にしたグラスをそっと傾けた。淡い藤色のドレスは仕立ても悪くないはずだが、華やかな令嬢たちの中では溶けるように目立たない。
袖口に視線を落とす。そこにだけ、野ばらの蔓を模した細かな刺繍が施されている。自分で縫ったものだ。この刺繍に気づいた人間は、今夜もいない。
広間の中央では、婚約者のルートヴィヒ・フォン・グランツが踊っていた。相手は子爵令嬢のカミラ・エーデルシュタイン。蜂蜜色の巻き毛に、薔薇のように赤い唇。二人が並ぶと絵画のように美しく、周囲からため息が漏れるのも無理はなかった。
一曲が終わるのを待って、フィーネはルートヴィヒに近づいた。
「ルートヴィヒ様、今夜は楽しんでいらっしゃいますか」
ルートヴィヒは一瞬だけこちらを見て、露骨に目をそらした。
「ああ。——少し話がある。来てくれ」
その声には温度がなかった。
バルコニーの夜風は冷たかった。広間の喧騒が遠くなり、二人の間に沈黙が落ちる。ルートヴィヒは欄干に手をかけたまま、庭の暗闘を見つめていた。
「単刀直入に言う」
フィーネは息を止めた。
「君には華がない。隣にいても、誇れない。この婚約はなかったことにしてほしい」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。夜風が髪を揺らす。遠くで楽団がワルツを奏でている。世界は何も変わっていないのに、足元だけが崩れていくような感覚だった。
「……理由を、教えていただけますか」
声が震えないように喉に力を入れた。ルートヴィヒはようやくこちらを向いたが、その瞳にはもう何の感情も映っていなかった。
「君は良い子だ。真面目で、誠実で、申し分ない。だが——それだけだ」
それだけ。その二文字が、十八年の人生を丸ごと否定されたように響いた。
反論しようとして、言葉が出なかった。何を言えばいい。華がないと言われて、「あります」と返せるほどの自信など持ち合わせていなかった。
ルートヴィヒは踵を返し、広間へ戻っていった。すれ違いざまに微かな香水の残り香がした。カミラの香りだと気づいて、胸の奥が焼けるように痛んだ。
一人残されたバルコニーで、フィーネは唇を噛んだ。泣くものかと思った。こんな場所で、こんな夜に、涙を見せてたまるものか。
指先が震えていた。無意識に袖口をなぞる。指の腹に、刺繍の凹凸が触れた。
野ばらの蔓。母が最初に教えてくれた模様だ。
母——エリーゼ・ヴァイスベルク。かつて王都で「メゾン・フローラ」というドレス工房を営み、貴族の婦人たちに愛された仕立て屋だった。五年前、病で逝った。工房は閉じたまま、屋敷の離れで埃をかぶっている。
母の指は魔法のようだった。一枚の布が、母の手を通ると別のものに変わる。纏った人の頬に自然と赤みが差し、背筋がすっと伸びる。そういう服を作る人だった。
フィーネは母の血を継いでいる。針を持てば時間を忘れ、布を裁てば形が見える。けれどそれは、ただの趣味だと思っていた。伯爵令嬢にふさわしい嗜みのひとつ。それ以上のものだとは、考えたことがなかった。
帰りの馬車の中で、フィーネは膝の上に置いた手をじっと見つめた。針だこのある、華奢とは言えない指。ルートヴィヒの言葉がまだ頭の中で回っている。
華がない。隣にいても、誇れない。
悔しい。
悲しいのではなく、悔しいのだと気づいた。自分が何者であるかも示せないまま、ただ「それだけ」と片づけられたことが。
馬車の窓の外を、街灯の明かりが流れていく。フィーネは袖口の刺繍にもう一度触れた。母の声が聞こえる気がした。
あなたの手には、と。
涙を拭った目の奥に、悲しみとは別のものが灯っていた。小さいけれど、確かな熱を持つ何か。それが怒りなのか決意なのか、まだ自分でもわからない。
ただ、このまま終わりたくないとだけ思った。
袖口に視線を落とす。そこにだけ、野ばらの蔓を模した細かな刺繍が施されている。自分で縫ったものだ。この刺繍に気づいた人間は、今夜もいない。
広間の中央では、婚約者のルートヴィヒ・フォン・グランツが踊っていた。相手は子爵令嬢のカミラ・エーデルシュタイン。蜂蜜色の巻き毛に、薔薇のように赤い唇。二人が並ぶと絵画のように美しく、周囲からため息が漏れるのも無理はなかった。
一曲が終わるのを待って、フィーネはルートヴィヒに近づいた。
「ルートヴィヒ様、今夜は楽しんでいらっしゃいますか」
ルートヴィヒは一瞬だけこちらを見て、露骨に目をそらした。
「ああ。——少し話がある。来てくれ」
その声には温度がなかった。
バルコニーの夜風は冷たかった。広間の喧騒が遠くなり、二人の間に沈黙が落ちる。ルートヴィヒは欄干に手をかけたまま、庭の暗闘を見つめていた。
「単刀直入に言う」
フィーネは息を止めた。
「君には華がない。隣にいても、誇れない。この婚約はなかったことにしてほしい」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。夜風が髪を揺らす。遠くで楽団がワルツを奏でている。世界は何も変わっていないのに、足元だけが崩れていくような感覚だった。
「……理由を、教えていただけますか」
声が震えないように喉に力を入れた。ルートヴィヒはようやくこちらを向いたが、その瞳にはもう何の感情も映っていなかった。
「君は良い子だ。真面目で、誠実で、申し分ない。だが——それだけだ」
それだけ。その二文字が、十八年の人生を丸ごと否定されたように響いた。
反論しようとして、言葉が出なかった。何を言えばいい。華がないと言われて、「あります」と返せるほどの自信など持ち合わせていなかった。
ルートヴィヒは踵を返し、広間へ戻っていった。すれ違いざまに微かな香水の残り香がした。カミラの香りだと気づいて、胸の奥が焼けるように痛んだ。
一人残されたバルコニーで、フィーネは唇を噛んだ。泣くものかと思った。こんな場所で、こんな夜に、涙を見せてたまるものか。
指先が震えていた。無意識に袖口をなぞる。指の腹に、刺繍の凹凸が触れた。
野ばらの蔓。母が最初に教えてくれた模様だ。
母——エリーゼ・ヴァイスベルク。かつて王都で「メゾン・フローラ」というドレス工房を営み、貴族の婦人たちに愛された仕立て屋だった。五年前、病で逝った。工房は閉じたまま、屋敷の離れで埃をかぶっている。
母の指は魔法のようだった。一枚の布が、母の手を通ると別のものに変わる。纏った人の頬に自然と赤みが差し、背筋がすっと伸びる。そういう服を作る人だった。
フィーネは母の血を継いでいる。針を持てば時間を忘れ、布を裁てば形が見える。けれどそれは、ただの趣味だと思っていた。伯爵令嬢にふさわしい嗜みのひとつ。それ以上のものだとは、考えたことがなかった。
帰りの馬車の中で、フィーネは膝の上に置いた手をじっと見つめた。針だこのある、華奢とは言えない指。ルートヴィヒの言葉がまだ頭の中で回っている。
華がない。隣にいても、誇れない。
悔しい。
悲しいのではなく、悔しいのだと気づいた。自分が何者であるかも示せないまま、ただ「それだけ」と片づけられたことが。
馬車の窓の外を、街灯の明かりが流れていく。フィーネは袖口の刺繍にもう一度触れた。母の声が聞こえる気がした。
あなたの手には、と。
涙を拭った目の奥に、悲しみとは別のものが灯っていた。小さいけれど、確かな熱を持つ何か。それが怒りなのか決意なのか、まだ自分でもわからない。
ただ、このまま終わりたくないとだけ思った。
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