2 / 13
2
しおりを挟む
婚約破棄から五日が過ぎた。社交界ではルートヴィヒとカミラの交際が公然の事実として語られ、フィーネの名前はもっぱら同情の文脈で囁かれていた。
「可哀想に、あのヴァイスベルク家のお嬢様」
「でも確かに地味だったわよね」
そういう声が、屋敷にいても伝わってくる。父は食卓で不器用に励ました。
「気にすることはない。お前はお前だ」
優しい言葉だったが、侯爵家に抗議できるだけの力が伯爵家にないことは、フィーネにもわかっていた。父を責める気にはなれない。ただ、屋敷の外に出る気力がなかった。
自室で針仕事をする日が続いた。何かを縫っていないと、ルートヴィヒの声が頭の中で繰り返される。布を裁ち、糸を通し、ひと針ずつ進める。そうしている間だけ、少しだけ息ができた。
三日目の午後、ふと手が止まった。窓の外に、屋敷の離れの屋根が見えた。母の工房だ。
気づけば廊下を歩いていた。離れに続く渡り廊下は薄暗く、使用人もめったに近づかない。重い扉を開けると、埃の匂いが鼻を突いた。
五年間、誰も足を踏み入れていない部屋。午後の光が曇った窓ガラスを通って、白っぽく降り注いでいる。
裁断台の上に布が置きっぱなしになっていた。色が褪せて、元が何色だったのかもわからない。棚には糸巻きが整然と並び、壁には裁断鋏が三本、大きさ順に掛けられている。母がそうしていたように。
フィーネは部屋の奥に進んだ。小さな机の引き出しを開けると、革表紙のデザイン画帳が出てきた。母の手帳だ。
一ページ目を開く。流れるような線で描かれたドレスのスケッチ。袖の形、襟のライン、裾の広がり。どれも見覚えがある。幼い頃、母の隣に座って、この線が生まれるのを飽きもせず眺めていた。
ページをめくるごとに、母の美意識が指先から伝わってくるようだった。大胆な構図と繊細な装飾の調和。流行を追うのではなく、着る人の魅力を引き出すことだけを考えたデザイン。
王都の貴婦人たちが「メゾン・フローラ」を愛した理由が、今ならわかる。母の服は、着る人を変えたのだ。
最後のページに、走り書きがあった。
インクが少しかすれている。母の字だ。病が重くなってからのものだろう、線に力がない。それでも一文字ずつ丁寧に綴られていた。
「フィーネへ。あなたの手には、布に命を吹き込む力がある」
声が出なかった。画帳を胸に抱いて、しばらく動けなかった。
自分の刺繍の腕は、ただの趣味ではなかったのだ。母から受け継いだものだった。あの袖口の野ばらも、誰にも気づかれなかった細かな縫い目も、すべて母の血が指先に教えてくれたものだった。
この工房を、もう一度開きたい。
その思いは、浮かんだ瞬間から胸の中で確かな重さを持った。けれど現実はすぐに追いついてくる。資金がない。職人もいない。伯爵家の財政に余裕がないことは知っている。父にこれ以上の負担はかけられない。
フィーネは画帳をそっと机に戻し、埃だらけの工房を見回した。やりたいことは見つかった。でも、手段がない。
翌日、フィーネは久しぶりに屋敷の外に出た。工房で使えそうな道具を探すつもりで、商業区に足を向けた。
生地屋の店先で、上質な絹の手触りを確かめていた時だった。
「随分真剣な顔で布を睨んでいますね」
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。栗色の髪に、人懐こい笑みを浮かべている。身なりは上等だが、貴族の気配はない。商家の人間だろうと直感した。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ニクラス・ブルーメンタールです。この辺りで商いをしている者ですよ」
ブルーメンタール。聞いたことがある名前だった。王都でも有数の大商家だ。その跡取り息子が、なぜこんな場所で声をかけてくるのか。
フィーネが伯爵令嬢だと名乗っても、ニクラスは態度を変えなかった。むしろ目を丸くして、それから笑った。
「ヴァイスベルク伯爵家。ということは——もしかして、メゾン・フローラのお嬢様ですか」
思わず息を呑んだ。母の工房の名前を、この青年が知っている。
「うちの母が昔、大変お世話になったんですよ。あそこの服を着ると別人になれると、今でも懐かしそうに話します」
母を覚えている人がいた。それだけで、胸の奥が温かくなった。
「可哀想に、あのヴァイスベルク家のお嬢様」
「でも確かに地味だったわよね」
そういう声が、屋敷にいても伝わってくる。父は食卓で不器用に励ました。
「気にすることはない。お前はお前だ」
優しい言葉だったが、侯爵家に抗議できるだけの力が伯爵家にないことは、フィーネにもわかっていた。父を責める気にはなれない。ただ、屋敷の外に出る気力がなかった。
自室で針仕事をする日が続いた。何かを縫っていないと、ルートヴィヒの声が頭の中で繰り返される。布を裁ち、糸を通し、ひと針ずつ進める。そうしている間だけ、少しだけ息ができた。
三日目の午後、ふと手が止まった。窓の外に、屋敷の離れの屋根が見えた。母の工房だ。
気づけば廊下を歩いていた。離れに続く渡り廊下は薄暗く、使用人もめったに近づかない。重い扉を開けると、埃の匂いが鼻を突いた。
五年間、誰も足を踏み入れていない部屋。午後の光が曇った窓ガラスを通って、白っぽく降り注いでいる。
裁断台の上に布が置きっぱなしになっていた。色が褪せて、元が何色だったのかもわからない。棚には糸巻きが整然と並び、壁には裁断鋏が三本、大きさ順に掛けられている。母がそうしていたように。
フィーネは部屋の奥に進んだ。小さな机の引き出しを開けると、革表紙のデザイン画帳が出てきた。母の手帳だ。
一ページ目を開く。流れるような線で描かれたドレスのスケッチ。袖の形、襟のライン、裾の広がり。どれも見覚えがある。幼い頃、母の隣に座って、この線が生まれるのを飽きもせず眺めていた。
ページをめくるごとに、母の美意識が指先から伝わってくるようだった。大胆な構図と繊細な装飾の調和。流行を追うのではなく、着る人の魅力を引き出すことだけを考えたデザイン。
王都の貴婦人たちが「メゾン・フローラ」を愛した理由が、今ならわかる。母の服は、着る人を変えたのだ。
最後のページに、走り書きがあった。
インクが少しかすれている。母の字だ。病が重くなってからのものだろう、線に力がない。それでも一文字ずつ丁寧に綴られていた。
「フィーネへ。あなたの手には、布に命を吹き込む力がある」
声が出なかった。画帳を胸に抱いて、しばらく動けなかった。
自分の刺繍の腕は、ただの趣味ではなかったのだ。母から受け継いだものだった。あの袖口の野ばらも、誰にも気づかれなかった細かな縫い目も、すべて母の血が指先に教えてくれたものだった。
この工房を、もう一度開きたい。
その思いは、浮かんだ瞬間から胸の中で確かな重さを持った。けれど現実はすぐに追いついてくる。資金がない。職人もいない。伯爵家の財政に余裕がないことは知っている。父にこれ以上の負担はかけられない。
フィーネは画帳をそっと机に戻し、埃だらけの工房を見回した。やりたいことは見つかった。でも、手段がない。
翌日、フィーネは久しぶりに屋敷の外に出た。工房で使えそうな道具を探すつもりで、商業区に足を向けた。
生地屋の店先で、上質な絹の手触りを確かめていた時だった。
「随分真剣な顔で布を睨んでいますね」
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。栗色の髪に、人懐こい笑みを浮かべている。身なりは上等だが、貴族の気配はない。商家の人間だろうと直感した。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ニクラス・ブルーメンタールです。この辺りで商いをしている者ですよ」
ブルーメンタール。聞いたことがある名前だった。王都でも有数の大商家だ。その跡取り息子が、なぜこんな場所で声をかけてくるのか。
フィーネが伯爵令嬢だと名乗っても、ニクラスは態度を変えなかった。むしろ目を丸くして、それから笑った。
「ヴァイスベルク伯爵家。ということは——もしかして、メゾン・フローラのお嬢様ですか」
思わず息を呑んだ。母の工房の名前を、この青年が知っている。
「うちの母が昔、大変お世話になったんですよ。あそこの服を着ると別人になれると、今でも懐かしそうに話します」
母を覚えている人がいた。それだけで、胸の奥が温かくなった。
111
あなたにおすすめの小説
家族に裏切られて辺境で幸せを掴む?
しゃーりん
恋愛
婚約者を妹に取られる。
そんな小説みたいなことが本当に起こった。
婚約者が姉から妹に代わるだけ?しかし私はそれを許さず、慰謝料を請求した。
婚約破棄と共に跡継ぎでもなくなったから。
仕事だけをさせようと思っていた父に失望し、伯父のいる辺境に行くことにする。
これからは辺境で仕事に生きよう。そう決めて王都を旅立った。
辺境で新たな出会いがあり、付き合い始めたけど?というお話です。
元婚約者のあなたへ どうか幸せに
石里 唯
恋愛
公爵令嬢ローラは王太子ケネスの婚約者だったが、家が困窮したことから、婚約破棄をされることになる。破棄だけでなく、相愛と信じていたケネスの冷酷な態度に傷つき、最後の挨拶もできず別れる。失意を抱いたローラは、国を出て隣国の大学の奨学生となることを決意する。
隣国は3年前、疫病が広がり大打撃を受け、国全体が復興への熱意に満ち、ローラもその熱意に染まり勉学に勤しむ日々を送っていたところ、ある日、一人の「学生」がローラに声をかけてきて―――。
妹の身代わり人生です。愛してくれた辺境伯の腕の中さえ妹のものになるようです。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。
※※※※※※※※※※※※※
双子として生まれたエレナとエレン。
かつては忌み子とされていた双子も何代か前の王によって、そういった扱いは禁止されたはずだった。
だけどいつの時代でも古い因習に囚われてしまう人達がいる。
エレナにとって不幸だったのはそれが実の両親だったということだった。
両親は妹のエレンだけを我が子(長女)として溺愛し、エレナは家族とさえ認められない日々を過ごしていた。
そんな中でエレンのミスによって辺境伯カナトス卿の令息リオネルがケガを負ってしまう。
療養期間の1年間、娘を差し出すよう求めてくるカナトス卿へ両親が差し出したのは、エレンではなくエレナだった。
エレンのフリをして初恋の相手のリオネルの元に向かうエレナは、そんな中でリオネルから優しさをむけてもらえる。
だが、その優しささえも本当はエレンへ向けられたものなのだ。
自分がニセモノだと知っている。
だから、この1年限りの恋をしよう。
そう心に決めてエレナは1年を過ごし始める。
※※※※※※※※※※※※※
異世界として、その世界特有の法や産物、鉱物、身分制度がある前提で書いています。
現実と違うな、という場面も多いと思います(すみません💦)
ファンタジーという事でゆるくとらえて頂けると助かります💦
完】異端の治癒能力を持つ令嬢は婚約破棄をされ、王宮の侍女として静かに暮らす事を望んだ。なのに!王子、私は侍女ですよ!言い寄られたら困ります!
仰木 あん
恋愛
マリアはエネローワ王国のライオネル伯爵の長女である。
ある日、婚約者のハルト=リッチに呼び出され、婚約破棄を告げられる。
理由はマリアの義理の妹、ソフィアに心変わりしたからだそうだ。
ハルトとソフィアは互いに惹かれ、『真実の愛』に気付いたとのこと…。
マリアは色々な物を継母の連れ子である、ソフィアに奪われてきたが、今度は婚約者か…と、気落ちをして、実家に帰る。
自室にて、過去の母の言葉を思い出す。
マリアには、王国において、異端とされるドルイダスの異能があり、強力な治癒能力で、人を癒すことが出来る事を…
しかしそれは、この国では迫害される恐れがあるため、内緒にするようにと強く言われていた。
そんな母が亡くなり、継母がソフィアを連れて屋敷に入ると、マリアの生活は一変した。
ハルトという婚約者を得て、家を折角出たのに、この始末……。
マリアは父親に願い出る。
家族に邪魔されず、一人で静かに王宮の侍女として働いて生きるため、再び家を出るのだが………
この話はフィクションです。
名前等は実際のものとなんら関係はありません。
聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした
今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。
二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。
しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。
元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。
そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。
が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。
このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。
※ざまぁというよりは改心系です。
※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。
【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。
なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。
本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる