今さら復縁なんて都合が良すぎです

たくわん

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婚約破棄から五日が過ぎた。社交界ではルートヴィヒとカミラの交際が公然の事実として語られ、フィーネの名前はもっぱら同情の文脈で囁かれていた。

「可哀想に、あのヴァイスベルク家のお嬢様」
「でも確かに地味だったわよね」

そういう声が、屋敷にいても伝わってくる。父は食卓で不器用に励ました。

「気にすることはない。お前はお前だ」

優しい言葉だったが、侯爵家に抗議できるだけの力が伯爵家にないことは、フィーネにもわかっていた。父を責める気にはなれない。ただ、屋敷の外に出る気力がなかった。


自室で針仕事をする日が続いた。何かを縫っていないと、ルートヴィヒの声が頭の中で繰り返される。布を裁ち、糸を通し、ひと針ずつ進める。そうしている間だけ、少しだけ息ができた。

三日目の午後、ふと手が止まった。窓の外に、屋敷の離れの屋根が見えた。母の工房だ。

気づけば廊下を歩いていた。離れに続く渡り廊下は薄暗く、使用人もめったに近づかない。重い扉を開けると、埃の匂いが鼻を突いた。

五年間、誰も足を踏み入れていない部屋。午後の光が曇った窓ガラスを通って、白っぽく降り注いでいる。

裁断台の上に布が置きっぱなしになっていた。色が褪せて、元が何色だったのかもわからない。棚には糸巻きが整然と並び、壁には裁断鋏が三本、大きさ順に掛けられている。母がそうしていたように。

フィーネは部屋の奥に進んだ。小さな机の引き出しを開けると、革表紙のデザイン画帳が出てきた。母の手帳だ。

一ページ目を開く。流れるような線で描かれたドレスのスケッチ。袖の形、襟のライン、裾の広がり。どれも見覚えがある。幼い頃、母の隣に座って、この線が生まれるのを飽きもせず眺めていた。

ページをめくるごとに、母の美意識が指先から伝わってくるようだった。大胆な構図と繊細な装飾の調和。流行を追うのではなく、着る人の魅力を引き出すことだけを考えたデザイン。

王都の貴婦人たちが「メゾン・フローラ」を愛した理由が、今ならわかる。母の服は、着る人を変えたのだ。


最後のページに、走り書きがあった。

インクが少しかすれている。母の字だ。病が重くなってからのものだろう、線に力がない。それでも一文字ずつ丁寧に綴られていた。

「フィーネへ。あなたの手には、布に命を吹き込む力がある」

声が出なかった。画帳を胸に抱いて、しばらく動けなかった。

自分の刺繍の腕は、ただの趣味ではなかったのだ。母から受け継いだものだった。あの袖口の野ばらも、誰にも気づかれなかった細かな縫い目も、すべて母の血が指先に教えてくれたものだった。

この工房を、もう一度開きたい。

その思いは、浮かんだ瞬間から胸の中で確かな重さを持った。けれど現実はすぐに追いついてくる。資金がない。職人もいない。伯爵家の財政に余裕がないことは知っている。父にこれ以上の負担はかけられない。

フィーネは画帳をそっと机に戻し、埃だらけの工房を見回した。やりたいことは見つかった。でも、手段がない。


翌日、フィーネは久しぶりに屋敷の外に出た。工房で使えそうな道具を探すつもりで、商業区に足を向けた。

生地屋の店先で、上質な絹の手触りを確かめていた時だった。

「随分真剣な顔で布を睨んでいますね」

振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。栗色の髪に、人懐こい笑みを浮かべている。身なりは上等だが、貴族の気配はない。商家の人間だろうと直感した。

「失礼ですが、どちら様でしょうか」

「ニクラス・ブルーメンタールです。この辺りで商いをしている者ですよ」

ブルーメンタール。聞いたことがある名前だった。王都でも有数の大商家だ。その跡取り息子が、なぜこんな場所で声をかけてくるのか。

フィーネが伯爵令嬢だと名乗っても、ニクラスは態度を変えなかった。むしろ目を丸くして、それから笑った。

「ヴァイスベルク伯爵家。ということは——もしかして、メゾン・フローラのお嬢様ですか」

思わず息を呑んだ。母の工房の名前を、この青年が知っている。

「うちの母が昔、大変お世話になったんですよ。あそこの服を着ると別人になれると、今でも懐かしそうに話します」

母を覚えている人がいた。それだけで、胸の奥が温かくなった。
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