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生地屋の軒先で、フィーネは思いがけず自分の口が動いているのに気づいた。母の工房のこと、五年間閉じたままだったこと、昨日初めて扉を開けたこと。初対面の相手にこんなことを話すつもりはなかったのに、ニクラスの相槌の打ち方がどこか心地よくて、言葉が勝手にこぼれた。
「それで、工房を再開したいと」
ニクラスはわずかに首を傾け、値踏みするような、それでいて楽しそうな目をしていた。
「したい、というか。したいけれど、できるかどうかは別の話です」
「何が足りないんですか」
「全部です。資金も、設備も、人手も」
正直に答えると、ニクラスは腕を組んで少し考え込んだ。それから、思いついたように顔を上げた。
「投資しましょうか」
あまりにあっさりした言い方だった。フィーネは一瞬、冗談かと思って相手の顔を見た。笑ってはいなかった。
「お気持ちはありがたいのですが、慈善を受けるわけには——」
「慈善じゃありません」
ニクラスは片手を振った。
「僕は商人です。儲かると思うから出すんです。メゾン・フローラの名前にはまだ価値がある。あなたのお母上の顧客は、今でも『あの頃の服が忘れられない』と言っている。うちの母がそうであるように」
フィーネは黙った。慈善ではなく投資だと言い切るその態度に、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、対等な取引として扱われていることに、少し背筋が伸びる思いがした。
「条件は一つだけ」
「何でしょうか」
「最初の一着を、うちの母に仕立ててください。あの人、ずっとメゾン・フローラの新作を待ってるんですよ」
その言葉に、胸が詰まった。五年経っても母の工房を覚えていてくれる人がいる。待っていてくれる人がいる。
帰り道、フィーネは何度も立ち止まった。受けるべきか、断るべきか。商家の人間から資金を借りるということは、伯爵令嬢としては眉をひそめられるかもしれない。父に相談すべきだろうか。
けれど、迷いの底にあるのは「やりたい」という感情だった。ルートヴィヒに捨てられて以来、初めて前を向ける気がしていた。
屋敷に戻ったフィーネは、まっすぐ離れの工房に向かった。母の裁縫箱を棚から下ろす。蓋を開けると、針山に刺さったままの針、巻き尺、指ぬき。五年分の埃を払うと、道具たちは変わらずそこにあった。
針を一本抜いた。指先に馴染む重さ。五年ぶりなのに、手が覚えている。
震えていた。緊張なのか、興奮なのか、自分でもわからない。
フィーネは深く息を吸い、裁断台の前に立った。褪せた布を脇にどけ、台を丁寧に拭く。明日からここが、自分の戦場になる。
メゾン・フローラが、もう一度息を吹き返す。
翌朝、フィーネはニクラスの商会を訪ねた。受付の使用人に名を告げると、すぐに応接間に通された。ニクラスはお茶の支度までして待っていた。
「来てくださると思っていましたよ」
「……自信家ですね」
「商人は相手の目を見ます。昨日のあなたの目は、断る目じゃなかった」
悔しいが、その通りだった。フィーネは椅子に座り、姿勢を正した。
「お申し出をお受けします。ただし、いくつか確認させてください」
「どうぞ」
「返済の条件と期限。それから、経営への口出しはどこまでか」
ニクラスは少し驚いたように目を開き、それからにやりと笑った。
「なるほど。商売の話ができる令嬢だ」
条件の交渉は思ったより長くかかった。フィーネは父の領地経営を手伝った経験から数字に明るく、ニクラスの提案に対して的確な質問を返した。ニクラスは最初こそ余裕の表情だったが、途中から前のめりになって議論に応じていた。
最終的に、利益の一定割合を返済に充てること、経営判断はフィーネに一任すること、ただし帳簿は四半期ごとに共有することで合意した。
「いい取引になりそうだ」
ニクラスが手を差し出した。フィーネはその手を握り返した。商人の手だった。硬くて、温かい。
「では、最初の一着——お母様のドレスから始めます」
「楽しみにしています」
握手を解いた後も、掌に温もりが残っていた。フィーネはそれに気づかないふりをして、工房への道を急いだ。やるべきことが山ほどある。感傷に浸っている暇はない。
「それで、工房を再開したいと」
ニクラスはわずかに首を傾け、値踏みするような、それでいて楽しそうな目をしていた。
「したい、というか。したいけれど、できるかどうかは別の話です」
「何が足りないんですか」
「全部です。資金も、設備も、人手も」
正直に答えると、ニクラスは腕を組んで少し考え込んだ。それから、思いついたように顔を上げた。
「投資しましょうか」
あまりにあっさりした言い方だった。フィーネは一瞬、冗談かと思って相手の顔を見た。笑ってはいなかった。
「お気持ちはありがたいのですが、慈善を受けるわけには——」
「慈善じゃありません」
ニクラスは片手を振った。
「僕は商人です。儲かると思うから出すんです。メゾン・フローラの名前にはまだ価値がある。あなたのお母上の顧客は、今でも『あの頃の服が忘れられない』と言っている。うちの母がそうであるように」
フィーネは黙った。慈善ではなく投資だと言い切るその態度に、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、対等な取引として扱われていることに、少し背筋が伸びる思いがした。
「条件は一つだけ」
「何でしょうか」
「最初の一着を、うちの母に仕立ててください。あの人、ずっとメゾン・フローラの新作を待ってるんですよ」
その言葉に、胸が詰まった。五年経っても母の工房を覚えていてくれる人がいる。待っていてくれる人がいる。
帰り道、フィーネは何度も立ち止まった。受けるべきか、断るべきか。商家の人間から資金を借りるということは、伯爵令嬢としては眉をひそめられるかもしれない。父に相談すべきだろうか。
けれど、迷いの底にあるのは「やりたい」という感情だった。ルートヴィヒに捨てられて以来、初めて前を向ける気がしていた。
屋敷に戻ったフィーネは、まっすぐ離れの工房に向かった。母の裁縫箱を棚から下ろす。蓋を開けると、針山に刺さったままの針、巻き尺、指ぬき。五年分の埃を払うと、道具たちは変わらずそこにあった。
針を一本抜いた。指先に馴染む重さ。五年ぶりなのに、手が覚えている。
震えていた。緊張なのか、興奮なのか、自分でもわからない。
フィーネは深く息を吸い、裁断台の前に立った。褪せた布を脇にどけ、台を丁寧に拭く。明日からここが、自分の戦場になる。
メゾン・フローラが、もう一度息を吹き返す。
翌朝、フィーネはニクラスの商会を訪ねた。受付の使用人に名を告げると、すぐに応接間に通された。ニクラスはお茶の支度までして待っていた。
「来てくださると思っていましたよ」
「……自信家ですね」
「商人は相手の目を見ます。昨日のあなたの目は、断る目じゃなかった」
悔しいが、その通りだった。フィーネは椅子に座り、姿勢を正した。
「お申し出をお受けします。ただし、いくつか確認させてください」
「どうぞ」
「返済の条件と期限。それから、経営への口出しはどこまでか」
ニクラスは少し驚いたように目を開き、それからにやりと笑った。
「なるほど。商売の話ができる令嬢だ」
条件の交渉は思ったより長くかかった。フィーネは父の領地経営を手伝った経験から数字に明るく、ニクラスの提案に対して的確な質問を返した。ニクラスは最初こそ余裕の表情だったが、途中から前のめりになって議論に応じていた。
最終的に、利益の一定割合を返済に充てること、経営判断はフィーネに一任すること、ただし帳簿は四半期ごとに共有することで合意した。
「いい取引になりそうだ」
ニクラスが手を差し出した。フィーネはその手を握り返した。商人の手だった。硬くて、温かい。
「では、最初の一着——お母様のドレスから始めます」
「楽しみにしています」
握手を解いた後も、掌に温もりが残っていた。フィーネはそれに気づかないふりをして、工房への道を急いだ。やるべきことが山ほどある。感傷に浸っている暇はない。
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