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春が来た。
メゾン・フローラの工房は、一年前とは別の場所になっていた。針子は七人に増え、隣の空き部屋を借り受けて作業場を広げた。棚には色とりどりの生地が並び、壁にはフィーネのデザイン画が何枚も貼られている。朝から夕方まで、鋏の音と糸を引く音が絶えない。
王妃のドレスを手がけたことで、メゾン・フローラは名実ともに王国を代表する工房となった。貴族の婦人からの注文は途切れることがなく、最近では隣国の大使夫人からも問い合わせが来ている。
フィーネとニクラスの交際は、公然のものになっていた。伯爵令嬢と商家の息子。身分違いの恋だと囁く者もいたが、王妃のお気に入りという事実は大きかった。表立って非難する者は、ほとんどいない。
フィーネの父は最初こそ戸惑ったが、ニクラスと食事を共にした翌日、フィーネにこう言った。
「あの若者は、お前をちゃんと見ている。それで十分だ」
マルガレーテは我がことのように喜び、近所中に触れ回っていた。ニクラスは母を止める気もないようだった。
社交界では、別の変化が起きていた。
ルートヴィヒとカミラの関係は、冬の終わりと共に冷え切っていた。カミラは相変わらず華やかだったが、ルートヴィヒの心がもうここにないことに、さすがに気づき始めていた。
二人が最後に夜会で並んだ時、カミラはルートヴィヒに言った。
「あなた、最近つまらないわ」
ルートヴィヒは否定しなかった。
カミラはそれ以上何も言わず、別の貴公子の方へ歩いていった。執着のない別れだった。カミラにとってルートヴィヒは、多くの選択肢の一つに過ぎなかったのだろう。
ルートヴィヒは一人残された夜会の隅で、不思議な安堵を覚えていた。やっと、自分に嘘をつかなくてよくなった。
侯爵家の跡取りとしてやるべきことは山ほどある。領地の経営を立て直し、父の信頼を取り戻さなければならない。フィーネを失った後悔は消えないだろう。だが、その後悔を抱えたまま、前に進むことはできる。
破滅ではない。ただ、自分の愚かさの代償を、これから長い時間をかけて払っていくだけだ。
カミラの方も、変化の渦中にいた。
社交界でメゾン・フローラのドレスがすっかり定番になる中、カミラは複雑な立場に追い込まれていた。あれほど妨害した工房の服を、今や周囲の令嬢たちがこぞって身につけている。茶会に行けば誰かがフィーネの刺繍を自慢しており、自分だけが取り残されているような気持ちになる。
ある日、意を決してメゾン・フローラに注文しようかと考えた。プライドが邪魔をした。だが、あの工房の服を着なければ、社交界でますます肩身が狭くなる。
カミラは結局、注文の手紙を書きかけて、破いて、また書いて、また破いた。過去の妨害が今の自分を縛っている。因果というのは、こういうものなのかもしれなかった。
春の陽気が満ちた日、メゾン・フローラの一周年記念の小さな催しが開かれた。
工房の前庭にテーブルを出し、花を飾り、焼き菓子とお茶を並べた。大げさな祝宴ではない。お世話になった人たちを招いて、感謝を伝えるためのささやかな集まりだった。
エルマとヨハナ、新しい針子たち。最初の顧客であるマルガレーテ。バルトロメ男爵夫人。ヘルムシュタット伯爵夫人。フィーネの父。そしてニクラス。
フィーネは自らデザインした新作のドレスを着ていた。淡い桜色の生地に、裾に向かって白い花弁が散る刺繍。派手ではない。だが、春の光の中で、フィーネ自身が一輪の花のように見えた。
マルガレーテが目を細めた。
「あなた、綺麗になったわね」
「マルガレーテ様の最初のご注文がなければ、今の私はいません」
「あら、私はただ服を頼んだだけよ。あなたが自分で歩いてきたの」
ヘルムシュタット伯爵夫人が横から口を挟んだ。
「あの舞踏会の夜は忘れられないわ。私の人生で一番褒められた夜だった。全部あなたのおかげよ」
フィーネは一人ひとりに頭を下げた。ここにいる全員が、メゾン・フローラを支えてくれた人たちだ。
父がワインのグラスを掲げた。多くを語らない人だが、目が赤くなっていた。
「母さんも喜んでいるだろう」
それだけで、フィーネは涙が出そうになった。堪えた。今日は笑っていたかった。
催しが終わり、客が帰っていった。針子たちも片づけを終えて引き上げ、工房には二人だけが残った。
春の夕暮れは長い。窓から差し込む光が、工房を琥珀色に染めている。
ニクラスが裁断台に寄りかかって言った。
「最初に会った時のこと、覚えていますか」
「生地屋の前で布を睨んでいた時ですね」
「あの顔が面白くて、つい声をかけたんです。こんなに真剣に布を見る人がいるのかと」
フィーネは笑った。
「あの時は人生最悪の時期でした」
「今は?」
「最高とは言いません。忙しすぎて寝不足ですから」
ニクラスが声を出して笑った。フィーネも笑った。それから、少し真面目な顔になって続けた。
「でも、あの婚約破棄がなかったら、この工房もあなたとの出会いもなかった。そう思うと、不思議ですね」
「感謝しろとは言いませんけどね、あの侯爵子息に」
「しません。絶対に」
二人でまた笑った。
フィーネは棚から母のデザイン画帳を取り出した。革表紙はすっかり手に馴染んでいる。
最後のページを開く。母の走り書き。
「フィーネへ。あなたの手には、布に命を吹き込む力がある」
何度も読んだ言葉。でも、今日はいつもと違うことがしたかった。
鉛筆を取り、母の文字の隣に、小さな花を一輪描いた。丁寧に、一枚ずつ花弁を描く。野ばらでもすずらんでもない、名前のない花。自分だけの花。
ニクラスが後ろからそっと覗き込んだ。何も言わなかった。ただ、フィーネの肩にそっと手を置いた。
母が蒔いた種を、娘が咲かせた。
工房の窓の外で、本物の花が風に揺れている。春の匂いが、開け放した扉から流れ込んでくる。
フィーネは画帳を閉じて、棚に戻した。明日もここで針を持つ。明後日も、その先も。
この花は、これからも咲き続ける。
メゾン・フローラの工房は、一年前とは別の場所になっていた。針子は七人に増え、隣の空き部屋を借り受けて作業場を広げた。棚には色とりどりの生地が並び、壁にはフィーネのデザイン画が何枚も貼られている。朝から夕方まで、鋏の音と糸を引く音が絶えない。
王妃のドレスを手がけたことで、メゾン・フローラは名実ともに王国を代表する工房となった。貴族の婦人からの注文は途切れることがなく、最近では隣国の大使夫人からも問い合わせが来ている。
フィーネとニクラスの交際は、公然のものになっていた。伯爵令嬢と商家の息子。身分違いの恋だと囁く者もいたが、王妃のお気に入りという事実は大きかった。表立って非難する者は、ほとんどいない。
フィーネの父は最初こそ戸惑ったが、ニクラスと食事を共にした翌日、フィーネにこう言った。
「あの若者は、お前をちゃんと見ている。それで十分だ」
マルガレーテは我がことのように喜び、近所中に触れ回っていた。ニクラスは母を止める気もないようだった。
社交界では、別の変化が起きていた。
ルートヴィヒとカミラの関係は、冬の終わりと共に冷え切っていた。カミラは相変わらず華やかだったが、ルートヴィヒの心がもうここにないことに、さすがに気づき始めていた。
二人が最後に夜会で並んだ時、カミラはルートヴィヒに言った。
「あなた、最近つまらないわ」
ルートヴィヒは否定しなかった。
カミラはそれ以上何も言わず、別の貴公子の方へ歩いていった。執着のない別れだった。カミラにとってルートヴィヒは、多くの選択肢の一つに過ぎなかったのだろう。
ルートヴィヒは一人残された夜会の隅で、不思議な安堵を覚えていた。やっと、自分に嘘をつかなくてよくなった。
侯爵家の跡取りとしてやるべきことは山ほどある。領地の経営を立て直し、父の信頼を取り戻さなければならない。フィーネを失った後悔は消えないだろう。だが、その後悔を抱えたまま、前に進むことはできる。
破滅ではない。ただ、自分の愚かさの代償を、これから長い時間をかけて払っていくだけだ。
カミラの方も、変化の渦中にいた。
社交界でメゾン・フローラのドレスがすっかり定番になる中、カミラは複雑な立場に追い込まれていた。あれほど妨害した工房の服を、今や周囲の令嬢たちがこぞって身につけている。茶会に行けば誰かがフィーネの刺繍を自慢しており、自分だけが取り残されているような気持ちになる。
ある日、意を決してメゾン・フローラに注文しようかと考えた。プライドが邪魔をした。だが、あの工房の服を着なければ、社交界でますます肩身が狭くなる。
カミラは結局、注文の手紙を書きかけて、破いて、また書いて、また破いた。過去の妨害が今の自分を縛っている。因果というのは、こういうものなのかもしれなかった。
春の陽気が満ちた日、メゾン・フローラの一周年記念の小さな催しが開かれた。
工房の前庭にテーブルを出し、花を飾り、焼き菓子とお茶を並べた。大げさな祝宴ではない。お世話になった人たちを招いて、感謝を伝えるためのささやかな集まりだった。
エルマとヨハナ、新しい針子たち。最初の顧客であるマルガレーテ。バルトロメ男爵夫人。ヘルムシュタット伯爵夫人。フィーネの父。そしてニクラス。
フィーネは自らデザインした新作のドレスを着ていた。淡い桜色の生地に、裾に向かって白い花弁が散る刺繍。派手ではない。だが、春の光の中で、フィーネ自身が一輪の花のように見えた。
マルガレーテが目を細めた。
「あなた、綺麗になったわね」
「マルガレーテ様の最初のご注文がなければ、今の私はいません」
「あら、私はただ服を頼んだだけよ。あなたが自分で歩いてきたの」
ヘルムシュタット伯爵夫人が横から口を挟んだ。
「あの舞踏会の夜は忘れられないわ。私の人生で一番褒められた夜だった。全部あなたのおかげよ」
フィーネは一人ひとりに頭を下げた。ここにいる全員が、メゾン・フローラを支えてくれた人たちだ。
父がワインのグラスを掲げた。多くを語らない人だが、目が赤くなっていた。
「母さんも喜んでいるだろう」
それだけで、フィーネは涙が出そうになった。堪えた。今日は笑っていたかった。
催しが終わり、客が帰っていった。針子たちも片づけを終えて引き上げ、工房には二人だけが残った。
春の夕暮れは長い。窓から差し込む光が、工房を琥珀色に染めている。
ニクラスが裁断台に寄りかかって言った。
「最初に会った時のこと、覚えていますか」
「生地屋の前で布を睨んでいた時ですね」
「あの顔が面白くて、つい声をかけたんです。こんなに真剣に布を見る人がいるのかと」
フィーネは笑った。
「あの時は人生最悪の時期でした」
「今は?」
「最高とは言いません。忙しすぎて寝不足ですから」
ニクラスが声を出して笑った。フィーネも笑った。それから、少し真面目な顔になって続けた。
「でも、あの婚約破棄がなかったら、この工房もあなたとの出会いもなかった。そう思うと、不思議ですね」
「感謝しろとは言いませんけどね、あの侯爵子息に」
「しません。絶対に」
二人でまた笑った。
フィーネは棚から母のデザイン画帳を取り出した。革表紙はすっかり手に馴染んでいる。
最後のページを開く。母の走り書き。
「フィーネへ。あなたの手には、布に命を吹き込む力がある」
何度も読んだ言葉。でも、今日はいつもと違うことがしたかった。
鉛筆を取り、母の文字の隣に、小さな花を一輪描いた。丁寧に、一枚ずつ花弁を描く。野ばらでもすずらんでもない、名前のない花。自分だけの花。
ニクラスが後ろからそっと覗き込んだ。何も言わなかった。ただ、フィーネの肩にそっと手を置いた。
母が蒔いた種を、娘が咲かせた。
工房の窓の外で、本物の花が風に揺れている。春の匂いが、開け放した扉から流れ込んでくる。
フィーネは画帳を閉じて、棚に戻した。明日もここで針を持つ。明後日も、その先も。
この花は、これからも咲き続ける。
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