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シャンデリアの煌めきが、クラリッサの視界を眩しく照らしていた。
グレイソン侯爵家の大広間は、王国でも指折りの豪華さを誇る。天井から吊るされた三基の巨大なシャンデリアには、それぞれ百を超える蝋燭が灯され、磨き上げられた大理石の床にその光を反射させている。壁には歴代の当主たちの肖像画が並び、この家の格式と歴史を誇示していた。
今夜の舞踏会には、王国の名だたる貴族たちが集っている。色とりどりのドレスをまとった令嬢たちが華やかに談笑し、礼装に身を包んだ紳士たちがグラスを傾けている。楽団の奏でる優雅なワルツが、広間を満たしていた。
クラリッサ・フォンテーヌは、そんな光景の中で一人、壁際に立っていた。
二十歳になったばかりの彼女は、決して美人というわけではないが、知性を感じさせる澄んだ灰色の瞳と、栗色の髪が印象的な女性だった。だが今夜、彼女が着ているドレスは明らかに他の令嬢たちより質素だった。三年前に仕立てたものを手直しして着ている。新しいドレスを作る余裕など、フォンテーヌ伯爵家にはもうないのだ。
クラリッサは、広間の中央で談笑している青年の姿を見つめていた。
ロベルト・グレイソン。侯爵家の嫡男で、今夜の主催者だ。金髪に青い瞳、整った顔立ちと堂々とした立ち振る舞い。社交界きっての好青年として知られている。
そして、クラリッサの婚約者だった。
幼い頃から共に育った二人の婚約は、両家の親たちが決めたものだった。当時、フォンテーヌ伯爵家はまだ裕福で、グレイソン侯爵家との婚姻は釣り合いのとれたものだったのだ。
だが今は違う。
クラリッサの祖父の代からの放蕩と、父の無能な経営により、フォンテーヌ伯爵家の財政は破綻寸前だった。領地は荒れ果て、借金は膨れ上がり、使用人の数も減らさざるを得なかった。社交界での立場も、年々低下していった。
ロベルトの隣には、見慣れない女性が立っていた。
華やかな深紅のドレスに身を包み、黒髪を優雅に結い上げた美女だ。首には大粒のルビーのネックレスが輝き、指には宝石の指輪がいくつも光っている。彼女は媚びるような笑みを浮かべ、ロベルトの腕に寄り添っていた。
イザベラ・ハミルトン。辺境伯の娘で、莫大な持参金を持つことで知られている令嬢だ。美貌と富を兼ね備えた彼女は、この一年で社交界の寵児となっていた。
クラリッサの胸に、嫌な予感が走った。
その時、ロベルトと目が合った。彼は一瞬、躊躇するような表情を見せたが、すぐに決意したような顔つきになった。イザベラを伴い、クラリッサの方へと歩いてくる。
周囲の貴族たちの視線が、一斉に三人に集まった。何かが起こることを、誰もが察しているようだった。
ロベルトはクラリッサの前で立ち止まり、形式的な一礼をした。
「クラリッサ、今夜は来てくれてありがとう。話がある」
彼の声は、かつてのような温かみを失っていた。クラリッサの心臓が、早鐘を打ち始める。
「ロベルト様、お話とは?」
「単刀直入に言おう」
ロベルトは、まるで書類を読み上げるような口調で続けた。
「我々の婚約を、解消したい」
広間が、一瞬にして静まり返った。楽団の演奏も止まり、全ての視線が三人に注がれている。
クラリッサは、予想していたはずなのに、言葉を失った。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。
「理由を、お聞かせ願えますか」
搾り出すような声で、クラリッサは尋ねた。
「君も分かっているだろう。フォンテーヌ伯爵家は、もはや落ちぶれてしまった。借金まみれで、領地経営も破綻寸前だ」
ロベルトは冷たい眼差しで、クラリッサを見下ろした。
「侯爵家の嫡男の妻には、相応しい家格と財力が必要だ。残念だが、君の家はもうそれを満たしていない」
「でも、私たちは幼い頃から……」
「子供の頃の約束など、もう意味はない。これは家同士の問題だ」
ロベルトは、クラリッサの言葉を遮った。そして、隣に立つイザベラの手を取る。
「紹介しよう。イザベラ・ハミルトン嬢だ。私の新しい婚約者となる方だ」
イザベラは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、クラリッサ様。お噂はかねがね伺っておりました」
その声には、明らかな嘲りが含まれていた。
「ロベルト様は、私のような者を選んでくださいました。やはり男性は、美しくて財力のある女性をお望みなのですわね」
周囲から、くすくすという笑い声が漏れた。何人かの令嬢たちが、扇で口元を隠しながら囁き合っている。
「可哀想に」「でも仕方ないわ」「あの家では、ね」
クラリッサの頬が、屈辱で熱くなった。だが、ここで取り乱すわけにはいかない。それこそ、彼らの思う壺だ。
「分かりました」
クラリッサは、精一杯の冷静さを装って答えた。
「ロベルト様のご判断を、尊重いたします。お幸せに」
そう言って、深々と一礼する。背筋を伸ばし、涙を堪えながら。
「では、失礼いたします」
クラリッサは踵を返し、広間を出ようとした。だが、イザベラの声が背中に突き刺さる。
「まあ、なんて潔いこと。でも、貧乏貴族の娘ごときが、侯爵家の嫡男と結婚できると思っていたなんて、滑稽ですわね」
笑い声が、再び広間に響いた。今度は、明確な嘲笑だった。
クラリッサは振り返らず、そのまま大広間を後にした。廊下に出ても、足を止めなかった。階段を降り、玄関を抜け、馬車が待つ中庭へと向かう。
馬車に乗り込んでようやく、クラリッサの目から涙が溢れ出した。
悔しかった。屈辱的だった。何より、ロベルトの冷たい目が忘れられなかった。
幼い頃、彼は優しかった。庭で一緒に遊び、本を読み、将来の夢を語り合った。いつか結婚して、共に幸せな家庭を築こうと約束した。
だが、それは全て幻だったのだ。
馬車が動き出し、グレイソン侯爵家の屋敷が遠ざかっていく。クラリッサは窓の外を見つめながら、涙を拭った。
フォンテーヌ伯爵家の屋敷に着いたのは、深夜だった。
かつては立派だった屋敷も、今では随所に老朽化の跡が見える。庭の手入れも行き届いておらず、雑草が伸び放題だ。使用人の数も減り、夜はひっそりとしている。
執事のセバスチャンが、玄関で出迎えてくれた。六十を過ぎた老執事は、フォンテーヌ家に三十年以上仕えている。
「お帰りなさいませ、クラリッサ様」
彼は、クラリッサの顔を見て全てを悟ったようだった。
「お疲れでしょう。温かいお茶をお持ちしますので、書斎でお休みください」
「ありがとう、セバスチャン」
クラリッサは、自室ではなく父の書斎へと向かった。そこには、伯爵家の全ての帳簿が保管されている。
書斎に入り、ランプに火を灯す。壁一面の書棚には、代々の記録や帳簿が並んでいた。クラリッサは、最新の帳簿を取り出し、机に広げた。
数字が、無慈悲な現実を突きつけてくる。
借金総額は、年間収入の五倍を超えていた。利子の支払いだけで精一杯で、元金はほとんど減っていない。領地からの収入は年々減少し、小作人たちの生活も困窮していた。
このままでは、あと数年で完全に破綻する。
クラリッサは、ページをめくりながら深く息を吐いた。
その時だった。
突然、頭の中に鮮明な映像が流れ込んできた。
別の人生。別の世界。日本という国で、公務員として働いていた記憶。大学で農学を学び、地方自治体の農政課で農業振興に携わっていた日々。
前世の記憶だ。
クラリッサは、思わず机に手をついた。あまりにも鮮明で、圧倒的な情報量に目眩がする。
だが、それは単なる記憶ではなかった。知識だ。現代日本の農業技術、経営理論、流通システム。三圃制、輪作、品種改良、堆肥、灌漑。そして、簿記、マーケティング、リスク管理。
全てが、頭の中で繋がっていく。
この世界の農業は、あまりにも原始的だ。二圃制すらまともに機能しておらず、連作障害や土壌劣化が蔓延している。流通も非効率で、生産者が正当な利益を得られていない。
でも、もし前世の知識を応用できれば。
クラリッサは、帳簿を見つめた。絶望的に見えた数字が、違って見えてくる。
不可能ではない。時間はかかるが、この領地を立て直すことができる。
ロベルトは、彼女を捨てた。家が落ちぶれたからと、冷たく切り捨てた。イザベラは、勝ち誇った笑みを浮かべた。社交界の貴族たちは、嘲笑した。
ならば、見せてやろう。
クラリッサは、ゆっくりと立ち上がった。涙はもう止まっていた。代わりに、瞳には強い決意の光が宿っている。
「この領地を、必ず立て直してみせる」
小さく、だがはっきりと、彼女は誓った。
「そして、私を見捨てたことを、後悔させてやる」
書斎の窓から、月明かりが差し込んでいた。その光の中で、クラリッサは一人、拳を握りしめた。
翌朝、クラリッサは父を訪ねた。
エドウィン・フォンテーヌ伯爵は、書斎で書類に目を通していた。五十を過ぎた伯爵は、優しい性格だが領地経営には向いていない。先代の放蕩のツケを払わされ、ただ右往左往するばかりだった。
「父上、お話があります」
「クラリッサか。昨夜の舞踏会は、どうだったかね」
伯爵は、娘の表情を見て言葉を詰まらせた。
「やはり、そうか」
「はい。ロベルト様から、婚約解消を告げられました」
クラリッサは、淡々と報告した。
「すまない、クラリッサ。全て、父の不甲斐なさのせいだ」
伯爵は、顔を覆った。その肩が、小刻みに震えている。
「父上」
クラリッサは、父の前に膝をついた。
「私に、領地経営を任せていただけませんか」
伯爵は、顔を上げた。驚きと困惑が、その表情に浮かんでいる。
「お前に? だが、お前は……」
「女だから、ですか? でも、このままでは家が潰れます。私には、考えがあります。この領地を立て直す自信があります」
クラリッサの目は、真剣だった。その眼差しに、伯爵は圧倒される。
「分かった。お前に任せよう」
長い沈黙の後、伯爵は頷いた。
「もう、失うものなど何もない。お前の好きにしなさい」
「ありがとうございます、父上」
クラリッサは、深々と頭を下げた。そして、立ち上がる。
「必ず、この家を立て直してみせます」
書斎を出たクラリッサは、廊下でセバスチャンと会計係のヘンリーを呼び止めた。
「お二人に、お願いがあります。明日、領地の視察に同行していただけますか」
「領地の視察、ですか」
セバスチャンは、驚いた様子だった。
「はい。この目で、全てを確かめたいのです。領地の現状を、正確に把握しなければなりません」
「承知いたしました、クラリッサ様」
二人は、一礼した。
クラリッサは、自室へと戻った。窓から見える荒れ果てた庭を見つめながら、彼女は小さく呟いた。
「始まりよ。私の、復讐が」
グレイソン侯爵家の大広間は、王国でも指折りの豪華さを誇る。天井から吊るされた三基の巨大なシャンデリアには、それぞれ百を超える蝋燭が灯され、磨き上げられた大理石の床にその光を反射させている。壁には歴代の当主たちの肖像画が並び、この家の格式と歴史を誇示していた。
今夜の舞踏会には、王国の名だたる貴族たちが集っている。色とりどりのドレスをまとった令嬢たちが華やかに談笑し、礼装に身を包んだ紳士たちがグラスを傾けている。楽団の奏でる優雅なワルツが、広間を満たしていた。
クラリッサ・フォンテーヌは、そんな光景の中で一人、壁際に立っていた。
二十歳になったばかりの彼女は、決して美人というわけではないが、知性を感じさせる澄んだ灰色の瞳と、栗色の髪が印象的な女性だった。だが今夜、彼女が着ているドレスは明らかに他の令嬢たちより質素だった。三年前に仕立てたものを手直しして着ている。新しいドレスを作る余裕など、フォンテーヌ伯爵家にはもうないのだ。
クラリッサは、広間の中央で談笑している青年の姿を見つめていた。
ロベルト・グレイソン。侯爵家の嫡男で、今夜の主催者だ。金髪に青い瞳、整った顔立ちと堂々とした立ち振る舞い。社交界きっての好青年として知られている。
そして、クラリッサの婚約者だった。
幼い頃から共に育った二人の婚約は、両家の親たちが決めたものだった。当時、フォンテーヌ伯爵家はまだ裕福で、グレイソン侯爵家との婚姻は釣り合いのとれたものだったのだ。
だが今は違う。
クラリッサの祖父の代からの放蕩と、父の無能な経営により、フォンテーヌ伯爵家の財政は破綻寸前だった。領地は荒れ果て、借金は膨れ上がり、使用人の数も減らさざるを得なかった。社交界での立場も、年々低下していった。
ロベルトの隣には、見慣れない女性が立っていた。
華やかな深紅のドレスに身を包み、黒髪を優雅に結い上げた美女だ。首には大粒のルビーのネックレスが輝き、指には宝石の指輪がいくつも光っている。彼女は媚びるような笑みを浮かべ、ロベルトの腕に寄り添っていた。
イザベラ・ハミルトン。辺境伯の娘で、莫大な持参金を持つことで知られている令嬢だ。美貌と富を兼ね備えた彼女は、この一年で社交界の寵児となっていた。
クラリッサの胸に、嫌な予感が走った。
その時、ロベルトと目が合った。彼は一瞬、躊躇するような表情を見せたが、すぐに決意したような顔つきになった。イザベラを伴い、クラリッサの方へと歩いてくる。
周囲の貴族たちの視線が、一斉に三人に集まった。何かが起こることを、誰もが察しているようだった。
ロベルトはクラリッサの前で立ち止まり、形式的な一礼をした。
「クラリッサ、今夜は来てくれてありがとう。話がある」
彼の声は、かつてのような温かみを失っていた。クラリッサの心臓が、早鐘を打ち始める。
「ロベルト様、お話とは?」
「単刀直入に言おう」
ロベルトは、まるで書類を読み上げるような口調で続けた。
「我々の婚約を、解消したい」
広間が、一瞬にして静まり返った。楽団の演奏も止まり、全ての視線が三人に注がれている。
クラリッサは、予想していたはずなのに、言葉を失った。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。
「理由を、お聞かせ願えますか」
搾り出すような声で、クラリッサは尋ねた。
「君も分かっているだろう。フォンテーヌ伯爵家は、もはや落ちぶれてしまった。借金まみれで、領地経営も破綻寸前だ」
ロベルトは冷たい眼差しで、クラリッサを見下ろした。
「侯爵家の嫡男の妻には、相応しい家格と財力が必要だ。残念だが、君の家はもうそれを満たしていない」
「でも、私たちは幼い頃から……」
「子供の頃の約束など、もう意味はない。これは家同士の問題だ」
ロベルトは、クラリッサの言葉を遮った。そして、隣に立つイザベラの手を取る。
「紹介しよう。イザベラ・ハミルトン嬢だ。私の新しい婚約者となる方だ」
イザベラは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、クラリッサ様。お噂はかねがね伺っておりました」
その声には、明らかな嘲りが含まれていた。
「ロベルト様は、私のような者を選んでくださいました。やはり男性は、美しくて財力のある女性をお望みなのですわね」
周囲から、くすくすという笑い声が漏れた。何人かの令嬢たちが、扇で口元を隠しながら囁き合っている。
「可哀想に」「でも仕方ないわ」「あの家では、ね」
クラリッサの頬が、屈辱で熱くなった。だが、ここで取り乱すわけにはいかない。それこそ、彼らの思う壺だ。
「分かりました」
クラリッサは、精一杯の冷静さを装って答えた。
「ロベルト様のご判断を、尊重いたします。お幸せに」
そう言って、深々と一礼する。背筋を伸ばし、涙を堪えながら。
「では、失礼いたします」
クラリッサは踵を返し、広間を出ようとした。だが、イザベラの声が背中に突き刺さる。
「まあ、なんて潔いこと。でも、貧乏貴族の娘ごときが、侯爵家の嫡男と結婚できると思っていたなんて、滑稽ですわね」
笑い声が、再び広間に響いた。今度は、明確な嘲笑だった。
クラリッサは振り返らず、そのまま大広間を後にした。廊下に出ても、足を止めなかった。階段を降り、玄関を抜け、馬車が待つ中庭へと向かう。
馬車に乗り込んでようやく、クラリッサの目から涙が溢れ出した。
悔しかった。屈辱的だった。何より、ロベルトの冷たい目が忘れられなかった。
幼い頃、彼は優しかった。庭で一緒に遊び、本を読み、将来の夢を語り合った。いつか結婚して、共に幸せな家庭を築こうと約束した。
だが、それは全て幻だったのだ。
馬車が動き出し、グレイソン侯爵家の屋敷が遠ざかっていく。クラリッサは窓の外を見つめながら、涙を拭った。
フォンテーヌ伯爵家の屋敷に着いたのは、深夜だった。
かつては立派だった屋敷も、今では随所に老朽化の跡が見える。庭の手入れも行き届いておらず、雑草が伸び放題だ。使用人の数も減り、夜はひっそりとしている。
執事のセバスチャンが、玄関で出迎えてくれた。六十を過ぎた老執事は、フォンテーヌ家に三十年以上仕えている。
「お帰りなさいませ、クラリッサ様」
彼は、クラリッサの顔を見て全てを悟ったようだった。
「お疲れでしょう。温かいお茶をお持ちしますので、書斎でお休みください」
「ありがとう、セバスチャン」
クラリッサは、自室ではなく父の書斎へと向かった。そこには、伯爵家の全ての帳簿が保管されている。
書斎に入り、ランプに火を灯す。壁一面の書棚には、代々の記録や帳簿が並んでいた。クラリッサは、最新の帳簿を取り出し、机に広げた。
数字が、無慈悲な現実を突きつけてくる。
借金総額は、年間収入の五倍を超えていた。利子の支払いだけで精一杯で、元金はほとんど減っていない。領地からの収入は年々減少し、小作人たちの生活も困窮していた。
このままでは、あと数年で完全に破綻する。
クラリッサは、ページをめくりながら深く息を吐いた。
その時だった。
突然、頭の中に鮮明な映像が流れ込んできた。
別の人生。別の世界。日本という国で、公務員として働いていた記憶。大学で農学を学び、地方自治体の農政課で農業振興に携わっていた日々。
前世の記憶だ。
クラリッサは、思わず机に手をついた。あまりにも鮮明で、圧倒的な情報量に目眩がする。
だが、それは単なる記憶ではなかった。知識だ。現代日本の農業技術、経営理論、流通システム。三圃制、輪作、品種改良、堆肥、灌漑。そして、簿記、マーケティング、リスク管理。
全てが、頭の中で繋がっていく。
この世界の農業は、あまりにも原始的だ。二圃制すらまともに機能しておらず、連作障害や土壌劣化が蔓延している。流通も非効率で、生産者が正当な利益を得られていない。
でも、もし前世の知識を応用できれば。
クラリッサは、帳簿を見つめた。絶望的に見えた数字が、違って見えてくる。
不可能ではない。時間はかかるが、この領地を立て直すことができる。
ロベルトは、彼女を捨てた。家が落ちぶれたからと、冷たく切り捨てた。イザベラは、勝ち誇った笑みを浮かべた。社交界の貴族たちは、嘲笑した。
ならば、見せてやろう。
クラリッサは、ゆっくりと立ち上がった。涙はもう止まっていた。代わりに、瞳には強い決意の光が宿っている。
「この領地を、必ず立て直してみせる」
小さく、だがはっきりと、彼女は誓った。
「そして、私を見捨てたことを、後悔させてやる」
書斎の窓から、月明かりが差し込んでいた。その光の中で、クラリッサは一人、拳を握りしめた。
翌朝、クラリッサは父を訪ねた。
エドウィン・フォンテーヌ伯爵は、書斎で書類に目を通していた。五十を過ぎた伯爵は、優しい性格だが領地経営には向いていない。先代の放蕩のツケを払わされ、ただ右往左往するばかりだった。
「父上、お話があります」
「クラリッサか。昨夜の舞踏会は、どうだったかね」
伯爵は、娘の表情を見て言葉を詰まらせた。
「やはり、そうか」
「はい。ロベルト様から、婚約解消を告げられました」
クラリッサは、淡々と報告した。
「すまない、クラリッサ。全て、父の不甲斐なさのせいだ」
伯爵は、顔を覆った。その肩が、小刻みに震えている。
「父上」
クラリッサは、父の前に膝をついた。
「私に、領地経営を任せていただけませんか」
伯爵は、顔を上げた。驚きと困惑が、その表情に浮かんでいる。
「お前に? だが、お前は……」
「女だから、ですか? でも、このままでは家が潰れます。私には、考えがあります。この領地を立て直す自信があります」
クラリッサの目は、真剣だった。その眼差しに、伯爵は圧倒される。
「分かった。お前に任せよう」
長い沈黙の後、伯爵は頷いた。
「もう、失うものなど何もない。お前の好きにしなさい」
「ありがとうございます、父上」
クラリッサは、深々と頭を下げた。そして、立ち上がる。
「必ず、この家を立て直してみせます」
書斎を出たクラリッサは、廊下でセバスチャンと会計係のヘンリーを呼び止めた。
「お二人に、お願いがあります。明日、領地の視察に同行していただけますか」
「領地の視察、ですか」
セバスチャンは、驚いた様子だった。
「はい。この目で、全てを確かめたいのです。領地の現状を、正確に把握しなければなりません」
「承知いたしました、クラリッサ様」
二人は、一礼した。
クラリッサは、自室へと戻った。窓から見える荒れ果てた庭を見つめながら、彼女は小さく呟いた。
「始まりよ。私の、復讐が」
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