もう、あなたには何も感じません

たくわん

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朝靄の中、クラリッサは馬車に揺られていた。

セバスチャンとヘンリーを伴い、領地の視察へと向かう。屋敷を出てしばらくは、まだ見慣れた景色が続いていた。だが、領地の奥へと進むにつれ、その荒廃ぶりが露わになっていく。

道は轍で凸凹になり、馬車が激しく揺れた。雑草が道の両脇から侵食し、所々で通行を妨げている。かつては整備されていた用水路も、泥で詰まり機能していなかった。

「ここまで、酷いとは」

クラリッサは、窓の外を見つめながら呟いた。

畑が見えてきた。だが、それは畑と呼べるようなものではなかった。

土は痩せて灰色がかり、作物は貧弱に育っている。小麦の穂は小さく、まばらだ。雑草が畑の半分を覆い、農民たちは疲れ切った様子で草取りをしていた。

馬車が止まり、クラリッサたちは降り立った。

近くで作業をしていた農民たちが、驚いた様子でこちらを見る。領主の娘が、こんな場所に来ることなど滅多にない。

「ごきげんよう」

クラリッサは、にこやかに挨拶した。農民たちは慌てて農具を置き、頭を下げる。

「これは、お嬢様。こんな汚い場所に、わざわざ」

年老いた農夫が、恐縮した様子で答えた。

「いいえ、私はこの領地の全てを見たいのです。どうか、普段通りに作業を続けてください」

クラリッサは、畑に近づいた。土を手に取り、指で揉んでみる。

土壌は完全に劣化していた。有機物がほとんど含まれず、保水力も低い。これでは、まともな作物など育つはずがない。

「毎年、収穫量が減っていくんです」

農夫が、諦めたような声で言った。

「肥料も満足に買えず、種も良いものが手に入らない。どんなに働いても、生活は苦しくなるばかりで」

クラリッサは、立ち上がって畑全体を見渡した。前世の知識が、頭の中で情報を整理していく。

連作障害だ。同じ作物を同じ畑で作り続けた結果、土壌が疲弊している。加えて、堆肥の不足で有機物が補給されていない。輪作も行われておらず、病害虫も蔓延している。

だが、これは改善できる。時間はかかるが、確実に。

「分かりました。必ず、良くします」

クラリッサの言葉に、農民たちは困惑した表情を浮かべた。若い令嬢が何を言っているのか、理解できないという顔だ。

馬車は、さらに領地を巡った。

どの畑も同じような状態だった。痩せた土地、貧弱な作物、疲弊した農民たち。家畜も痩せ細り、数も少ない。

村の中心部に着いた頃には、すでに昼を過ぎていた。

村には三十戸ほどの家があったが、どれも老朽化が進んでいる。屋根の藁は所々で剥がれ、壁には亀裂が走っていた。子供たちは痩せており、服は継ぎ接ぎだらけだ。

村長の家を訪ね、クラリッサたちは招き入れられた。

村長のトーマスは、五十を過ぎた頑健そうな男だった。だが、その顔には深い疲労の色が浮かんでいる。

「お嬢様が、わざわざこんな村まで。何か、ご用でしょうか」

「はい。領地の現状を、正確に把握したいのです。教えていただけますか」

クラリッサは、真剣な眼差しで尋ねた。

トーマスは、しばらく黙っていた。だが、やがて重い口を開く。

「正直に申し上げます。このままでは、村は持ちません」

「詳しく聞かせてください」

「収穫量は、十年前の半分以下です。それなのに、税は変わらない。いや、借金の返済のために、むしろ増えています」

トーマスの声には、怒りと絶望が混じっていた。

「村人の半分は、まともな食事が取れていません。子供たちは栄養失調で、毎年何人かが病気で死んでいきます」

「そんな」

クラリッサは、息を呑んだ。

「若者たちは、次々と村を出ていきます。王都や他の領地へ。ここに留まっても、未来がないからです」

「村長」

セバスチャンが、咎めるような声を出した。

「お嬢様に、そのような」

「いいえ、セバスチャン」

クラリッサは、執事を制した。

「事実を知らなければ、何も変えられません。村長、続けてください」

トーマスは、クラリッサをじっと見つめた。その目には、一縷の希望が宿っている。

「お嬢様は、本気で何かを変えようとしておられるのですか」

「ええ。この領地を、必ず立て直します」

クラリッサの声には、強い決意が込められていた。

「私は、今日ここに来て全てを見ました。そして、分かったのです。このままでは、本当に終わってしまうと」

トーマスの目から、一筋の涙が流れた。

「お嬢様。私たちは、もう諦めかけていました。でも、もし本当に何か変えてくださるなら」

「変えます。約束します」

クラリッサは、力強く頷いた。

村長の家を後にし、クラリッサたちは領地をさらに巡った。森、川、放牧地。全てが、荒廃していた。

夕暮れ時、屋敷に戻った。

書斎で、クラリッサはセバスチャンとヘンリーを呼んだ。二人の前に、メモ用紙を広げる。

「今日、見たものを整理しました」

クラリッサは、几帳面な文字で書かれたリストを指差した。

「問題点は、大きく分けて五つです」

「五つ、ですか」

ヘンリーが、興味深そうに身を乗り出した。若い会計係は、数字に強く、真面目な性格だった。

「第一に、土壌の劣化。連作と堆肥不足で、畑の生産性が著しく低下しています」

「確かに。昔は、もっと豊かな土だったと聞きます」

セバスチャンが、頷いた。

「第二に、農業技術の遅れ。効率的な栽培方法や、輪作の概念すらありません」

「輪作、とは?」

「作物を順番に植え替えることで、土を休ませる方法です。後ほど詳しく説明します」

クラリッサは、続けた。

「第三に、流通の問題。収穫物を適正価格で売る手段がなく、商人に買い叩かれています」

「それは、以前から問題視されていました」

ヘンリーが、帳簿を開いた。

「収穫量が減っているのに、売上はさらに減少しています。つまり、価格も下がっているということです」

「第四に、人口の流出。若い働き手が、次々と領地を離れています」

「今年だけで、十五人が出ていきました」

セバスチャンが、悲しそうに答えた。

「そして第五に、最も深刻な問題」

クラリッサは、深く息を吸った。

「借金です」

ヘンリーが、分厚い帳簿を開いた。そこには、膨大な数字が並んでいる。

「現在の借金総額は、金貨八万枚。年間収入が金貨一万五千枚ですから、その五倍以上です」

「五倍」

クラリッサは、改めてその数字に圧倒された。

「利子の支払いだけで、年間金貨四千枚。収入の四分の一以上が、利子に消えています」

「元金は、ほとんど返済できていないのですね」

「はい。このままでは、あと三年で完全に破綻します」

ヘンリーの声は、震えていた。

部屋に、重い沈黙が降りた。

セバスチャンが、ゆっくりと口を開く。

「お嬢様。私は、この家に三十年以上仕えてまいりました。先代様の時代から、衰退を見続けてきました」

老執事の目には、涙が浮かんでいた。

「正直に申し上げます。私は、もう諦めていました。この家は、終わりだと」

「セバスチャン」

「ですが、今日のお嬢様を見て、思ったのです。もしかしたら、と」

セバスチャンは、膝をついた。

「どうか、この老いぼれにも、お力添えをさせてください。お嬢様が本気で領地を立て直そうとしておられるなら、この命に代えても」

「顔を上げてください、セバスチャン」

クラリッサは、優しく執事の肩に手を置いた。

「私には、あなたの力が必要です。でも、命を賭けるなんて大げさなことではありません」

彼女は、微笑んだ。

「一緒に、この領地を良くしていきましょう。一歩ずつ、確実に」

「お嬢様」

ヘンリーも、立ち上がった。

「私も、微力ながらお手伝いさせてください。数字のことなら、お任せください」

「ありがとう、ヘンリー」

クラリッサは、二人を見回した。

「では、明日から本格的に動き出します。まずは、土壌の改良から」

「土壌の改良、ですか」

「はい。全ての基本は、土です。良い土があれば、良い作物が育つ。良い作物が育てば、収入が増える。収入が増えれば、借金を返せる」

クラリッサの目は、輝いていた。

「簡単ではありません。時間もかかります。でも、必ずできます」

「お嬢様は、どこでそのような知識を」

セバスチャンが、不思議そうに尋ねた。

「本で読んだのです」

クラリッサは、嘘をついた。前世の記憶のことは、まだ誰にも言えない。

「様々な国の農業書を読み、研究しました。そこで学んだことを、この領地で実践したいのです」

「なるほど」

ヘンリーが、感心したように頷いた。

「では、具体的には何から始めるのですか」

「まず、農民たちを集めて説明会を開きます。新しい農法について、理解してもらう必要があります」

クラリッサは、メモを取りながら続けた。

「そして、試験的に小規模な畑で新しい方法を実践します。成果が出れば、農民たちも信じてくれるでしょう」

「なるほど。いきなり全てを変えるのではなく、段階的に、ということですね」

「その通りです」

クラリッサは、立ち上がった。窓の外は、すっかり暗くなっていた。

「長い戦いになります。でも、必ず勝ちます」

彼女の横顔は、月明かりに照らされて凛々しく見えた。

その夜、クラリッサは一人、書斎に残った。

ランプの灯りの下で、彼女は詳細な計画を書き始めた。前世の知識が、次々と形になっていく。

三圃制の導入。堆肥の製造方法。輪作の年次計画。品種の選定。灌漑設備の改良。

全てを、この世界の技術レベルで実現可能な形に落とし込んでいく。魔法のない世界だからこそ、地道な積み重ねが全てだ。

ふと、ロベルトの顔が脳裏に浮かんだ。

あの冷たい目。嘲笑するイザベラ。笑い声を上げる貴族たち。

クラリッサは、ペンを握る手に力を込めた。

「見ていなさい。私を捨てたことを、必ず後悔させてあげる」

小さく呟き、彼女は再び計画書に向かった。

窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。荒れ果てた庭の向こうに、領地の畑が広がっている。

今は荒廃しているが、いつか必ず、豊かな黄金色の麦畑に変わる。

クラリッサは、そう信じていた。

翌朝、クラリッサは父を訪ねた。

エドウィン伯爵は、朝食を取りながら新聞を読んでいた。娘の姿を見て、顔を上げる。

「おはよう、クラリッサ。昨日の視察は、どうだったかね」

「おはようございます、父上。現状を、しっかりと把握できました」

クラリッサは、父の向かいに座った。

「そして、改革の計画を立てました。お許しをいただきたいのです」

「改革、か」

伯爵は、新聞を置いた。

「具体的には、何をするのかね」

「まず、農業技術の改善です。新しい農法を導入し、収穫量を増やします」

「新しい農法? そんなものが、本当にあるのか」

「はい。私が本で学んだ方法です。必ず成果が出ます」

クラリッサの確信に満ちた声に、伯爵は少し驚いた様子だった。

「分かった。お前に任せると言った。好きにしなさい」

「ありがとうございます」

クラリッサは、立ち上がった。

「必ず、結果を出してみせます」

父の書斎を出ると、セバスチャンが待っていた。

「お嬢様、村長に使いを出しました。明日、村の広場で説明会を開くと伝えてあります」

「ありがとう、セバスチャン。では、資料の準備をしましょう」

クラリッサは、書斎へと向かった。

長い戦いの、始まりだった。
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