2 / 20
2
しおりを挟む
朝靄の中、クラリッサは馬車に揺られていた。
セバスチャンとヘンリーを伴い、領地の視察へと向かう。屋敷を出てしばらくは、まだ見慣れた景色が続いていた。だが、領地の奥へと進むにつれ、その荒廃ぶりが露わになっていく。
道は轍で凸凹になり、馬車が激しく揺れた。雑草が道の両脇から侵食し、所々で通行を妨げている。かつては整備されていた用水路も、泥で詰まり機能していなかった。
「ここまで、酷いとは」
クラリッサは、窓の外を見つめながら呟いた。
畑が見えてきた。だが、それは畑と呼べるようなものではなかった。
土は痩せて灰色がかり、作物は貧弱に育っている。小麦の穂は小さく、まばらだ。雑草が畑の半分を覆い、農民たちは疲れ切った様子で草取りをしていた。
馬車が止まり、クラリッサたちは降り立った。
近くで作業をしていた農民たちが、驚いた様子でこちらを見る。領主の娘が、こんな場所に来ることなど滅多にない。
「ごきげんよう」
クラリッサは、にこやかに挨拶した。農民たちは慌てて農具を置き、頭を下げる。
「これは、お嬢様。こんな汚い場所に、わざわざ」
年老いた農夫が、恐縮した様子で答えた。
「いいえ、私はこの領地の全てを見たいのです。どうか、普段通りに作業を続けてください」
クラリッサは、畑に近づいた。土を手に取り、指で揉んでみる。
土壌は完全に劣化していた。有機物がほとんど含まれず、保水力も低い。これでは、まともな作物など育つはずがない。
「毎年、収穫量が減っていくんです」
農夫が、諦めたような声で言った。
「肥料も満足に買えず、種も良いものが手に入らない。どんなに働いても、生活は苦しくなるばかりで」
クラリッサは、立ち上がって畑全体を見渡した。前世の知識が、頭の中で情報を整理していく。
連作障害だ。同じ作物を同じ畑で作り続けた結果、土壌が疲弊している。加えて、堆肥の不足で有機物が補給されていない。輪作も行われておらず、病害虫も蔓延している。
だが、これは改善できる。時間はかかるが、確実に。
「分かりました。必ず、良くします」
クラリッサの言葉に、農民たちは困惑した表情を浮かべた。若い令嬢が何を言っているのか、理解できないという顔だ。
馬車は、さらに領地を巡った。
どの畑も同じような状態だった。痩せた土地、貧弱な作物、疲弊した農民たち。家畜も痩せ細り、数も少ない。
村の中心部に着いた頃には、すでに昼を過ぎていた。
村には三十戸ほどの家があったが、どれも老朽化が進んでいる。屋根の藁は所々で剥がれ、壁には亀裂が走っていた。子供たちは痩せており、服は継ぎ接ぎだらけだ。
村長の家を訪ね、クラリッサたちは招き入れられた。
村長のトーマスは、五十を過ぎた頑健そうな男だった。だが、その顔には深い疲労の色が浮かんでいる。
「お嬢様が、わざわざこんな村まで。何か、ご用でしょうか」
「はい。領地の現状を、正確に把握したいのです。教えていただけますか」
クラリッサは、真剣な眼差しで尋ねた。
トーマスは、しばらく黙っていた。だが、やがて重い口を開く。
「正直に申し上げます。このままでは、村は持ちません」
「詳しく聞かせてください」
「収穫量は、十年前の半分以下です。それなのに、税は変わらない。いや、借金の返済のために、むしろ増えています」
トーマスの声には、怒りと絶望が混じっていた。
「村人の半分は、まともな食事が取れていません。子供たちは栄養失調で、毎年何人かが病気で死んでいきます」
「そんな」
クラリッサは、息を呑んだ。
「若者たちは、次々と村を出ていきます。王都や他の領地へ。ここに留まっても、未来がないからです」
「村長」
セバスチャンが、咎めるような声を出した。
「お嬢様に、そのような」
「いいえ、セバスチャン」
クラリッサは、執事を制した。
「事実を知らなければ、何も変えられません。村長、続けてください」
トーマスは、クラリッサをじっと見つめた。その目には、一縷の希望が宿っている。
「お嬢様は、本気で何かを変えようとしておられるのですか」
「ええ。この領地を、必ず立て直します」
クラリッサの声には、強い決意が込められていた。
「私は、今日ここに来て全てを見ました。そして、分かったのです。このままでは、本当に終わってしまうと」
トーマスの目から、一筋の涙が流れた。
「お嬢様。私たちは、もう諦めかけていました。でも、もし本当に何か変えてくださるなら」
「変えます。約束します」
クラリッサは、力強く頷いた。
村長の家を後にし、クラリッサたちは領地をさらに巡った。森、川、放牧地。全てが、荒廃していた。
夕暮れ時、屋敷に戻った。
書斎で、クラリッサはセバスチャンとヘンリーを呼んだ。二人の前に、メモ用紙を広げる。
「今日、見たものを整理しました」
クラリッサは、几帳面な文字で書かれたリストを指差した。
「問題点は、大きく分けて五つです」
「五つ、ですか」
ヘンリーが、興味深そうに身を乗り出した。若い会計係は、数字に強く、真面目な性格だった。
「第一に、土壌の劣化。連作と堆肥不足で、畑の生産性が著しく低下しています」
「確かに。昔は、もっと豊かな土だったと聞きます」
セバスチャンが、頷いた。
「第二に、農業技術の遅れ。効率的な栽培方法や、輪作の概念すらありません」
「輪作、とは?」
「作物を順番に植え替えることで、土を休ませる方法です。後ほど詳しく説明します」
クラリッサは、続けた。
「第三に、流通の問題。収穫物を適正価格で売る手段がなく、商人に買い叩かれています」
「それは、以前から問題視されていました」
ヘンリーが、帳簿を開いた。
「収穫量が減っているのに、売上はさらに減少しています。つまり、価格も下がっているということです」
「第四に、人口の流出。若い働き手が、次々と領地を離れています」
「今年だけで、十五人が出ていきました」
セバスチャンが、悲しそうに答えた。
「そして第五に、最も深刻な問題」
クラリッサは、深く息を吸った。
「借金です」
ヘンリーが、分厚い帳簿を開いた。そこには、膨大な数字が並んでいる。
「現在の借金総額は、金貨八万枚。年間収入が金貨一万五千枚ですから、その五倍以上です」
「五倍」
クラリッサは、改めてその数字に圧倒された。
「利子の支払いだけで、年間金貨四千枚。収入の四分の一以上が、利子に消えています」
「元金は、ほとんど返済できていないのですね」
「はい。このままでは、あと三年で完全に破綻します」
ヘンリーの声は、震えていた。
部屋に、重い沈黙が降りた。
セバスチャンが、ゆっくりと口を開く。
「お嬢様。私は、この家に三十年以上仕えてまいりました。先代様の時代から、衰退を見続けてきました」
老執事の目には、涙が浮かんでいた。
「正直に申し上げます。私は、もう諦めていました。この家は、終わりだと」
「セバスチャン」
「ですが、今日のお嬢様を見て、思ったのです。もしかしたら、と」
セバスチャンは、膝をついた。
「どうか、この老いぼれにも、お力添えをさせてください。お嬢様が本気で領地を立て直そうとしておられるなら、この命に代えても」
「顔を上げてください、セバスチャン」
クラリッサは、優しく執事の肩に手を置いた。
「私には、あなたの力が必要です。でも、命を賭けるなんて大げさなことではありません」
彼女は、微笑んだ。
「一緒に、この領地を良くしていきましょう。一歩ずつ、確実に」
「お嬢様」
ヘンリーも、立ち上がった。
「私も、微力ながらお手伝いさせてください。数字のことなら、お任せください」
「ありがとう、ヘンリー」
クラリッサは、二人を見回した。
「では、明日から本格的に動き出します。まずは、土壌の改良から」
「土壌の改良、ですか」
「はい。全ての基本は、土です。良い土があれば、良い作物が育つ。良い作物が育てば、収入が増える。収入が増えれば、借金を返せる」
クラリッサの目は、輝いていた。
「簡単ではありません。時間もかかります。でも、必ずできます」
「お嬢様は、どこでそのような知識を」
セバスチャンが、不思議そうに尋ねた。
「本で読んだのです」
クラリッサは、嘘をついた。前世の記憶のことは、まだ誰にも言えない。
「様々な国の農業書を読み、研究しました。そこで学んだことを、この領地で実践したいのです」
「なるほど」
ヘンリーが、感心したように頷いた。
「では、具体的には何から始めるのですか」
「まず、農民たちを集めて説明会を開きます。新しい農法について、理解してもらう必要があります」
クラリッサは、メモを取りながら続けた。
「そして、試験的に小規模な畑で新しい方法を実践します。成果が出れば、農民たちも信じてくれるでしょう」
「なるほど。いきなり全てを変えるのではなく、段階的に、ということですね」
「その通りです」
クラリッサは、立ち上がった。窓の外は、すっかり暗くなっていた。
「長い戦いになります。でも、必ず勝ちます」
彼女の横顔は、月明かりに照らされて凛々しく見えた。
その夜、クラリッサは一人、書斎に残った。
ランプの灯りの下で、彼女は詳細な計画を書き始めた。前世の知識が、次々と形になっていく。
三圃制の導入。堆肥の製造方法。輪作の年次計画。品種の選定。灌漑設備の改良。
全てを、この世界の技術レベルで実現可能な形に落とし込んでいく。魔法のない世界だからこそ、地道な積み重ねが全てだ。
ふと、ロベルトの顔が脳裏に浮かんだ。
あの冷たい目。嘲笑するイザベラ。笑い声を上げる貴族たち。
クラリッサは、ペンを握る手に力を込めた。
「見ていなさい。私を捨てたことを、必ず後悔させてあげる」
小さく呟き、彼女は再び計画書に向かった。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。荒れ果てた庭の向こうに、領地の畑が広がっている。
今は荒廃しているが、いつか必ず、豊かな黄金色の麦畑に変わる。
クラリッサは、そう信じていた。
翌朝、クラリッサは父を訪ねた。
エドウィン伯爵は、朝食を取りながら新聞を読んでいた。娘の姿を見て、顔を上げる。
「おはよう、クラリッサ。昨日の視察は、どうだったかね」
「おはようございます、父上。現状を、しっかりと把握できました」
クラリッサは、父の向かいに座った。
「そして、改革の計画を立てました。お許しをいただきたいのです」
「改革、か」
伯爵は、新聞を置いた。
「具体的には、何をするのかね」
「まず、農業技術の改善です。新しい農法を導入し、収穫量を増やします」
「新しい農法? そんなものが、本当にあるのか」
「はい。私が本で学んだ方法です。必ず成果が出ます」
クラリッサの確信に満ちた声に、伯爵は少し驚いた様子だった。
「分かった。お前に任せると言った。好きにしなさい」
「ありがとうございます」
クラリッサは、立ち上がった。
「必ず、結果を出してみせます」
父の書斎を出ると、セバスチャンが待っていた。
「お嬢様、村長に使いを出しました。明日、村の広場で説明会を開くと伝えてあります」
「ありがとう、セバスチャン。では、資料の準備をしましょう」
クラリッサは、書斎へと向かった。
長い戦いの、始まりだった。
セバスチャンとヘンリーを伴い、領地の視察へと向かう。屋敷を出てしばらくは、まだ見慣れた景色が続いていた。だが、領地の奥へと進むにつれ、その荒廃ぶりが露わになっていく。
道は轍で凸凹になり、馬車が激しく揺れた。雑草が道の両脇から侵食し、所々で通行を妨げている。かつては整備されていた用水路も、泥で詰まり機能していなかった。
「ここまで、酷いとは」
クラリッサは、窓の外を見つめながら呟いた。
畑が見えてきた。だが、それは畑と呼べるようなものではなかった。
土は痩せて灰色がかり、作物は貧弱に育っている。小麦の穂は小さく、まばらだ。雑草が畑の半分を覆い、農民たちは疲れ切った様子で草取りをしていた。
馬車が止まり、クラリッサたちは降り立った。
近くで作業をしていた農民たちが、驚いた様子でこちらを見る。領主の娘が、こんな場所に来ることなど滅多にない。
「ごきげんよう」
クラリッサは、にこやかに挨拶した。農民たちは慌てて農具を置き、頭を下げる。
「これは、お嬢様。こんな汚い場所に、わざわざ」
年老いた農夫が、恐縮した様子で答えた。
「いいえ、私はこの領地の全てを見たいのです。どうか、普段通りに作業を続けてください」
クラリッサは、畑に近づいた。土を手に取り、指で揉んでみる。
土壌は完全に劣化していた。有機物がほとんど含まれず、保水力も低い。これでは、まともな作物など育つはずがない。
「毎年、収穫量が減っていくんです」
農夫が、諦めたような声で言った。
「肥料も満足に買えず、種も良いものが手に入らない。どんなに働いても、生活は苦しくなるばかりで」
クラリッサは、立ち上がって畑全体を見渡した。前世の知識が、頭の中で情報を整理していく。
連作障害だ。同じ作物を同じ畑で作り続けた結果、土壌が疲弊している。加えて、堆肥の不足で有機物が補給されていない。輪作も行われておらず、病害虫も蔓延している。
だが、これは改善できる。時間はかかるが、確実に。
「分かりました。必ず、良くします」
クラリッサの言葉に、農民たちは困惑した表情を浮かべた。若い令嬢が何を言っているのか、理解できないという顔だ。
馬車は、さらに領地を巡った。
どの畑も同じような状態だった。痩せた土地、貧弱な作物、疲弊した農民たち。家畜も痩せ細り、数も少ない。
村の中心部に着いた頃には、すでに昼を過ぎていた。
村には三十戸ほどの家があったが、どれも老朽化が進んでいる。屋根の藁は所々で剥がれ、壁には亀裂が走っていた。子供たちは痩せており、服は継ぎ接ぎだらけだ。
村長の家を訪ね、クラリッサたちは招き入れられた。
村長のトーマスは、五十を過ぎた頑健そうな男だった。だが、その顔には深い疲労の色が浮かんでいる。
「お嬢様が、わざわざこんな村まで。何か、ご用でしょうか」
「はい。領地の現状を、正確に把握したいのです。教えていただけますか」
クラリッサは、真剣な眼差しで尋ねた。
トーマスは、しばらく黙っていた。だが、やがて重い口を開く。
「正直に申し上げます。このままでは、村は持ちません」
「詳しく聞かせてください」
「収穫量は、十年前の半分以下です。それなのに、税は変わらない。いや、借金の返済のために、むしろ増えています」
トーマスの声には、怒りと絶望が混じっていた。
「村人の半分は、まともな食事が取れていません。子供たちは栄養失調で、毎年何人かが病気で死んでいきます」
「そんな」
クラリッサは、息を呑んだ。
「若者たちは、次々と村を出ていきます。王都や他の領地へ。ここに留まっても、未来がないからです」
「村長」
セバスチャンが、咎めるような声を出した。
「お嬢様に、そのような」
「いいえ、セバスチャン」
クラリッサは、執事を制した。
「事実を知らなければ、何も変えられません。村長、続けてください」
トーマスは、クラリッサをじっと見つめた。その目には、一縷の希望が宿っている。
「お嬢様は、本気で何かを変えようとしておられるのですか」
「ええ。この領地を、必ず立て直します」
クラリッサの声には、強い決意が込められていた。
「私は、今日ここに来て全てを見ました。そして、分かったのです。このままでは、本当に終わってしまうと」
トーマスの目から、一筋の涙が流れた。
「お嬢様。私たちは、もう諦めかけていました。でも、もし本当に何か変えてくださるなら」
「変えます。約束します」
クラリッサは、力強く頷いた。
村長の家を後にし、クラリッサたちは領地をさらに巡った。森、川、放牧地。全てが、荒廃していた。
夕暮れ時、屋敷に戻った。
書斎で、クラリッサはセバスチャンとヘンリーを呼んだ。二人の前に、メモ用紙を広げる。
「今日、見たものを整理しました」
クラリッサは、几帳面な文字で書かれたリストを指差した。
「問題点は、大きく分けて五つです」
「五つ、ですか」
ヘンリーが、興味深そうに身を乗り出した。若い会計係は、数字に強く、真面目な性格だった。
「第一に、土壌の劣化。連作と堆肥不足で、畑の生産性が著しく低下しています」
「確かに。昔は、もっと豊かな土だったと聞きます」
セバスチャンが、頷いた。
「第二に、農業技術の遅れ。効率的な栽培方法や、輪作の概念すらありません」
「輪作、とは?」
「作物を順番に植え替えることで、土を休ませる方法です。後ほど詳しく説明します」
クラリッサは、続けた。
「第三に、流通の問題。収穫物を適正価格で売る手段がなく、商人に買い叩かれています」
「それは、以前から問題視されていました」
ヘンリーが、帳簿を開いた。
「収穫量が減っているのに、売上はさらに減少しています。つまり、価格も下がっているということです」
「第四に、人口の流出。若い働き手が、次々と領地を離れています」
「今年だけで、十五人が出ていきました」
セバスチャンが、悲しそうに答えた。
「そして第五に、最も深刻な問題」
クラリッサは、深く息を吸った。
「借金です」
ヘンリーが、分厚い帳簿を開いた。そこには、膨大な数字が並んでいる。
「現在の借金総額は、金貨八万枚。年間収入が金貨一万五千枚ですから、その五倍以上です」
「五倍」
クラリッサは、改めてその数字に圧倒された。
「利子の支払いだけで、年間金貨四千枚。収入の四分の一以上が、利子に消えています」
「元金は、ほとんど返済できていないのですね」
「はい。このままでは、あと三年で完全に破綻します」
ヘンリーの声は、震えていた。
部屋に、重い沈黙が降りた。
セバスチャンが、ゆっくりと口を開く。
「お嬢様。私は、この家に三十年以上仕えてまいりました。先代様の時代から、衰退を見続けてきました」
老執事の目には、涙が浮かんでいた。
「正直に申し上げます。私は、もう諦めていました。この家は、終わりだと」
「セバスチャン」
「ですが、今日のお嬢様を見て、思ったのです。もしかしたら、と」
セバスチャンは、膝をついた。
「どうか、この老いぼれにも、お力添えをさせてください。お嬢様が本気で領地を立て直そうとしておられるなら、この命に代えても」
「顔を上げてください、セバスチャン」
クラリッサは、優しく執事の肩に手を置いた。
「私には、あなたの力が必要です。でも、命を賭けるなんて大げさなことではありません」
彼女は、微笑んだ。
「一緒に、この領地を良くしていきましょう。一歩ずつ、確実に」
「お嬢様」
ヘンリーも、立ち上がった。
「私も、微力ながらお手伝いさせてください。数字のことなら、お任せください」
「ありがとう、ヘンリー」
クラリッサは、二人を見回した。
「では、明日から本格的に動き出します。まずは、土壌の改良から」
「土壌の改良、ですか」
「はい。全ての基本は、土です。良い土があれば、良い作物が育つ。良い作物が育てば、収入が増える。収入が増えれば、借金を返せる」
クラリッサの目は、輝いていた。
「簡単ではありません。時間もかかります。でも、必ずできます」
「お嬢様は、どこでそのような知識を」
セバスチャンが、不思議そうに尋ねた。
「本で読んだのです」
クラリッサは、嘘をついた。前世の記憶のことは、まだ誰にも言えない。
「様々な国の農業書を読み、研究しました。そこで学んだことを、この領地で実践したいのです」
「なるほど」
ヘンリーが、感心したように頷いた。
「では、具体的には何から始めるのですか」
「まず、農民たちを集めて説明会を開きます。新しい農法について、理解してもらう必要があります」
クラリッサは、メモを取りながら続けた。
「そして、試験的に小規模な畑で新しい方法を実践します。成果が出れば、農民たちも信じてくれるでしょう」
「なるほど。いきなり全てを変えるのではなく、段階的に、ということですね」
「その通りです」
クラリッサは、立ち上がった。窓の外は、すっかり暗くなっていた。
「長い戦いになります。でも、必ず勝ちます」
彼女の横顔は、月明かりに照らされて凛々しく見えた。
その夜、クラリッサは一人、書斎に残った。
ランプの灯りの下で、彼女は詳細な計画を書き始めた。前世の知識が、次々と形になっていく。
三圃制の導入。堆肥の製造方法。輪作の年次計画。品種の選定。灌漑設備の改良。
全てを、この世界の技術レベルで実現可能な形に落とし込んでいく。魔法のない世界だからこそ、地道な積み重ねが全てだ。
ふと、ロベルトの顔が脳裏に浮かんだ。
あの冷たい目。嘲笑するイザベラ。笑い声を上げる貴族たち。
クラリッサは、ペンを握る手に力を込めた。
「見ていなさい。私を捨てたことを、必ず後悔させてあげる」
小さく呟き、彼女は再び計画書に向かった。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。荒れ果てた庭の向こうに、領地の畑が広がっている。
今は荒廃しているが、いつか必ず、豊かな黄金色の麦畑に変わる。
クラリッサは、そう信じていた。
翌朝、クラリッサは父を訪ねた。
エドウィン伯爵は、朝食を取りながら新聞を読んでいた。娘の姿を見て、顔を上げる。
「おはよう、クラリッサ。昨日の視察は、どうだったかね」
「おはようございます、父上。現状を、しっかりと把握できました」
クラリッサは、父の向かいに座った。
「そして、改革の計画を立てました。お許しをいただきたいのです」
「改革、か」
伯爵は、新聞を置いた。
「具体的には、何をするのかね」
「まず、農業技術の改善です。新しい農法を導入し、収穫量を増やします」
「新しい農法? そんなものが、本当にあるのか」
「はい。私が本で学んだ方法です。必ず成果が出ます」
クラリッサの確信に満ちた声に、伯爵は少し驚いた様子だった。
「分かった。お前に任せると言った。好きにしなさい」
「ありがとうございます」
クラリッサは、立ち上がった。
「必ず、結果を出してみせます」
父の書斎を出ると、セバスチャンが待っていた。
「お嬢様、村長に使いを出しました。明日、村の広場で説明会を開くと伝えてあります」
「ありがとう、セバスチャン。では、資料の準備をしましょう」
クラリッサは、書斎へと向かった。
長い戦いの、始まりだった。
273
あなたにおすすめの小説
私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした
しおしお
恋愛
侯爵令嬢フィオレッタ・ランベールは、公爵令息ギルベルトとの婚約が決まっていた。
けれど、他国へ嫁ぐのが嫌だと訴える義妹カトリーヌは、可憐でか弱い姿を武器に、少しずつ周囲の心を動かしていく。
そしてついに起こる、婚約者交換。
婚約を奪われたフィオレッタは、義妹が拒んだ相手――他国アルディシア公国の公爵フェリクスのもとへ向かうことになる。
突然変えられ「他国へ嫁ぐなんて嫌ですわ」
そう泣いた義妹は、姉の婚約者を奪った。
侯爵令嬢フィオレッタ・ランベールは、公爵令息との婚約を義妹カトリーヌに奪われ、代わりに義妹が拒んだ他国の公爵へ嫁ぐことになる。
傷つきながらも静かに運命を受け入れるフィオレッタと、愛される幸せを手に入れたと信じるカトリーヌ。
だが、婚約交換から始まった二人の人生は、やがて思いもよらぬ形で分かれていく。
奪われた姉が辿り着く未来と、奪った妹が手にする結末とは――。
婚約交換から始まる、姉妹の明暗を描いた恋愛ざまぁ物語。
婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます
ふわふわ
恋愛
王太子アルヴィスの婚約者として、誰よりも完璧であることを求められてきた侯爵令嬢エレノア。
けれど卒業舞踏会の夜、彼女は突然、王太子から婚約破棄を告げられる。
隣に立っていたのは、可憐で愛らしい義妹ミレイユ。
「真実の愛」を掲げる二人に悪女として断じられたエレノアは、すべてを失った――はずだった。
しかし、王宮はなぜか急に回らなくなり、王太子と義妹は少しずつ綻びを見せ始める。
そんな中、エレノアの手腕にいち早く気づいていた冷徹公爵レオンハルトが、彼女へ手を差し伸べる。
「もう、あちらを支える必要はない」
王太子のためでも、侯爵家のためでもなく。
今度こそ自分の意思で立つために、エレノアは公爵家で新たな一歩を踏み出す。
一方、彼女を失って初めて、その価値の大きさを思い知る王太子と、奪ったはずの場所で何も支えられない義妹。
静かに、けれど確実に始まる立場逆転――。
これは、ずっと「選ばれる側」だった令嬢が、もう誰かのために自分を削るのをやめて、幸せも未来も自分で選び取る物語。
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
あなたの瞳に私を映してほしい ~この願いは我儘ですか?~
四折 柊
恋愛
シャルロッテは縁あって好意を寄せていた人と婚約することが出来た。彼に好かれたくて距離を縮めようとするが、彼には好きな人がいるようで思うようにいかない。一緒に出席する夜会で彼はいつもその令嬢を目で追っていることに気付く。「私を見て」その思いが叶わずシャルロッテはとうとう婚約の白紙を望んだ。その後、幼馴染と再会して……。(前半はシリアスですが後半は甘めを目指しています)
お妃候補に興味はないのですが…なぜか辞退する事が出来ません
Karamimi
恋愛
13歳の侯爵令嬢、ヴィクトリアは体が弱く、空気の綺麗な領地で静かに暮らしていた…というのは表向きの顔。実は彼女、領地の自由な生活がすっかり気に入り、両親を騙してずっと体の弱いふりをしていたのだ。
乗馬や剣の腕は一流、体も鍛えている為今では風邪一つひかない。その上非常に頭の回転が速くずる賢いヴィクトリア。
そんな彼女の元に、両親がお妃候補内定の話を持ってきたのだ。聞けば今年13歳になられたディーノ王太子殿下のお妃候補者として、ヴィクトリアが選ばれたとの事。どのお妃候補者が最も殿下の妃にふさわしいかを見極めるため、半年間王宮で生活をしなければいけないことが告げられた。
最初は抵抗していたヴィクトリアだったが、来年入学予定の面倒な貴族学院に通わなくてもいいという条件で、お妃候補者の話を受け入れたのだった。
“既にお妃には公爵令嬢のマーリン様が決まっているし、王宮では好き勝手しよう”
そう決め、軽い気持ちで王宮へと向かったのだが、なぜかディーノ殿下に気に入られてしまい…
何でもありのご都合主義の、ラブコメディです。
よろしくお願いいたします。
後妻の条件を出したら……
しゃーりん
恋愛
妻と離婚した伯爵令息アークライトは、友人に聞かれて自分が後妻に望む条件をいくつか挙げた。
格上の貴族から厄介な女性を押しつけられることを危惧し、友人の勧めで伯爵令嬢マデリーンと結婚することになった。
だがこのマデリーン、アークライトの出した条件にそれほどズレてはいないが、貴族令嬢としての教育を受けていないという驚きの事実が発覚したのだ。
しかし、明るく真面目なマデリーンをアークライトはすぐに好きになるというお話です。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる