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二ヶ月が経った。
試験区画の蚕豆は、順調に育っていた。青々とした葉が茂り、白い花が咲き始めている。農民たちは、その成長の早さに驚いていた。
クラリッサは、毎日のように畑に通った。朝早くから日が暮れるまで、若者たちと共に働く日々が続いた。
最初は懐疑的だった村人たちも、次第に彼女の姿勢を認めるようになっていた。貴族の令嬢が、こんなにも真剣に農業に取り組むとは、誰も予想していなかったのだ。
堆肥の山は、予想通り発酵していた。
クラリッサがその山に手を入れると、ほんのりと温かい。湯気さえ立ち上っている。
「本当に、熱を持ってる」
トマスが、驚いた声を上げた。
「言ったでしょう。見えない小さな働き手たちが、材料を分解しているのです」
クラリッサは、堆肥を掻き混ぜた。独特の匂いがするが、腐敗臭とは違う。良い発酵の匂いだ。
「これを、もう少し熟成させれば、素晴らしい肥料になります」
「お嬢様、村の者たちも興味を持ち始めています」
若い農夫の一人が、嬉しそうに報告した。
「最初は馬鹿にしていた連中も、この成長を見て、考えを変えつつあります」
「それは良かった。でも、まだ結果を出したわけではありません。本当の勝負は、これからです」
クラリッサは、試験区画を見回した。
区画Aには、春小麦の種を蒔いてある。芽が出始め、小さな緑が畑を覆っていた。区画Bの蚕豆は花盛りだ。そして区画Cは、秋の種蒔きに向けて休ませている。
全ては、計画通りに進んでいた。
その日の午後、クラリッサは村長のトーマスに呼ばれた。
村長の家に行くと、十人ほどの農民たちが集まっていた。皆、真剣な顔をしている。
「お嬢様、実は相談がありまして」
トーマスが、切り出した。
「我々も、新しい農法を試してみたいのです」
クラリッサは、驚きと喜びで目を見開いた。
「本当ですか」
「ええ。お嬢様の畑を見て、これは本物だと確信しました」
老農夫も、渋々といった様子で頷いた。
「認めよう。わしは間違っておった。あんたの方法は、確かに効果がある」
「ありがとうございます」
クラリッサは、深々と頭を下げた。
「では、説明会を開きましょう。堆肥の作り方から、丁寧にお教えします」
翌日、再び村の広場に農民たちが集まった。
今度は、ほぼ全ての世帯から人が来ている。五十人を超える人々が、クラリッサの話に耳を傾けた。
「堆肥作りで、最も大切なのは材料の組み合わせです」
クラリッサは、準備してきた図を広げた。
「緑の材料と、茶色の材料を、交互に重ねます」
「緑の材料とは?」
「新鮮な草、野菜くず、家畜の糞などです。これらは水分と栄養が豊富です」
クラリッサは、実物のサンプルを見せた。
「茶色の材料は、枯れ草、枯れ葉、藁などです。これらは繊維が豊富で、空気の層を作ります」
「空気が必要なんですか」
「はい。見えない働き手たちは、空気がないと働けません。だから、時々かき混ぜる必要があるのです」
農民たちは、熱心にメモを取っている。文字が書けない者は、隣の人に教えてもらいながら図を描いていた。
「そして、水分も大切です。握って、軽く水が滲む程度が理想的です」
クラリッサは、実際に堆肥を握って見せた。
「乾きすぎても、湿りすぎてもいけません。ちょうど良い湿り気を保つのです」
「なるほど」
トーマスが、感心したように頷いた。
「つまり、材料、空気、水分の三つが揃えば、良い堆肥ができるということですな」
「その通りです。そして、もう一つ大切なのが、時間です」
クラリッサは、続けた。
「最低でも二ヶ月、できれば三ヶ月は熟成させてください。焦らず、じっくりと待つことが大切です」
説明会の後、農民たちは早速堆肥作りを始めた。
村のあちこちに、堆肥の山ができていく。クラリッサは、一つ一つの山を見て回り、アドバイスをした。
「この山は、少し乾きすぎています。水を足しましょう」
「こちらは良い感じですね。このまま続けてください」
「材料の層が厚すぎます。もう少し薄く、交互に重ねてください」
農民たちは、クラリッサの指示に従って修正していく。
夕方、一通りの巡回を終えると、クラリッサは試験区画に戻った。
蚕豆が、見事に育っていた。もうすぐ、土に鋤き込む時期だ。
「お嬢様」
トマスが、畑の端で何かを持って立っていた。
「これを、見てください」
それは、試験区画で育てた春小麦だった。まだ若い苗だが、明らかに他の畑のものより大きく、葉の色も濃い。
「隣の畑のと、比べてみたんです」
トマスは、もう一株の小麦を見せた。こちらは小さく、葉の色も薄い。
「違いが、一目瞭然ですね」
クラリッサは、微笑んだ。
「でも、まだ始まったばかりです。本当の収穫まで、気を抜かずに育てましょう」
「はい」
トマスの目は、希望に輝いていた。
その夜、屋敷の書斎で、クラリッサはヘンリーと会計の確認をしていた。
「堆肥作りの材料費は、ほとんどかかっていません」
ヘンリーが、帳簿を指差した。
「枯れ葉や草は、村人が自分で集められます。家畜の糞も、本来は処分に困っていたものです」
「つまり、ほぼ無料で肥料が作れるということですね」
「その通りです。これまで、肥料を商人から高額で購入していましたが、それが不要になります」
ヘンリーは、興奮気味に続けた。
「年間の肥料代が、金貨百枚ほどでした。これが、ほぼゼロになるのです」
「素晴らしい」
クラリッサは、頷いた。
「でも、それだけではありません。堆肥を使えば、収穫量も増えます。つまり、支出が減って、収入が増えるのです」
「まさに、一石二鳥ですね」
二人は、顔を見合わせて笑った。
翌朝、クラリッサは試験区画で蚕豆を刈り取る作業を始めた。
花が咲き終わり、実がつき始めた蚕豆を、根ごと引き抜いていく。
「これを、細かく刻んで土に混ぜ込みます」
クラリッサは、若者たちに説明した。
「蚕豆の根には、特別な力があります。土に栄養を与えてくれるのです」
実際には根粒菌による窒素固定だが、それを説明するのは難しい。クラリッサは、できるだけ分かりやすく伝えようとした。
四人で、刈り取った蚕豆を細かく刻んでいく。それを区画Bに撒き、鋤で土に混ぜ込んだ。
「この作業、何か意味があるんですか」
若い農夫が、疑問を口にした。
「大いにあります。秋にここにライ麦を植えますが、きっと素晴らしく育ちますよ」
「本当に?」
「ええ。私を信じてください」
クラリッサの確信に満ちた声に、若者たちは頷いた。
昼過ぎ、堆肥の山を確認する時間だ。
クラリッサは、長い棒で堆肥をかき混ぜた。中心部は、まだ温かい。良い香りがする。
「もう少しで、完成ですね」
堆肥の色は、黒々としていた。サラサラとした質感で、土に混ぜるのに最適だ。
「来週には、この堆肥を区画Aに撒きましょう。春小麦の成長が、更に良くなります」
その時、村の入り口の方から、馬の蹄の音が聞こえてきた。
見ると、立派な馬車が村に入ってくる。紋章から、貴族の馬車だと分かった。
「誰だろう」
クラリッサは、眉をひそめた。
馬車が止まり、中から男が降りてきた。三十代半ばの、痩せた顔の男だ。高価な服を着ているが、どこか卑しい雰囲気がある。
「ああ、いた。フォンテーヌ伯爵令嬢だな」
男は、不快な笑みを浮かべた。
「私は、フレデリック・ウォルトン男爵だ。お前の家の債権者の一人だよ」
クラリッサの表情が、固くなった。
ウォルトン男爵。確かに、帳簿で名前を見たことがある。金貸しとして知られる、評判の悪い貴族だった。
「何の御用でしょうか」
「借金の返済だよ。今月分の利子、まだ支払われていない」
男爵は、懐から書類を取り出した。
「期限は三日前だ。遅延金も発生しているぞ」
「少々お待ちください。確認いたします」
クラリッサは、セバスチャンを呼びに走った。
屋敷に戻り、ヘンリーに確認すると、確かに支払いが遅れていた。
「すみません、お嬢様。資金繰りが厳しくて」
ヘンリーは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「仕方ありません。今ある金貨を全て持ってきてください」
クラリッサは、再び村へと向かった。
男爵は、畑の中で不機嫌そうに待っていた。その周りを、村人たちが遠巻きに見ている。
「遅いじゃないか。貴族の娘が、こんな汚い場所で何をしているんだ」
男爵は、鼻で笑った。
「畑仕事だと? 落ちぶれたものだな、フォンテーヌ家も」
クラリッサは、歯を食いしばった。屈辱的な言葉だが、ぐっと堪える。
「お待たせいたしました。こちらが、利子と遅延金です」
セバスチャンが、革袋を差し出した。
男爵は、中身を確認した。金貨の枚数を数え、満足そうに頷く。
「よろしい。では、次は来月だ。遅れないようにな」
そう言って、男爵は馬車に乗り込もうとした。だが、ふと立ち止まり、クラリッサを振り返る。
「そうそう、聞いたぞ。お前、グレイソン侯爵家の息子に捨てられたんだってな」
クラリッサの顔が、強張った。
「可哀想に。でも、当然だ。こんな貧乏家の娘など、侯爵家の嫁には相応しくない」
男爵は、愉快そうに笑った。
「せいぜい、畑仕事でも続けることだな。それが、お前には相応しい」
馬車が走り去った後、クラリッサはその場に立ち尽くした。
拳を、強く握りしめている。爪が手のひらに食い込むほど、強く。
「お嬢様」
トマスが、心配そうに近づいてきた。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫よ」
クラリッサは、笑顔を作った。だが、その目には涙が滲んでいた。
「少し、休ませてください」
彼女は、畑の端の木陰に座り込んだ。
悔しかった。あの男の言葉も、ロベルトに捨てられたことも、借金に苦しむ現状も。全てが、悔しくて仕方なかった。
だが、涙を流している暇はない。
クラリッサは、手で涙を拭った。そして、立ち上がる。
「トマス、作業を続けましょう」
「お嬢様、無理をなさらずとも」
「無理じゃないわ。私には、やるべきことがある」
クラリッサの目は、再び決意の光を取り戻していた。
「この領地を立て直す。借金を返済する。そして、私を馬鹿にした者たち全員に、見返してやる」
トマスは、その言葉に心を打たれた。
「お嬢様、俺たちは、あんたについていきます」
「ありがとう」
クラリッサは、微笑んだ。
「さあ、堆肥を撒く準備をしましょう。まだまだ、やることは山積みよ」
夕日が、畑を赤く染めていた。その光の中で、クラリッサたちは黙々と作業を続けた。
その夜、クラリッサは書斎で一人、計画を練り直していた。
借金の返済スケジュール、収穫予測、支出の削減。全てを、より厳密に計算し直す。
「まだ、足りない」
彼女は、呟いた。
「堆肥と三圃制だけでは、借金を完済するには時間がかかりすぎる」
クラリッサは、前世の知識を総動員した。もっと効率的に、もっと確実に収入を増やす方法はないか。
その時、ふと思いついた。
「輪作だ」
三圃制は、畑を三つに分けて循環させる。だが、それだけでは不十分だ。植える作物の種類を、計画的に変えていく必要がある。
穀物の後に豆類を植えれば、土が肥える。根菜を植えれば、土を深く耕してくれる。
クラリッサは、ペンを走らせた。四年サイクルの輪作計画。一年目は小麦、二年目は豆類、三年目は根菜、四年目は休閑。
これなら、土の力を維持しながら、最大限の収穫が得られる。
「よし」
クラリッサは、計画書を見つめた。
「これを、次の段階として導入しよう」
窓の外では、月が昇っていた。その光が、クラリッサの決意に満ちた横顔を照らしている。
長い戦いは、まだ続く。だが、確実に前進していた。
試験区画の蚕豆は、順調に育っていた。青々とした葉が茂り、白い花が咲き始めている。農民たちは、その成長の早さに驚いていた。
クラリッサは、毎日のように畑に通った。朝早くから日が暮れるまで、若者たちと共に働く日々が続いた。
最初は懐疑的だった村人たちも、次第に彼女の姿勢を認めるようになっていた。貴族の令嬢が、こんなにも真剣に農業に取り組むとは、誰も予想していなかったのだ。
堆肥の山は、予想通り発酵していた。
クラリッサがその山に手を入れると、ほんのりと温かい。湯気さえ立ち上っている。
「本当に、熱を持ってる」
トマスが、驚いた声を上げた。
「言ったでしょう。見えない小さな働き手たちが、材料を分解しているのです」
クラリッサは、堆肥を掻き混ぜた。独特の匂いがするが、腐敗臭とは違う。良い発酵の匂いだ。
「これを、もう少し熟成させれば、素晴らしい肥料になります」
「お嬢様、村の者たちも興味を持ち始めています」
若い農夫の一人が、嬉しそうに報告した。
「最初は馬鹿にしていた連中も、この成長を見て、考えを変えつつあります」
「それは良かった。でも、まだ結果を出したわけではありません。本当の勝負は、これからです」
クラリッサは、試験区画を見回した。
区画Aには、春小麦の種を蒔いてある。芽が出始め、小さな緑が畑を覆っていた。区画Bの蚕豆は花盛りだ。そして区画Cは、秋の種蒔きに向けて休ませている。
全ては、計画通りに進んでいた。
その日の午後、クラリッサは村長のトーマスに呼ばれた。
村長の家に行くと、十人ほどの農民たちが集まっていた。皆、真剣な顔をしている。
「お嬢様、実は相談がありまして」
トーマスが、切り出した。
「我々も、新しい農法を試してみたいのです」
クラリッサは、驚きと喜びで目を見開いた。
「本当ですか」
「ええ。お嬢様の畑を見て、これは本物だと確信しました」
老農夫も、渋々といった様子で頷いた。
「認めよう。わしは間違っておった。あんたの方法は、確かに効果がある」
「ありがとうございます」
クラリッサは、深々と頭を下げた。
「では、説明会を開きましょう。堆肥の作り方から、丁寧にお教えします」
翌日、再び村の広場に農民たちが集まった。
今度は、ほぼ全ての世帯から人が来ている。五十人を超える人々が、クラリッサの話に耳を傾けた。
「堆肥作りで、最も大切なのは材料の組み合わせです」
クラリッサは、準備してきた図を広げた。
「緑の材料と、茶色の材料を、交互に重ねます」
「緑の材料とは?」
「新鮮な草、野菜くず、家畜の糞などです。これらは水分と栄養が豊富です」
クラリッサは、実物のサンプルを見せた。
「茶色の材料は、枯れ草、枯れ葉、藁などです。これらは繊維が豊富で、空気の層を作ります」
「空気が必要なんですか」
「はい。見えない働き手たちは、空気がないと働けません。だから、時々かき混ぜる必要があるのです」
農民たちは、熱心にメモを取っている。文字が書けない者は、隣の人に教えてもらいながら図を描いていた。
「そして、水分も大切です。握って、軽く水が滲む程度が理想的です」
クラリッサは、実際に堆肥を握って見せた。
「乾きすぎても、湿りすぎてもいけません。ちょうど良い湿り気を保つのです」
「なるほど」
トーマスが、感心したように頷いた。
「つまり、材料、空気、水分の三つが揃えば、良い堆肥ができるということですな」
「その通りです。そして、もう一つ大切なのが、時間です」
クラリッサは、続けた。
「最低でも二ヶ月、できれば三ヶ月は熟成させてください。焦らず、じっくりと待つことが大切です」
説明会の後、農民たちは早速堆肥作りを始めた。
村のあちこちに、堆肥の山ができていく。クラリッサは、一つ一つの山を見て回り、アドバイスをした。
「この山は、少し乾きすぎています。水を足しましょう」
「こちらは良い感じですね。このまま続けてください」
「材料の層が厚すぎます。もう少し薄く、交互に重ねてください」
農民たちは、クラリッサの指示に従って修正していく。
夕方、一通りの巡回を終えると、クラリッサは試験区画に戻った。
蚕豆が、見事に育っていた。もうすぐ、土に鋤き込む時期だ。
「お嬢様」
トマスが、畑の端で何かを持って立っていた。
「これを、見てください」
それは、試験区画で育てた春小麦だった。まだ若い苗だが、明らかに他の畑のものより大きく、葉の色も濃い。
「隣の畑のと、比べてみたんです」
トマスは、もう一株の小麦を見せた。こちらは小さく、葉の色も薄い。
「違いが、一目瞭然ですね」
クラリッサは、微笑んだ。
「でも、まだ始まったばかりです。本当の収穫まで、気を抜かずに育てましょう」
「はい」
トマスの目は、希望に輝いていた。
その夜、屋敷の書斎で、クラリッサはヘンリーと会計の確認をしていた。
「堆肥作りの材料費は、ほとんどかかっていません」
ヘンリーが、帳簿を指差した。
「枯れ葉や草は、村人が自分で集められます。家畜の糞も、本来は処分に困っていたものです」
「つまり、ほぼ無料で肥料が作れるということですね」
「その通りです。これまで、肥料を商人から高額で購入していましたが、それが不要になります」
ヘンリーは、興奮気味に続けた。
「年間の肥料代が、金貨百枚ほどでした。これが、ほぼゼロになるのです」
「素晴らしい」
クラリッサは、頷いた。
「でも、それだけではありません。堆肥を使えば、収穫量も増えます。つまり、支出が減って、収入が増えるのです」
「まさに、一石二鳥ですね」
二人は、顔を見合わせて笑った。
翌朝、クラリッサは試験区画で蚕豆を刈り取る作業を始めた。
花が咲き終わり、実がつき始めた蚕豆を、根ごと引き抜いていく。
「これを、細かく刻んで土に混ぜ込みます」
クラリッサは、若者たちに説明した。
「蚕豆の根には、特別な力があります。土に栄養を与えてくれるのです」
実際には根粒菌による窒素固定だが、それを説明するのは難しい。クラリッサは、できるだけ分かりやすく伝えようとした。
四人で、刈り取った蚕豆を細かく刻んでいく。それを区画Bに撒き、鋤で土に混ぜ込んだ。
「この作業、何か意味があるんですか」
若い農夫が、疑問を口にした。
「大いにあります。秋にここにライ麦を植えますが、きっと素晴らしく育ちますよ」
「本当に?」
「ええ。私を信じてください」
クラリッサの確信に満ちた声に、若者たちは頷いた。
昼過ぎ、堆肥の山を確認する時間だ。
クラリッサは、長い棒で堆肥をかき混ぜた。中心部は、まだ温かい。良い香りがする。
「もう少しで、完成ですね」
堆肥の色は、黒々としていた。サラサラとした質感で、土に混ぜるのに最適だ。
「来週には、この堆肥を区画Aに撒きましょう。春小麦の成長が、更に良くなります」
その時、村の入り口の方から、馬の蹄の音が聞こえてきた。
見ると、立派な馬車が村に入ってくる。紋章から、貴族の馬車だと分かった。
「誰だろう」
クラリッサは、眉をひそめた。
馬車が止まり、中から男が降りてきた。三十代半ばの、痩せた顔の男だ。高価な服を着ているが、どこか卑しい雰囲気がある。
「ああ、いた。フォンテーヌ伯爵令嬢だな」
男は、不快な笑みを浮かべた。
「私は、フレデリック・ウォルトン男爵だ。お前の家の債権者の一人だよ」
クラリッサの表情が、固くなった。
ウォルトン男爵。確かに、帳簿で名前を見たことがある。金貸しとして知られる、評判の悪い貴族だった。
「何の御用でしょうか」
「借金の返済だよ。今月分の利子、まだ支払われていない」
男爵は、懐から書類を取り出した。
「期限は三日前だ。遅延金も発生しているぞ」
「少々お待ちください。確認いたします」
クラリッサは、セバスチャンを呼びに走った。
屋敷に戻り、ヘンリーに確認すると、確かに支払いが遅れていた。
「すみません、お嬢様。資金繰りが厳しくて」
ヘンリーは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「仕方ありません。今ある金貨を全て持ってきてください」
クラリッサは、再び村へと向かった。
男爵は、畑の中で不機嫌そうに待っていた。その周りを、村人たちが遠巻きに見ている。
「遅いじゃないか。貴族の娘が、こんな汚い場所で何をしているんだ」
男爵は、鼻で笑った。
「畑仕事だと? 落ちぶれたものだな、フォンテーヌ家も」
クラリッサは、歯を食いしばった。屈辱的な言葉だが、ぐっと堪える。
「お待たせいたしました。こちらが、利子と遅延金です」
セバスチャンが、革袋を差し出した。
男爵は、中身を確認した。金貨の枚数を数え、満足そうに頷く。
「よろしい。では、次は来月だ。遅れないようにな」
そう言って、男爵は馬車に乗り込もうとした。だが、ふと立ち止まり、クラリッサを振り返る。
「そうそう、聞いたぞ。お前、グレイソン侯爵家の息子に捨てられたんだってな」
クラリッサの顔が、強張った。
「可哀想に。でも、当然だ。こんな貧乏家の娘など、侯爵家の嫁には相応しくない」
男爵は、愉快そうに笑った。
「せいぜい、畑仕事でも続けることだな。それが、お前には相応しい」
馬車が走り去った後、クラリッサはその場に立ち尽くした。
拳を、強く握りしめている。爪が手のひらに食い込むほど、強く。
「お嬢様」
トマスが、心配そうに近づいてきた。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫よ」
クラリッサは、笑顔を作った。だが、その目には涙が滲んでいた。
「少し、休ませてください」
彼女は、畑の端の木陰に座り込んだ。
悔しかった。あの男の言葉も、ロベルトに捨てられたことも、借金に苦しむ現状も。全てが、悔しくて仕方なかった。
だが、涙を流している暇はない。
クラリッサは、手で涙を拭った。そして、立ち上がる。
「トマス、作業を続けましょう」
「お嬢様、無理をなさらずとも」
「無理じゃないわ。私には、やるべきことがある」
クラリッサの目は、再び決意の光を取り戻していた。
「この領地を立て直す。借金を返済する。そして、私を馬鹿にした者たち全員に、見返してやる」
トマスは、その言葉に心を打たれた。
「お嬢様、俺たちは、あんたについていきます」
「ありがとう」
クラリッサは、微笑んだ。
「さあ、堆肥を撒く準備をしましょう。まだまだ、やることは山積みよ」
夕日が、畑を赤く染めていた。その光の中で、クラリッサたちは黙々と作業を続けた。
その夜、クラリッサは書斎で一人、計画を練り直していた。
借金の返済スケジュール、収穫予測、支出の削減。全てを、より厳密に計算し直す。
「まだ、足りない」
彼女は、呟いた。
「堆肥と三圃制だけでは、借金を完済するには時間がかかりすぎる」
クラリッサは、前世の知識を総動員した。もっと効率的に、もっと確実に収入を増やす方法はないか。
その時、ふと思いついた。
「輪作だ」
三圃制は、畑を三つに分けて循環させる。だが、それだけでは不十分だ。植える作物の種類を、計画的に変えていく必要がある。
穀物の後に豆類を植えれば、土が肥える。根菜を植えれば、土を深く耕してくれる。
クラリッサは、ペンを走らせた。四年サイクルの輪作計画。一年目は小麦、二年目は豆類、三年目は根菜、四年目は休閑。
これなら、土の力を維持しながら、最大限の収穫が得られる。
「よし」
クラリッサは、計画書を見つめた。
「これを、次の段階として導入しよう」
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