もう、あなたには何も感じません

たくわん

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結婚式の朝は、快晴だった。

クラリッサは、手直しした淡い青のドレスに袖を通した。鏡の前で、髪を丁寧に結い上げる。装飾品は最小限に、小さな銀のブローチだけだ。

セバスチャンが、部屋のドアをノックした。

「お嬢様、馬車の準備ができました」

「ありがとう、セバスチャン」

クラリッサは、深呼吸をした。緊張しているわけではない。むしろ、冷静だった。

「行きましょう」

屋敷を出ると、磨き上げられた馬車が待っていた。古いが、丁寧に手入れされている。

馬車に乗り込み、王都へ向かう。

道中、クラリッサは窓の外を眺めていた。

自分の領地を抜けると、隣接する領地に入る。そこは、ハミルトン辺境伯領だ。イザベラの実家の領地。

畑を見ると、明らかに自分の領地より荒れている。作物の育ちも悪く、農民たちの表情も暗い。

だが、所々に、新しい農法を試している痕跡が見えた。堆肥の山があり、整然と区画分けされた畑がある。

「あの農民たちが、広めてくれているのね」

クラリッサは、小さく微笑んだ。

数週間前に訪ねてきた、ハミルトン領の農民たち。彼らが学んだ技術を、仲間に伝えているのだろう。

イザベラは知らないだろう。自分の領地で、クラリッサの農法が静かに広がっていることを。

王都に着いたのは、正午前だった。

グレイソン侯爵家の屋敷は、王都でも最も豪華な建物の一つだ。今日は、数多くの馬車が列をなしている。

クラリッサの質素な馬車は、その中で明らかに浮いていた。

馬車を降りると、次々と到着する貴族たちの視線を感じた。

ひそひそと囁く声が聞こえる。

「あれが、フォンテーヌ伯爵令嬢よ」

「婚約を破棄された、可哀想な」

「それにしても、あのドレス。随分と質素ね」

クラリッサは、背筋を伸ばして堂々と歩いた。

囁きなど、気にならなかった。

屋敷の大広間は、豪華絢爛に飾り付けられていた。

天井から吊るされた無数の花飾り。テーブルに並ぶ豪華な料理。銀の食器。クリスタルのグラス。

そして、数百人の貴族たち。

クラリッサは、広間の隅に立った。

周りの令嬢たちは、皆華やかなドレスを着ている。宝石をふんだんに身につけ、髪も凝った結い方をしている。

その中で、クラリッサの質素な装いは際立っていた。

だが、彼女は動じなかった。

「クラリッサ」

声をかけられて振り向くと、見知った顔があった。

「シャルロット」

シャルロット・ランベール子爵令嬢。幼い頃からの友人だ。

「久しぶりね。元気だった?」

「ええ、おかげさまで」

クラリッサは、微笑んだ。

シャルロットは、クラリッサのドレスを見て、少し表情を曇らせた。

「あなた、そのドレス」

「気に入らない?」

「いいえ、そんなことないわ。ただ」

シャルロットは、言葉を選んだ。

「あなたらしくないと思って。昔は、もっと華やかなドレスを着ていたのに」

「今の私には、これが相応しいの」

クラリッサは、静かに答えた。

「見栄を張るより、誠実でありたいから」

シャルロットは、クラリッサをじっと見つめた。

「あなた、変わったわね」

「そうかもしれない」

「でも、良い変化だと思う」

シャルロットは、優しく微笑んだ。

「あなたの目、以前より強くなったわ」

二人が話していると、広間がざわめいた。

新郎新婦が、入場してきたのだ。

ロベルトは、白と金の礼装に身を包んでいた。相変わらず、端正な顔立ちだ。

その隣には、イザベラがいた。

真紅のドレスに、大粒のルビーのネックレス。ダイヤモンドのティアラ。全身を宝石で飾り立てている。

美しいが、派手すぎる。品というより、財力の誇示だ。

イザベラは、得意げに周囲を見回していた。そして、クラリッサを見つける。

一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。

クラリッサは、冷静にその様子を見ていた。

何も感じなかった。怒りも、悲しみも、嫉妬も。

ただ、冷めた目で観察していた。

式が始まった。

司祭が、長々と祝辞を述べる。ロベルトとイザベラが、誓いの言葉を交わす。

クラリッサは、その全てを静かに見守った。

かつて、自分がその場所にいるはずだった。ロベルトの隣に立ち、誓いの言葉を交わすはずだった。

だが、今は何とも思わなかった。

むしろ、あの場所にいなくて良かったとさえ思った。

式が終わり、祝宴が始まった。

貴族たちが、新郎新婦を祝福する。クラリッサも、列に並んだ。

順番が来て、ロベルトとイザベラの前に立った。

「ご結婚、おめでとうございます」

クラリッサは、形式的に一礼した。

ロベルトは、複雑な表情でクラリッサを見た。

「クラリッサ、来てくれたのか」

「招待されましたから」

「そうか」

ロベルトは、何か言いたげだった。だが、隣のイザベラが腕を掴む。

「まあ、クラリッサ様。わざわざお越しいただいて」

イザベラの声には、明らかな嘲りが含まれていた。

「でも、そのドレス。随分と質素ですわね」

「気に入っていますので」

クラリッサは、平然と答えた。

「華美な装いより、誠実さの方が大切だと思いますから」

イザベラの顔が、一瞬強張った。

「まあ、そうですの。でも、社交界では見た目も大切ですわよ」

「私は、中身で勝負します」

クラリッサは、にこやかに微笑んだ。

「お幸せに」

そう言って、その場を離れた。

イザベラの不快そうな顔が、視界の端に映った。

クラリッサは、広間の隅のテーブルに向かった。

そこには、数人の年配の貴族が座っていた。その中に、見覚えのある顔があった。

「これは、フォンテーヌ伯爵令嬢」

声をかけてきたのは、ヴィクター・アルトワ子爵だった。五十代の、実務派として知られる貴族だ。

「ごきげんよう、アルトワ様」

「噂を聞いているよ。君の領地で、収穫量が大幅に増えたとか」

クラリッサは、少し驚いた。

「噂になっているのですか」

「ああ。商人たちの間で、話題になっている」

アルトワ子爵は、興味深そうに身を乗り出した。

「どんな方法を使ったのかね」

クラリッサは、簡潔に説明した。

堆肥の製造、三圃制の導入、輪作の計画。

アルトワ子爵は、真剣な表情で聞いていた。

「素晴らしい。それは、古代の農法を応用したものだな」

「ええ、様々な国の文献を研究しました」

「私も、領地経営には頭を悩ませている。ぜひ、詳しく教えていただきたい」

「喜んで」

二人は、しばらく農業の話で盛り上がった。

周りの貴族たちも、興味を持って聞き入っている。

「私の領地でも、試してみたい」

「資料をいただけないだろうか」

クラリッサは、次々と質問に答えた。

気がつくと、十人以上の貴族たちが、彼女の周りに集まっていた。

広間の反対側では、イザベラが不機嫌そうにその様子を見ていた。

自分の結婚式なのに、注目を奪われている。

「ロベルト、あの女は何をしているの」

イザベラは、苛立った声で言った。

「農業の話をしているようだ」

ロベルトは、クラリッサの方を見た。

多くの貴族たちに囲まれ、熱心に説明をしている彼女。その姿は、数ヶ月前とは明らかに違っていた。

自信に満ちている。堂々としている。

そして、美しい。

ロベルトは、胸に妙な痛みを感じた。

「ロベルト、聞いているの?」

イザベラの声が、彼を現実に引き戻した。

「ああ、すまない」

「もう。私の話を聞いていないのね」

イザベラは、拗ねた様子で腕を組んだ。

祝宴は、夕方まで続いた。

クラリッサは、多くの貴族たちと名刺を交換した。皆、彼女の農法に興味を示していた。

「フォンテーヌ令嬢、後日ぜひ我が領地を訪ねてほしい」

「資料を送っていただけないか」

「商人を紹介したい」

次々と、依頼や提案が寄せられた。

クラリッサは、それら全てを丁寧にメモした。

祝宴が終わり、帰路につく頃には、日が傾いていた。

馬車に乗り込むと、クラリッサは深く息を吐いた。

「疲れましたか、お嬢様」

セバスチャンが、心配そうに尋ねた。

「いいえ、充実していたわ」

クラリッサは、微笑んだ。

「予想以上に、多くの人が興味を持ってくれた」

「それだけ、お嬢様の手腕が認められているということです」

馬車が動き出した。

窓の外に、グレイソン侯爵家の屋敷が遠ざかっていく。

クラリッサは、その光景を静かに見送った。

ロベルトの結婚式。かつて自分がいるはずだった場所。

だが、もう何の未練もなかった。

むしろ、新しい道が開けた気がした。

多くの貴族たちとの繋がり。商人たちとの取引。広がる人脈。

これらは、領地の発展に必ず役立つ。

「セバスチャン」

「はい」

「今日は、良い一日だったわ」

クラリッサの声には、満足感が滲んでいた。

「復讐なんて、考えていたけれど」

「お嬢様?」

「もっと大切なことがあるのよ。自分の道を、確実に進むこと」

馬車は、王都を出て領地へと向かっていた。

夕日が、地平線に沈もうとしている。

その光が、畑を黄金色に染めていた。

クラリッサは、その美しい光景を見つめた。

ここが、自分の居場所だ。

華やかな社交界ではなく、この土の上で。

農民たちと共に働き、領地を豊かにする。それが、自分の使命だ。

「帰ったら、すぐに仕事ね」

クラリッサは、呟いた。

「明日は、織物職人が来る予定だわ」

セバスチャンは、そんな彼女を優しく見守った。

かつての令嬢は、もういない。

今そこにいるのは、強く、賢く、優しい領主だった。

馬車は、夕暮れの道を進んでいく。

屋敷に着いた頃には、すっかり暗くなっていた。

クラリッサは、ドレスを脱いで普段着に着替えた。

書斎に向かうと、ヘンリーが待っていた。

「お嬢様、お帰りなさいませ。式は、いかがでしたか」

「とても有意義だったわ」

クラリッサは、今日交換した名刺をテーブルに広げた。

「これらの貴族たちと、今後取引ができるかもしれない」

ヘンリーは、目を輝かせた。

「素晴らしい。人脈は、何よりの財産です」

「ええ。でも、まず実績を示さなければ」

クラリッサは、計画書を開いた。

「亜麻の栽培を成功させ、リネンの生産を軌道に乗せる。それが、次の目標よ」

二人は、深夜まで計画を練り続けた。

窓の外では、月が昇っていた。

その光が、クラリッサの決意に満ちた横顔を照らしている。

長い戦いは、まだ続く。

だが、確実に前進していた。

そして、クラリッサは気づいていた。

もう、ロベルトのことなど、どうでも良くなっていることに。

本当の幸せは、別の場所にあった。
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