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初夏の風が、亜麻畑を吹き抜けていた。
クラリッサは、青々とした亜麻の葉を見つめていた。春に植えた亜麻が、順調に育っている。この作物こそが、次の段階への鍵だった。
「お嬢様、亜麻とは何に使うのですか」
若いトマスが、好奇心に満ちた目で尋ねた。
「リネンです。高級な布の原料になります」
クラリッサは、亜麻の茎を優しく撫でた。
「小麦や野菜は食べ物ですが、亜麻は換金作物です。高値で売れるのです」
「でも、育てるのは難しいのでは」
「いいえ、実は亜麻は痩せた土地でも育ちます。そして、土を疲れさせないという利点もあります」
クラリッサは、前世の知識を総動員していた。亜麻栽培は、中世ヨーロッパで盛んに行われていた。この世界でも、高級リネンの需要は高いはずだ。
「輪作の中に、この亜麻を組み込みます。小麦、豆、亜麻、休閑。この四年サイクルです」
「なるほど」
トマスは、感心したように頷いた。
「お嬢様は、本当に何でも知っているんですね」
「そんなことはないわ。ただ、本をたくさん読んだだけよ」
クラリッサは、謙遜した。
その日の午後、王都の商人が訪ねてきた。
マルクスという名の、五十代の太った男だった。王都商人ギルドの有力者として知られている。
「フォンテーヌ伯爵令嬢にお会いしたく」
マルクスは、如才ない笑みを浮かべた。
「噂を聞きましてな。こちらの領地では、作物の収量が大幅に増えたとか」
「噂は早いものですね」
クラリッサは、客間で商人を迎えた。セバスチャンが茶を運んでくる。
「商売は情報が命でしてな。良い話があれば、すぐに飛んでくるのが商人というものです」
マルクスは、茶を一口飲んだ。
「で、その噂は本当なのですかな」
「ええ、事実です。新しい農法で、収量は一・五倍になりました」
「ほほう」
マルクスの目が、鋭く光った。
「それは素晴らしい。では、その増えた収穫物を、私に売っていただけませんかな」
「条件次第ですね」
クラリッサは、冷静に答えた。
「私は、安く買い叩かれるつもりはありません」
マルクスは、一瞬驚いた表情を見せた。若い令嬢が、こんなにも商売の話をするとは思わなかったのだろう。
「もちろん、適正価格でお買い取りします」
「適正価格とは?」
「市場価格の八割、というのはいかがでしょう」
「お断りします」
クラリッサは、即座に答えた。
「市場価格の九割。それが最低ラインです」
マルクスの顔が、強張った。
「令嬢、それは少々」
「私の作物は、品質が良いのです。通常より粒が大きく、味も良い。それに見合った価格を要求しているだけです」
クラリッサは、一歩も引かなかった。
「嫌なら、他の商人と取引します。王都の商人は、あなただけではありませんから」
二人は、しばらく睨み合った。
やがて、マルクスが折れた。
「分かりました。九割でお取引しましょう」
「ありがとうございます」
クラリッサは、にこやかに微笑んだ。
「では、契約書を作成しましょう。ヘンリー、お願いします」
会計係のヘンリーが、用意していた契約書を持ってきた。既に詳細な条項が書かれている。
マルクスは、それを読んで再び驚いた。
「これは、随分と細かい契約書ですな」
「取引は明確であるべきです。お互いのために」
クラリッサの用意周到さに、マルクスは感心した様子だった。
「あなたは、商人の娘のようだ」
「貴族だって、経営者であるべきだと思います」
「ふむ」
マルクスは、契約書に署名した。
「では、この秋の収穫を楽しみにしております」
商人が帰った後、ヘンリーが興奮した様子で言った。
「お嬢様、素晴らしい交渉でした」
「市場価格の九割なら、年間で金貨五十枚ほど多く収入が得られます」
「それは大きいわね」
クラリッサは、微笑んだ。
「でも、これで満足してはいけません。もっと良い条件を引き出せるよう、他の商人とも交渉します」
「他の商人、ですか」
「ええ。複数の商人を競わせれば、もっと良い条件が得られるはずです」
クラリッサの商才は、日に日に磨かれていった。
翌週、亜麻の種を植える作業が始まった。
領地の一角に、十区画分の亜麻畑を作る計画だ。村人たちは、初めて見る作物に戸惑いながらも、クラリッサの指示に従った。
「亜麻の種は小さいので、丁寧に蒔いてください」
クラリッサは、実演しながら説明した。
「間隔は、指二本分。密集しすぎても、離れすぎてもいけません」
「これが、本当に布になるんですか」
「ええ。茎から繊維を取り出して、糸にして、織るのです」
「難しそうですね」
「大丈夫。収穫と加工の方法も、順を追って教えます」
種蒔きは、三日がかりで終わった。
クラリッサは、王都から織物職人を招く手配をした。亜麻の加工と、リネン織りの技術を村人に教えてもらうためだ。
「職人を雇う費用は?」
ヘンリーが、心配そうに尋ねた。
「初期投資です。長期的には、村でリネンを生産できるようになれば、大きな収入源になります」
「しかし、資金繰りが」
「分かっています。でも、投資しなければ、成長もありません」
クラリッサは、決然と言った。
「借金返済のためだけに生きるのではなく、未来への投資も必要なのです」
その夜、クラリッサは父に報告に行った。
エドウィン伯爵は、書斎で書類を眺めていた。以前より表情が明るくなっている。
「クラリッサ、最近は本当によくやってくれている」
「父上、まだまだこれからです」
クラリッサは、亜麻栽培の計画を説明した。
「亜麻からリネンを作り、それを売る。年間で金貨二百枚は稼げると見込んでいます」
「二百枚」
伯爵は、目を見開いた。
「それは、現在の年間収入の」
「七分の一以上です。小麦の増収と合わせれば、年間収入は一・五倍になります」
「素晴らしい」
伯爵の目には、涙が浮かんでいた。
「お前が、ここまでやってくれるとは」
「父上、私はこの家を立て直します。必ず」
クラリッサの声には、揺るぎない決意があった。
数日後、王都から手紙が届いた。
今度は、別の商人からだった。マルクスとの取引の噂を聞いたらしい。より良い条件を提示するという内容だった。
「ヘンリー、この商人について調べてください」
「承知しました」
クラリッサは、戦略的に動き始めた。複数の商人と接触し、最も有利な条件を引き出す。
前世で学んだ交渉術が、ここで役立った。
一週間後、三人の商人と面談を終えた。
最終的に、最も良い条件を提示した商人と長期契約を結んだ。市場価格の九割五分、しかも前払いという条件だった。
「お嬢様、これは驚異的な条件です」
ヘンリーは、興奮を抑えきれない様子だった。
「通常、農民は収穫後に商人に買い叩かれます。でも、前払いなら資金繰りが楽になります」
「その資金を、さらなる投資に回すのです」
クラリッサは、計画書を広げた。
「水車の建設、製粉所の整備、織物工房の設立。全て、前払い金で賄います」
「なるほど。収入を待つのではなく、先に投資して生産性を上げるのですね」
「その通りです」
二人は、綿密な計画を練り続けた。
ある日の午後、クラリッサは村を歩いていた。
村の様子は、数ヶ月前とは明らかに違っていた。
人々の顔には、笑顔が戻っていた。子供たちは以前より健康そうで、活気がある。家々の修繕も進み、屋根や壁が補修されていた。
「お嬢様」
ある農婦が、声をかけてきた。
「おかげさまで、今年は食べ物に困らずに済みそうです」
「それは良かったです」
「本当に、ありがとうございます」
農婦は、深々と頭を下げた。
クラリッサは、胸が温かくなるのを感じた。
これだ。これこそが、自分がやりたかったことだ。
人々を幸せにすること。困っている人を助けること。
ロベルトへの復讐という動機もあるが、それだけではない。この領地の人々のために、本当に何かをしたいと思っている。
「お嬢様、こちらにも来てください」
別の家族が、クラリッサを招いた。
彼らは、収穫したばかりの野菜を見せてくれた。堆肥を使った畑で育てた、大きく立派な野菜だ。
「こんなに育つなんて、信じられません」
「素晴らしいですね」
クラリッサは、心から喜んだ。
村を一周して屋敷に戻る頃には、夕方になっていた。
書斎に入ると、セバスチャンが待っていた。
「お嬢様、これを」
彼が差し出したのは、立派な封書だった。
「ロベルト様の結婚式まで、あと一週間です」
「ああ、そうだったわね」
クラリッサは、封書を手に取った。
正式な招待状だ。グレイソン侯爵家の紋章が、金色の箔で押されている。
「ドレスの準備をしなければなりませんね」
「はい。しかし、お嬢様」
セバスチャンは、心配そうに言った。
「新しいドレスを仕立てる余裕は」
「分かっています。古いドレスを手直しして着ます」
クラリッサは、冷静に答えた。
「でも、みすぼらしくは見せません。品位を保ちながら、質素に。それが今の私たちに相応しい姿です」
「お嬢様」
セバスチャンの目には、尊敬の念が浮かんでいた。
その夜、クラリッサは自室で古いドレスを引っ張り出した。
三年前に作った、淡い青のドレスだ。流行遅れだが、生地は良質だ。
裁縫道具を持ち出し、自分で手直しを始めた。
袖を詰め、裾を整え、装飾を少し加える。貴族の令嬢が自分で裁縫をするなど、本来ならありえないことだ。
だが、クラリッサは気にしなかった。
むしろ、自分の手で何かを作り上げることに、喜びを感じていた。
夜遅くまで、針を動かし続けた。
翌朝、完成したドレスを鏡の前で合わせてみた。
完璧ではないが、十分に見栄えがする。質素ながら、品がある。
「これでいいわ」
クラリッサは、満足そうに頷いた。
結婚式当日。華やかさではなく、誠実さで勝負する。
それが、今の自分に相応しいやり方だ。
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
亜麻畑に、朝露が光っている。小さな芽が、土から顔を出していた。
全ては、順調に進んでいた。
そして、もうすぐ、ロベルトと再会する日が来る。
クラリッサは、鏡の中の自分を見つめた。
数ヶ月前の自分とは、違っていた。
目には、強い意志の光が宿っている。頬には、日焼けの跡がある。手は、畑仕事で少し荒れている。
だが、それが誇らしかった。
これは、自分が努力した証だ。
「行きましょう。堂々と」
クラリッサは、小さく呟いた。
結婚式という舞台で、新しい自分を見せる時が来たのだ。
クラリッサは、青々とした亜麻の葉を見つめていた。春に植えた亜麻が、順調に育っている。この作物こそが、次の段階への鍵だった。
「お嬢様、亜麻とは何に使うのですか」
若いトマスが、好奇心に満ちた目で尋ねた。
「リネンです。高級な布の原料になります」
クラリッサは、亜麻の茎を優しく撫でた。
「小麦や野菜は食べ物ですが、亜麻は換金作物です。高値で売れるのです」
「でも、育てるのは難しいのでは」
「いいえ、実は亜麻は痩せた土地でも育ちます。そして、土を疲れさせないという利点もあります」
クラリッサは、前世の知識を総動員していた。亜麻栽培は、中世ヨーロッパで盛んに行われていた。この世界でも、高級リネンの需要は高いはずだ。
「輪作の中に、この亜麻を組み込みます。小麦、豆、亜麻、休閑。この四年サイクルです」
「なるほど」
トマスは、感心したように頷いた。
「お嬢様は、本当に何でも知っているんですね」
「そんなことはないわ。ただ、本をたくさん読んだだけよ」
クラリッサは、謙遜した。
その日の午後、王都の商人が訪ねてきた。
マルクスという名の、五十代の太った男だった。王都商人ギルドの有力者として知られている。
「フォンテーヌ伯爵令嬢にお会いしたく」
マルクスは、如才ない笑みを浮かべた。
「噂を聞きましてな。こちらの領地では、作物の収量が大幅に増えたとか」
「噂は早いものですね」
クラリッサは、客間で商人を迎えた。セバスチャンが茶を運んでくる。
「商売は情報が命でしてな。良い話があれば、すぐに飛んでくるのが商人というものです」
マルクスは、茶を一口飲んだ。
「で、その噂は本当なのですかな」
「ええ、事実です。新しい農法で、収量は一・五倍になりました」
「ほほう」
マルクスの目が、鋭く光った。
「それは素晴らしい。では、その増えた収穫物を、私に売っていただけませんかな」
「条件次第ですね」
クラリッサは、冷静に答えた。
「私は、安く買い叩かれるつもりはありません」
マルクスは、一瞬驚いた表情を見せた。若い令嬢が、こんなにも商売の話をするとは思わなかったのだろう。
「もちろん、適正価格でお買い取りします」
「適正価格とは?」
「市場価格の八割、というのはいかがでしょう」
「お断りします」
クラリッサは、即座に答えた。
「市場価格の九割。それが最低ラインです」
マルクスの顔が、強張った。
「令嬢、それは少々」
「私の作物は、品質が良いのです。通常より粒が大きく、味も良い。それに見合った価格を要求しているだけです」
クラリッサは、一歩も引かなかった。
「嫌なら、他の商人と取引します。王都の商人は、あなただけではありませんから」
二人は、しばらく睨み合った。
やがて、マルクスが折れた。
「分かりました。九割でお取引しましょう」
「ありがとうございます」
クラリッサは、にこやかに微笑んだ。
「では、契約書を作成しましょう。ヘンリー、お願いします」
会計係のヘンリーが、用意していた契約書を持ってきた。既に詳細な条項が書かれている。
マルクスは、それを読んで再び驚いた。
「これは、随分と細かい契約書ですな」
「取引は明確であるべきです。お互いのために」
クラリッサの用意周到さに、マルクスは感心した様子だった。
「あなたは、商人の娘のようだ」
「貴族だって、経営者であるべきだと思います」
「ふむ」
マルクスは、契約書に署名した。
「では、この秋の収穫を楽しみにしております」
商人が帰った後、ヘンリーが興奮した様子で言った。
「お嬢様、素晴らしい交渉でした」
「市場価格の九割なら、年間で金貨五十枚ほど多く収入が得られます」
「それは大きいわね」
クラリッサは、微笑んだ。
「でも、これで満足してはいけません。もっと良い条件を引き出せるよう、他の商人とも交渉します」
「他の商人、ですか」
「ええ。複数の商人を競わせれば、もっと良い条件が得られるはずです」
クラリッサの商才は、日に日に磨かれていった。
翌週、亜麻の種を植える作業が始まった。
領地の一角に、十区画分の亜麻畑を作る計画だ。村人たちは、初めて見る作物に戸惑いながらも、クラリッサの指示に従った。
「亜麻の種は小さいので、丁寧に蒔いてください」
クラリッサは、実演しながら説明した。
「間隔は、指二本分。密集しすぎても、離れすぎてもいけません」
「これが、本当に布になるんですか」
「ええ。茎から繊維を取り出して、糸にして、織るのです」
「難しそうですね」
「大丈夫。収穫と加工の方法も、順を追って教えます」
種蒔きは、三日がかりで終わった。
クラリッサは、王都から織物職人を招く手配をした。亜麻の加工と、リネン織りの技術を村人に教えてもらうためだ。
「職人を雇う費用は?」
ヘンリーが、心配そうに尋ねた。
「初期投資です。長期的には、村でリネンを生産できるようになれば、大きな収入源になります」
「しかし、資金繰りが」
「分かっています。でも、投資しなければ、成長もありません」
クラリッサは、決然と言った。
「借金返済のためだけに生きるのではなく、未来への投資も必要なのです」
その夜、クラリッサは父に報告に行った。
エドウィン伯爵は、書斎で書類を眺めていた。以前より表情が明るくなっている。
「クラリッサ、最近は本当によくやってくれている」
「父上、まだまだこれからです」
クラリッサは、亜麻栽培の計画を説明した。
「亜麻からリネンを作り、それを売る。年間で金貨二百枚は稼げると見込んでいます」
「二百枚」
伯爵は、目を見開いた。
「それは、現在の年間収入の」
「七分の一以上です。小麦の増収と合わせれば、年間収入は一・五倍になります」
「素晴らしい」
伯爵の目には、涙が浮かんでいた。
「お前が、ここまでやってくれるとは」
「父上、私はこの家を立て直します。必ず」
クラリッサの声には、揺るぎない決意があった。
数日後、王都から手紙が届いた。
今度は、別の商人からだった。マルクスとの取引の噂を聞いたらしい。より良い条件を提示するという内容だった。
「ヘンリー、この商人について調べてください」
「承知しました」
クラリッサは、戦略的に動き始めた。複数の商人と接触し、最も有利な条件を引き出す。
前世で学んだ交渉術が、ここで役立った。
一週間後、三人の商人と面談を終えた。
最終的に、最も良い条件を提示した商人と長期契約を結んだ。市場価格の九割五分、しかも前払いという条件だった。
「お嬢様、これは驚異的な条件です」
ヘンリーは、興奮を抑えきれない様子だった。
「通常、農民は収穫後に商人に買い叩かれます。でも、前払いなら資金繰りが楽になります」
「その資金を、さらなる投資に回すのです」
クラリッサは、計画書を広げた。
「水車の建設、製粉所の整備、織物工房の設立。全て、前払い金で賄います」
「なるほど。収入を待つのではなく、先に投資して生産性を上げるのですね」
「その通りです」
二人は、綿密な計画を練り続けた。
ある日の午後、クラリッサは村を歩いていた。
村の様子は、数ヶ月前とは明らかに違っていた。
人々の顔には、笑顔が戻っていた。子供たちは以前より健康そうで、活気がある。家々の修繕も進み、屋根や壁が補修されていた。
「お嬢様」
ある農婦が、声をかけてきた。
「おかげさまで、今年は食べ物に困らずに済みそうです」
「それは良かったです」
「本当に、ありがとうございます」
農婦は、深々と頭を下げた。
クラリッサは、胸が温かくなるのを感じた。
これだ。これこそが、自分がやりたかったことだ。
人々を幸せにすること。困っている人を助けること。
ロベルトへの復讐という動機もあるが、それだけではない。この領地の人々のために、本当に何かをしたいと思っている。
「お嬢様、こちらにも来てください」
別の家族が、クラリッサを招いた。
彼らは、収穫したばかりの野菜を見せてくれた。堆肥を使った畑で育てた、大きく立派な野菜だ。
「こんなに育つなんて、信じられません」
「素晴らしいですね」
クラリッサは、心から喜んだ。
村を一周して屋敷に戻る頃には、夕方になっていた。
書斎に入ると、セバスチャンが待っていた。
「お嬢様、これを」
彼が差し出したのは、立派な封書だった。
「ロベルト様の結婚式まで、あと一週間です」
「ああ、そうだったわね」
クラリッサは、封書を手に取った。
正式な招待状だ。グレイソン侯爵家の紋章が、金色の箔で押されている。
「ドレスの準備をしなければなりませんね」
「はい。しかし、お嬢様」
セバスチャンは、心配そうに言った。
「新しいドレスを仕立てる余裕は」
「分かっています。古いドレスを手直しして着ます」
クラリッサは、冷静に答えた。
「でも、みすぼらしくは見せません。品位を保ちながら、質素に。それが今の私たちに相応しい姿です」
「お嬢様」
セバスチャンの目には、尊敬の念が浮かんでいた。
その夜、クラリッサは自室で古いドレスを引っ張り出した。
三年前に作った、淡い青のドレスだ。流行遅れだが、生地は良質だ。
裁縫道具を持ち出し、自分で手直しを始めた。
袖を詰め、裾を整え、装飾を少し加える。貴族の令嬢が自分で裁縫をするなど、本来ならありえないことだ。
だが、クラリッサは気にしなかった。
むしろ、自分の手で何かを作り上げることに、喜びを感じていた。
夜遅くまで、針を動かし続けた。
翌朝、完成したドレスを鏡の前で合わせてみた。
完璧ではないが、十分に見栄えがする。質素ながら、品がある。
「これでいいわ」
クラリッサは、満足そうに頷いた。
結婚式当日。華やかさではなく、誠実さで勝負する。
それが、今の自分に相応しいやり方だ。
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
亜麻畑に、朝露が光っている。小さな芽が、土から顔を出していた。
全ては、順調に進んでいた。
そして、もうすぐ、ロベルトと再会する日が来る。
クラリッサは、鏡の中の自分を見つめた。
数ヶ月前の自分とは、違っていた。
目には、強い意志の光が宿っている。頬には、日焼けの跡がある。手は、畑仕事で少し荒れている。
だが、それが誇らしかった。
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「行きましょう。堂々と」
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結婚式という舞台で、新しい自分を見せる時が来たのだ。
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